【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

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「ジェイン・オースティン 秘められた恋」:道灌山下バス停付近の会話

2009-11-28 | ★草63系統(池袋駅~浅草雷門)

この銅像、木陰で思索するなんてジェイン・オースティンみたいね。
「ジェイン・オースティン 秘められた恋」を観ると、たしかに彼女は始終緑豊かな森の中を散歩している。
18世紀のイギリスのハンプシャーを舞台に、そこで出会った青年とジェイン・オースティンとの恋の顛末。
いまの感覚でとらえると、どうということもないラブ・ストーリーなんだけど、18世紀の昔から結局、世の中、金だったのかと思うとがっかりする部分もある。
彼女の生家が貧しくて、両親はなんとか金のある男に嫁がせようとするんだけど、恋をしたのはお金のないほうの青年。
貧しいって言ったって、立派な家に住んでいるんだから、我々日本人からみたら贅沢なもんだけどな。
今も昔もよくあるパターンで、お金がない男に惚れちゃったのが運のツキ、と言っちゃあ身もふたもないけど、ジュリアン・ジャロルド監督は奇をてらわず、端正に描いているから、観ていてロマンチックな気分に浸ることができるのは事実ね。
事実どうかはわからないけど、ジェイン・オースティン自身の恋の話だから、まるで彼女の書いた小説を映画化したような趣がある。
というか、小説のほうがジェイン・オースティン自身の体験をもとにしているってことなんじゃないの?
なぜ、彼女の小説がハッピー・エンドなのかも、この映画を観るとよくわかるしな。
平明にドラマ化しているから、あなたが毎回こだわる、映画的に突出した瞬間っていうのはないけど、観ていて悪い気はしない。
たしかに、この物語で監督が作家性を前面に押し出したら、無残な映画になっていたかもしれないな。冒険しないことが冒険っていう場合もある。
主演のジェイン・オースティン役に、イギリス人女優ではなく、アメリカ人のアン・ハサウェイを持ってきたところが冒険といえば、冒険かしら。
でも、彼女を持ってきて正解だったんじゃないか。元気で華のある映画になった。
そうね、周りをジェームズ・クロムウェルとかマギー・スミスといった渋い名優で固めているから、主演の男女はこれくらい華やかなほうがちょうど釣り合いがとれてよかったのかも。
男の役はジェームズ・マカヴォイ。金のある貴族より、女はやっぱりこっちに惚れちゃうよな、というだけのオーラはある。
金がなくて、容貌もイマイチの男とばっかり巡り合っている身からすれば、どっちでもいいけどね。
ん、その男って誰のことだ?





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「脳内ニューヨーク」:千駄木三丁目バス停付近の会話

2009-11-25 | ★草63系統(池袋駅~浅草雷門)

