【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「英国王のスピーチ」

2011-02-26 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

吃音の王様なんて、ユニークなところに目をつけるわね。
しかも、実在した国王。
いまのイギリス女王エリザベス2世の父、ジョージ6世。
たしかに、国王っていえば演説をするのが仕事だもんな。吃音じゃ困っちゃう。
まだまだ、映画のテーマはあるってことよね。
そこで言語療法士が登場するんだけど、こいつがいかにもうさんくさい。
かつて大英帝国の一部だったオーストラリアなまりの男が、英国王の吃音を治療するっていう皮肉。
ジェフリー・ラッシュが相変わらずいい味を出してる。
英国王を演じるのは、コリン・ファース。彼がまた、皇室育ちの堅物でひ弱い男を好演している。
彼には兄がいて、その兄が王になるから自分はならなくていいっていう立場だったはずなんだけどね。
そのお兄さんが市井の女と恋に落ちて、あっさり王位を投げ出してしまう。
相手の女が傍目にも魅力的に見えないのがまた、おかしい。
あんな女のために王位を捨てる?って思うんだけど、そこがまた、イギリスらしくておもしろい。
コリン・ファースとジェフリー・ラッシュの掛け合いなんて、ほとんどM-1グランプリだ。
っていっても、コメディじゃなくて、あくまで真面目な映画。
イギリス王室映画らしい格調の高さはさすが。
王座をはさんでコリン・ファースとジェフリー・ラッシュがことばの応酬をするクライマックスなんて、迫力満点。息もできない。
とうとうジェフリー・ラッシュはコリン・ファースがどうしても言えなかった決定的なひとことを引き出す。
作戦勝ちよね。
言語療法士というより、もうほとんど英国王の陰の参謀だ。
ピーター・イェーツのイギリス映画「ドレッサー」を思い出した。あれもわがままな大俳優を御する付き人の話。
そんな紆余曲折の果てだから、国民へ向けて第2次世界大戦開戦のスピーチをするコリン・ファースには、ハラハラしながらも感動してしまう。
ラジオから流れてくる彼の声を聞く民衆の姿がまた絵になっている。細かいカットバックで一瞬、一瞬しか映らないんだけど、彼らの表情が半端じゃなく、王のことばに耳を傾ける英国民そのままになりきっている。
そういうところにまで、まったく手を抜いていない映画だってことだよな。
英国らしい、いい意味でコンサバティブな映画。アカデミー賞が待ち遠しくなってきたわ。


「ヒアアフター」

2011-02-21 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

「臨死体験」とか「来世」とか、スピリチュアルな世界って、どんな巨匠が撮っても珍品になっちゃうことが多いんだけど。
最近でいえば、「ロード・オブ・ザ・リング」のピーター・ジャクソン監督が撮った「ラブリーボーン」みたいにな。
「ヒアアフター」も、死者との交信ができる男、死後の世界を覗いてしまった女、死んだ兄弟に会いたいと思っている少年という3人の物語だから、相当珍品といえば珍品なんだけど、イーストウッドが撮るとなんか格調が出てきちゃうのよねえ。
これみよがしとか、あざといところがないからね。
そう、最近のイーストウッドの映画って、さっぱりと洗濯したジャケットみたいにさらさらで、本来映画監督という人種が持ってしまうあざとさを感じさせるところがまったくない。
冒頭の津波のシーンとか、地下鉄の爆破シーンとか、相当派手なシーンもあるんだけど、見終わった印象は、実に淡々と事が運んだっていう感じがする。
観ていてストレスを感じさせないのは、ゆったりと移動するカメラワークとか、イーストウッド自身が担当した音楽とか、こざっぱりした俳優陣とか、そんなところに秘密があるのかしら。
それって、まるで、大林宣彦の特徴じゃない?
彼は、まだまだあざとい見せ方してるわよ。
悲しそうな顔つきの子役を選ぶのは、どういう志向なんだろうな。
チェンジリング」のときも相当悲しそうな顔つきの子役を選んでいたけど、今回はそれ以上。
役柄がそうだといえば、そうかもしれないけど、何か、イーストウッドの好みを垣間見たような。
マット・デイモンももともと悪い役者じゃないけど、こんないい役者だったっけ、っていう感じだしね。
あざとい演技じゃないから、アカデミー賞は獲れないけどな。
ラストのギミックだけがあざといといえばあざといんだけど、囚われた思いから解き放たれた象徴として、素直に祝福してあげなくちゃいけないのかもしれないわね。
「だいじなのは、死んでからじゃなく、いまを生きることなんだよ」って教えてもらったあとだからね。
それも、じつにあっさりとした教え方でね。
そう、どのエピソードがそうだったのか、見逃すくらい、あっさりと。



