Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

高関健/東京シティ・フィル

2023年03月19日 | 音楽
 高関健指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。プログラムにショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」が組まれている。ロシアのウクライナ侵攻以降、ショスタコーヴィチのこの曲はチャイコフスキーの祝典序曲「1812年」とともに、演奏しにくい曲になっている。それをあえてやることに興味をひかれる。

 恒例の高関健のプレトークでは、この曲を演奏する思いが率直に語られた。まず個人的な思いとして、サンクトペテルブルク・フィルを2度振ったことがあり、また東京シティ・フィルを連れて「夕鶴」を上演したことがあるので、サンクトペテルブルク=レニングラードへの思いがあること。またショスタコーヴィチのこの曲をプログラムに組んだときは、ロシアのウクライナ侵攻が起きる前だったこと。しかしウクライナ侵攻が起きて、「正直、演奏するかどうか迷った」。けれども「作品そのものを見つめて演奏する。作品をどう思うかは、お客様一人ひとりにゆだねる」と。

 ショスタコーヴィチのこの曲は2曲目に演奏されたのだが、先にこの曲から述べると、第1楽章冒頭の「人間の主題」が、なんの気負いもなく、やわらかい音で演奏されたことが印象的だ。やがて最弱音で小太鼓のリズムが入ってくる。そして例の「戦争の主題」が、これまたやわらかい音で、そっと始まる。それが何度も繰り返されるうちに、いつの間にか阿鼻叫喚のカオスが訪れる。たしかにそれは戦争の暗喩だろう。しかしそれ以上に意義深く思われたのは、カオスが崩壊した後の荒涼とした音の風景だった。ショスタコーヴィチはこれを描くために第1楽章を作曲したのかと思うほどだった。

 わたしは第4楽章の最後で「人間の主題」が高らかに鳴り、勝利を宣言する部分がどう聴こえるか、不安になってきた。だが、東京シティ・フィルのどこまでも濁らずにクリアーに鳴る分厚い音を聴きながら、それが為政者云々にかかわらず、名もなき人々の勝利のように聴こえた。感動に身が震えた。

 東京シティ・フィルは全曲を通して澄んだ音を鳴らした。緊張感が途切れず、また過度なヒロイズムにも陥らずに、音楽を見つめる演奏をした。高関健の8シーズン目の最後の演奏会だったが、8年の成果が眩しいほどだった。

 1曲目にはカバレフスキーのチェロ協奏曲第1番が演奏された。チェロ独奏はミュンヘン国際コンクールの優勝者・佐藤晴真(はるま)。一度聴いてみたいと思っていた。だが、青少年のために書かれたというこの曲では、実力のほどはつかめなかった。アンコールにバッハの無伴奏チェロ組曲第1番からサラバンドが演奏された。ゆったりした演奏だったが、集中力に欠けた。
(2023.3.18.東京オペラシティ)

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