こんなところに帽子屋があるとは知らなかったな。ひとつ、新調するか。
あなたの場合、帽子よりそれを被る脳ミソを新調したほうがいいんじゃないの?
ああ、どうせ俺の脳の中はフニャフニャよ。
きっと、ぬるま湯のお風呂に浸かっているようなもんよね。
そう、脳内入浴・・・って、それを言わせたかったわけだ、お前は。
でも、チャーリー・カウフマン監督の「脳内ニューヨーク」は、水風呂か、ぬるま湯か、はたまた熱湯風呂か、よくわからない映画だったわ。
何しろ、ニューヨークで暮らす人々の生活をそっくりそのまま演劇に再現しちゃおうっていう劇作家の話だからな。
そのために、巨大なドームの中にニューヨークの街並みまで再現してしまう。
何十年もかかって演劇の完成をめざすんだけど、その年月の間には、実生活にもいろいろ変化が起こって、その度に演劇のほうも修正させられるから、いつまで経っても完成しない。
そもそも、この演劇、完成したとして誰が観るの?観客席もなければ、一望できるところもない。
おもしろくないだろうことも目に見えている。
つまり、劇作家の自己満足。
そのうち、作家自身を演じる俳優も登場してきて、その俳優に自分の人生を投影するうちに、わけがわからなくなってくる。
アイデンティティの喪失ってわけね。
劇作家が求めていたのは、結局、私は誰?っていうアイデンティティだったんだろうけどね。
それって、形はさまざまでも、古今東西いろんな映画のテーマになっていたことじゃない。
そう。こういうテーマになると、いきなり映画の評判がよくなるんだけど、そのわりに一般人が観てもあまりおもしろくない。
自分を投影する人物がいなくなっちゃうからね。
チャーリー・カウフマンって、前々から「マルコビッチの穴」とか「エターナル・サンシャイン」とか、“脳内映画”とでも呼びたいような、一風変わった映画の脚本を書いてきた人だけど、初めて監督も手がけて、とうとう自分の趣味が全開になった。俺のように明晰な頭脳でもついていけない地点まで行ってしまった。
あなたのように、“フニャフニャな頭脳”ではついていけない地点でしょ。
あれ?じゃあ、お前はついていけたのか。
私はチャーリー・カウフマンじゃないし。
そうだな、本人以外誰もついていけないかもしれないな。
なにしろ、“脳内”で起きてることだからね。





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「イングロリアス・バスターズ」:団子坂下バス停付近の会話

2009-11-21 | ★草63系統(池袋駅~浅草雷門)

ここね、乱歩の「D坂殺人事件」の舞台になった団子坂は。
「D人殺人事件」の舞台になったのは、フランスだけどな。
D人殺人事件?なに、それ。
「イングロリアス・バスターズ」の日本題名。
誰がいつ、つけたの、そんなけったいな題名。
俺がいまつけた。
そうよね、ひどいタイトルだもんね。だいたい、D人って誰?
ドイツ人。ドイツ人のD。
たしかにドイツ人を狙う一味の話ではあるけれど、ターゲットはナチよ。第2次世界大戦中に、フランスを舞台にナチの暗殺を謀る連合国の荒くれたちの物語なんだから。
彼らこそ、人呼んで、イングロリアス・バスターズ。監督はQさま。
ああ、クエンティン・タランティーノのことね。何でもイニシャルにしちゃうわけ、あなたは?
Qさまがいやなら、タラちゃんでもいいぜ。
そんな、人の名前で遊ばないの。
なに、言ってるんだよ、タラちゃんの映画は遊びだぜ、遊び。
それは、そうね。出世作の「パルプ・フィクション」から「グラインド・ハウス」に至るまで、すべて遊び。遊びの魅力。
今回も、いきなり「アラモ」の音楽から始まるぶっ飛びよう。
草原の一軒家にナチの車が忍び寄るところから、ああ、今度は戦争映画で西部劇をしようとしてる、ってもうニヤニヤ、ワクワク。
屈指の名作「3時10分、決断のとき」に引き続き、今年の洋画は西部劇でワン・ツー・フィニッシュかと期待感がいやでも盛り上がる。
ところが、ブラッド・ピット率いる連合国のバスターズが出てくると、そのテンションがいまひとつ停滞しちゃう。
いや、テンションは上がるんだけど、「バーン・アフター・リーディング」みたいな妙にしらけるところのある上がり方なんだよなあ。
ブラッド・ピットって、「ベンジャミン・バトン」で二枚目系に戻ったって喜んでいたのに、また、おバカ系になっちゃたわね。おバカ系のブラッド・ピットって、どうも乗り切れないんだけど。
じゃあ、これ、喜劇なの、っていうと、どこか真剣な部分もあってそうとも言い切れないしな。
タラちゃんは遊びの魅力って言ったけど、この映画にはちょっと違う部分もあるのよね。
ブラッド・ピットは、つかまえたナチに一生消えない傷を与えるんだけど、これがどうにも生々しく、ナチに対する世界の憎悪を象徴するみたいで、ああ、そういうことも実際にあるかもしれないという感慨に耽ってしまう。
歴史とか社会に思いをはせるなんて、今までのタラちゃんの映画を観ている中では考えられなかったことよね。
一方で、ナチに家族を殺された少女が復讐を果たそうとする話もからんでくるんだけど、これがまた陰惨な最後を迎える。
ナチというより、ロシアの学校の体育館を占拠したテロリストの悲劇的な事件をほうふつとさせるような展開で、これまた、映画は遊びと割り切ってしまえない現実味を感じさせてしまう。
しかも、この二つの話が交わらないまま、最後まで行ってしまうので、娯楽映画としてこじんまりとまとまることができず、この世界の残酷で複雑怪奇な在りようという、ざらざらとした感触が残ってしまう。
タラちゃんらしく、映画のフィルムや映画館もかつぎ出して、いつものように一生懸命遊んでいるんだけど、出来上がりは妙な社会派映画になっちゃった。
それを、タラちゃんがおとなになったと見るか、こども心を失いかけていると見るか、微妙なところだな。
CMでのタラちゃんは、おとなになってたけどね。
それは、サザエさんのタラちゃんだろ。