「太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男」

2011-02-15 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

サイパン陥落後も山の中に閉じこもってがんばった日本兵の物語。
あなた、戦争映画なんて興味あったっけ?
イーストウッドの「硫黄島からの手紙」みたいなのかなあと思って観に行ったんだけど。
あれに比べるとどうも・・・って思ってるんでしょ?でも、イーストウッドと平山秀幸監督を比べちゃあかわいそうよ。平山監督だって、いつもの調子を崩さず、誠実にがんばってたじゃないの。
US監督っていうのもいるから、純粋に平山監督の映画じゃなかったみたいだけど、戦闘シーンの迫力なんて、近頃の日本映画にないほど、本格的だった。
色を抑えた映像は、「硫黄島からの手紙」を思い出させる瞬間もあったし。
主演の竹野内豊も、渡辺謙と比べると非力に見えちゃうけど、彼なりにがんばってた。
もともとは社会の先生だっていう設定だけど、そう思わせる雰囲気を持ってるわよ、竹野内豊は。
いかにも帝国軍人ていう感じじゃないのがよかった。風にそよぐ葦のような男だから、部下や住民を引き連れて抵抗を続けることができたのだろうと思わせる部分もある。
神出鬼没の彼は、「フォックス」っていうあだ名でアメリカ軍から恐れられる存在になる。
と言っても、戦術的な才能があって敵をきりきり舞いさせたっていうふうにも見えない。
いくつか、アメリカ軍の裏をかくようなできごともあるんだけど、それほど驚くような作戦があったわけでもないしね。
なにか、敵が勝手にイメージをつくりあげちゃったっていう感じだよな。
日本びいきのアメリカ人がいきなり将棋を持ち出してきて、コマの動きに日本人の精神性をなぞらえたりしてね。
なんだか、異国趣味のハリウッド映画が考えそうな日本人観。
ああいうエピソードって、撮っててこそばゆくなかったのかな。
そんな精神性の話より、どうやって食料を手に入れたとか、どうやって人々をまとめあげたとか、サバイバル生活の厳しさをきっちり描いてほしかったな。
捕虜収容所の警備がゆるゆるなんだけど、そんなものなのかしら。
捕虜だろうが、捕虜じゃなかろうが、戦争が終わってしまえばたいした違いないんだろう。
戦勝国アメリカからみれば、日本人の抵抗なんて、いくらがんばったって、しょせんは負け犬の遠吠えに過ぎなかったっていうところね。
その空しさをきっちり描いてくれないと、映画自体が空しくなる。




