【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「冷たい熱帯魚」

2011-03-08 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

なぜ、吹越満の子どもは、息子でなく娘なんだ?
どういう意味?
でんでんと吹越満の関係は、どう見ても疑似父子だ。父と息子の物語に映画を収斂させていくなら、吹越満の子どもも、男じゃなければ一貫性に欠く。
たしかに、物語上はでんでんと吹越満は赤の他人なんだけど、クライマックスでは父と息子の対決のような構図になる。しかも、でんでんは自分の父親との関係を口走ってしまう。
でんでんの父親→でんでん→吹越満→吹越満の息子、と因果が巡っていけば、映画はじつにすっきりする。
それじゃあ、あまりに図式的すぎると思ったんじゃない?
まあ、「紀子の食卓」や「愛のむきだし」みたいな屈折しまくった映画をつくる園子温監督にしては直線的な展開で、観客の頭の中がぐちゃぐちゃになったりしないからな。
観た人の頭の中がぐちゃぐちゃになるんじゃなくて、ぐちゃぐちゃになった脳ミソを見せる映画をつくっちゃった。
なんとも即物的。
一見善人そうなでんでんが実は猟奇的な殺人者で、気弱な吹越満がその手伝いをさせられてしまう。けれど、最後には・・・。
画面をおおうのは、これでもか、これでもか、と見せつけられる血と骨のオンパレード。
園子温の「血と骨」なのかもね。
園子温の「わらの犬」だろう。
サム・ペキンパー?
ポスターに出てくる割れたメガネのアップなんて、誰が見たって「わらの犬」を思い出す。
暴力にじっと耐えていた主人公が最後には反撃に出る話。
そこに家族の物語をはさみこんでくるところが、園子温らしい。
今回は、その暴力と家族のバランスが、ちょっと徹底していなかったかもしれない。
圧倒的に暴力描写に傾いていた。だから、家族の話が不完全燃焼に見えてしまう。
それで、終盤の展開がとってつけたような感じになっちゃうのね。
だから、吹越満の娘を息子にしておけば、あまり無理がなかったような気がするんだ。
でも、それじゃあ、わかりやすすぎるしなあ。
なんだ、お前。これだけ言っても同意しないのか。冷たいねえ。
どうせ私も「冷たい熱帯魚」。