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「千年の祈り」:千駄木一丁目バス停付近の会話

2009-11-18 | ★草63系統(池袋駅~浅草雷門)

「塩が砂糖に似ているように、見かけだけでは分からない」とは、含蓄のあることばだな。
中国にだって、含蓄のあることばは、いっぱいあるわよ。
たとえば?
「同じ舟に乗り合わせるならば百世もの前世の縁がある。枕を共にして眠るのであれば千世もの縁がある」
ウェイン・ワン監督の新作「千年の祈り」に出てくることわざじゃないか。
そう。人と人の出逢いは、運命でもなければ、偶然でもない。長く深い縁の末の必然だってこと。
俺とお前の出会いにも、そんな深い縁があったのか。
私たちの場合は、“深い”というより“不快”に近いけどね。
「千年の祈り」に出てくる娘も、父親が12年ぶりに中国からやってきたというのに、歓迎というより不快に近い態度で接する。
夫と別れ、アメリカで一人暮らしを送る娘の行く末を案じた老父が中国から来るところから始まる物語。心の傷を父親に見せまいと意地を張る娘の気持ちもわからないでもない。
一方で、過剰に娘を心配する父親の気持ちもわからないでもない。
結局、二人は一つ屋根の下に住みながら、ほとんど会話を交わすことがない。
中国から来た父親は、近所の公園のベンチで、イラン人の中年女性と世間話をするくらいしかすることがない。
片や中国語、片やペルシャ語が母国語で、二人とも英語は片言しか話せないんだけどね。
だから、会話が成り立たないかというと、赤の他人のほうが父と娘以上に、気持ちが伝わる。
交わされるのは簡単な単語の羅列で、文章になるとそれぞれが母国語で話すから詳しい事情はお互いわからないんだけど、それでも十分に気持ちは通じ合うっていうのが、おもしろいわよね。
片言になるとほんとうに大事なことしか伝えられないから、それだけことばの向こう側にある思いをお互いに汲み取ろうとするのかもしれない。
さもありなん、って納得させるだけの人間味がここにはたしかにある。
阿部寛主演の映画「青い鳥」で吃音の教師が、「吃音だから大事なことしか言わない」って宣言して、生徒たちの気持ちを引き付けたようなものかな。
原作はイーユン・リー。北京で生まれ、渡米した女性作家。
映画のスタッフは、香港出身の監督、中国を離れた主演俳優、日本人プロデューサーの組み合わせ。だからこそ、嘘の感じられない情感豊かな映画にできあがったのかもしれない。
それこそ、千世の縁ってわけね。
言ってみれば、父娘もの、広げたところで隣人ものの、わずか83分の映画に過ぎないんだけど、心の奥を刺激するという意味では、ドラマチックな大作にも負けない映画だった。
ジャンルはまったく違うけど、構えのささやかさとその奥に隠れた味わいでは、「グラン・トリノ」に通じる映画かもしれない。
老人が主人公だしな。
そう、そう、あの中国の老父。やっぱり、年輪を重ねた佇まいには、かなわないわ。
演じるのは、オー・ヘンリー。
違う、違う。オー・ヘンリーじゃ「最後の一葉」の作者になっちゃうじゃない。演じているのは、ヘンリー・オーよ。
どっちだってたいして変わらないさ。人生の機微を感じさせるという意味においては。
そうかなあ。塩と砂糖くらの違いはあるんじゃないの?
あれ、俺と議論する気か。
どうせなら英語でね。
あ、それはムリ。