「ザ・タウン」

2011-02-09 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

「ザ・タウン」って、どこ?
ちゃんと映画観てた?何度も出てきたぜ、ボストンのチャールズタウンって。
マッちゃんもハマちゃんもいなかったけどね。
それは“ダウンタウン”だ。こっちは、チャールズタウン。
お笑いとは関係なかった。
笑いもひきつるコワい街だからな。なにしろ、全米一、銀行強盗発生率の高い街だ。
「チャールズタウンには善良な人も住んでいます」的なテロップが最後に流れるけど、そういう言い訳のテロップを流さなくちゃいけないほど、コワい街だっていうことよね。
コワい街だけど、現地でそのままロケしたんだろうな。街の雰囲気がそこここに出ている。
この街で育ち、銀行強盗を生業にしている主人公が、あろうことか、強盗に入った銀行の女性副支店長と恋に落ちてしまう。
もちろん、彼女のほうは彼の正体を知らないんだけどね。
この稼業から足を洗い、彼女と一緒にこの街を抜けるのが、彼の夢になる。
ところが仲間たちは、それを許さない。さて、二人の運命はどうなるか。
…って、あらすじを追っていくと、ギャング映画というより恋愛映画じゃないかと思えてくる。
派手な銃撃戦もあって、ギャング映画には違いないんだけど、ドラマもきっちりからんできて、そういう意味ではいたって古典的なつくりの映画だ。
雑然とした街が醸し出す魅力とうらはらに、こんな街、一刻も早く出たいだろうなあという気分もわからないではない。だから、主人公は明らかな犯罪者なのに、どこかしら共感したくなる自分がいる。
そんな気分もプラスして、ささくれた男たちの闊歩する物語にしては、ある種奥ゆかしさが漂う映画になっている。
監督、主演を兼ねたベン・アフレックの資質もあるのかもしれないわね。
正義感の強い俺には、ラストにちょっとひっかかるところもあるけど、そんな終わり方もありかな。
へ?あなたに正義感があるなんて、初めて知った。
俺も。
いずれにしても、勧善懲悪の終わり方とは違うわね。
かといって、悪は栄えるっていう映画でもない。
なにしろ、そういう人間たちがたむろする「街」がほんとの主人公の映画だからね。

「ジーン・ワルツ」

2011-02-05 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

また出た、「だらだらエンディング症候群」。
だらだらエンディング症候群?
ドラマは終わっているのに、名残惜しそうにだらだらと映像を垂れ流す映画の終わり方。立つ鳥あとを濁さず、っていうけど、どうして、こういうフンを垂れ流すような終わり方が多いんだろう、最近の日本映画には。
たしかにドラマが終わったあとも、映画はその後の関係者の姿を主題歌とともに延々と映す。でも、それって余韻を大事にしているんじゃないの?あるいはその後の彼らの姿を見てほしいという親心。
観客じゃなくて、制作者側の余韻だろ。その後の彼らの姿だって、映画の中に出てくる写真と同じように、それぞれスナップショットに凝縮させれば伝わるようなものだ。あとは観客の想像力にまかせてほしい。
でも、観ているほうだって、耳触りのいい音楽に身を任せることで気持ちよく映画館を出られる。
そりゃ、主題歌は、小田和正だ。歌を聴いているぶんには気持ちいいだろうさ。だけど、絵解きのような映像とあいまってだらだら流されたんじゃ、せっかくの映画が台なしだ。どうして、もっときりっと終わらせることができなかったんだろう。
だから、余韻よ、余韻。
っていうか、ここまで描写しなくちゃ伝わらないだろうっていう、自信のなさの表れ?画龍点睛を欠いた。
ってことは、エンディングまでは満足できる映画だったってこと?
チーム・バチスタの栄光」や「ジェネラル・ルージュの凱旋」の海堂尊原作の映画化だから何か事件が起こってその犯人探しをするのかと思ったら、そういうミステリー映画ではなかった。
子どもを産むとは、どういうことか。いろんな事情を抱えた妊婦を登場させて考えさせる。
それだけに総花的になってしまって、もっと焦点を絞って深掘りしてもよかったとは思うけれど、嵐の夜に全員が一か所に揃って右往左往するなんて、演劇的でおもしろかった。
しかも、そこに登場するのが御大、浅丘ルリ子。
鬼気迫る白塗り姿。大迫力でしずしず登場して、一気に場面をさらう。もっと思いっきりあの顔のアップにこだわってもよかったくらいだ。
それは、女優のプライドが許さない。
どういう意味?
わからないけど。
映像的には、病気の赤ちゃんを産んだ夫婦が写真を撮ってもらうシーンがいちばん密度があったな。
写真を撮るだけのシーンなのに、映画のカメラは揺れ続けるし、カットもわざとザリッとつなげて、ドキュメンタリーに近い撮り方で気持ちの動きをそのまま映画に収めている。
あの緊張感に比べて、ラストの弛緩した映像は何?
ああ、結局そこへ行くのね、あなたは。
最後が大事だぞ、映画も人間も。