Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

青柳いずみこ「グレン・グールド―未来のピアニスト」

2020年01月07日 | 読書
 青柳いづみこの「高橋悠治という怪物」と「翼のはえた指―評伝 安川加壽子」を読み、自身ピアニストである著者のピアノ奏法への独自の洞察に惹かれたので、もう一冊、「グレン・グールド―未来のピアニスト」も読んでみた。

 青柳いづみこの師であった安川加壽子や、同時代を生きる高橋悠治と違って、グレン・グールド(1932‐1982)はすでに故人だ。著者は生前のグレン・グールドとは面識がなく、また実演を聴いたこともない。残された録音からあれこれ考えるだけ。そんな自分を「安楽椅子探偵」と称し、グレン・グールドとは何者であったかを考える。わたしたちも「安楽椅子探偵」に変わりはないので、著者はわたしたちの代弁者だ。

 いうまでもなくグレン・グールドは、キャリアの途中で(具体的には1964年に)コンサート活動から撤退し、録音活動に専念した。青柳いづみこが(そしてわたしたちもそうだが)グールドを聴くということは、それらの録音(正規録音)を聴くことだった。ところがグールドの没後、事情が変わった。以前のコンサートの放送用の録音がたくさん出てきた。青柳いづみこが注目したのは、それらの録音だ。

 幸いなことに、それらの録音の多くはナクソス・ミュージックライブラリーに収録されている。わたしは本書を読む前に、いくつか聴いてみた。それは驚くべき体験だった。グールドのデビュー盤の「ゴルトベルク変奏曲」(1955年)で決定的にできあがっていたグールドのイメージが、大きく揺らいだ。

 たとえばデビュー盤の「ゴルトベルク変奏曲」とその前年(1954年)の同曲の放送録音とは、まったく性格の異なる演奏だった。放送録音の滑らかで自然な流れの演奏と、デビュー盤の各変奏のコントラストが極端でエクセントリックな印象を与える(そのためインパクトの強い)演奏と、その違いがわずか一年の間に起きていることは、信じられないくらいだった。

 その点を追及することは、グールドとは何者だったのかという、より大きなパースペクティブにつながるのだが、その結論だけ紹介しても意味がないので(むしろ追及の過程におもしろさがある)、これ以上の言及は避けるが、追及の過程で現れるグールド像は、今でもヴィヴィッドな問題を孕んでいる。

 意外なことには、本書は随所でリパッティ(1917‐1950)に触れる。グールドとリパッティとは、わたしは関連付けて考えたことがなかったが、読み進むうちに、納得した。読後、わたしはグールドのブラームスの間奏曲集(1960年)を聴き直した。作品118‐2がリパッティの演奏のように聴こえた。

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