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「ゼロの焦点」:駒込千駄木町バス停付近の会話

2009-11-14 | ★草63系統(池袋駅~浅草雷門)

ずいぶん大がかりなくい打ちだな。
ちょっとした大工事ね。
測量機器の焦点合わせとか、一部の狂いも許されないんだろうな。
つまり、ゼロの焦点は許されないって言いたいの?
いやいや、犬童一心監督の「ゼロの焦点」は許すぜ。あの機械みたいに高い評価をあげたいくらいだ。
あら、珍しい。この手の映画はいつもどこかしらクサすあなたが誉めるんて。どこが評価の焦点だったの?
もちろん、あの女優のクサい演技だ。
ああ、あの女優ね。
そう、あの女優。名前を言っちゃうと謎解きに近くなっちゃうからこれ以上は言えないんだけど、あの女優の小さな顔の大写し。
お前は顔の筋肉のエクササイズでもしているのか、と思うほど自在に変化する表情。それをアップで延々と写すカメラ。
素に戻れば、何やってるんだろう、あたし、と思うところを、全身全霊をこめて演じきってしまう女優魂。
「カット!」の声もかけずにフィルムに残してしまう監督魂。
こういう、いびつに力のこもった瞬間があるかないかが、映画的な映画かどうかを分けてしまうような気がするんだよなあ。
意味わからないけど、このごろ、そんなことばっかり言ってるわね。
ああ、最近いつも引き合いに出して申し訳ないけど、映画の構えとしては申し分のない「沈まぬ太陽」にはそれがなく、構えの小さい「母なる証明」にはそれがあったような気がする。
でも、この映画、話は、戦後・裏日本・断崖絶壁のミステリー三題話。古くからある超定番のシチュエーションよ。
こら、裏日本なんて言うな。差別だぞ。
そんなこと言ったら、あなたの知り合いの“裏田”さんは、どうなっちゃうの?
ああ、そういう名字の人もいたな。でも、それとこれとは、話が別だ。
じゃあ、戦後・北陸・断崖絶壁の三題話。いまどき、テレビのミステリーでも使わないようなシチュエーション。
原作が松本清張だからな。
しかも、たいしたトリックがあるわけでもない。
誰が何のきっかけでそのトリックを見破ったのかもよくわからないし。
そう考えると、物語の焦点は、そこにはない。
ゼロの焦点。松本清張らしく、事件をめぐる人々の悲しい運命に視点がおかれている。
その底にある社会的背景。
戦後という時代が事件をつくったってわけだ。それだけに、映画でも戦後という時代色の再現には細心の注意を払っている。
風景や暮らしぶりの仔細な再現を越えて、この映画を観ていて、まるで昔の映画そのものを観ているような錯覚に陥ったところもあったもんね。
ある意味、古色蒼然なんだけど、それがいまや、立派な時代劇に見える。
戦後は遠くなりにけり。
そう、時代劇を観るような感覚で観られる現代劇。
だから、大見栄をきるようなオーバーな表現とか、一天にわかにかき曇るようなシーンがあるのね。
若気の傑作「二人が喋ってる」から始まった犬童一心監督の映画も成長したもんだ。
原作が松本“せいちょう”だけにね。
おー。そんな冗談言うとは、お前も成長したな。
堕落しただけよ。






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