Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

プロコフィエフ

2010年09月13日 | 音楽
 日本フィルが首席指揮者ラザレフのもとで取り組んでいるプロコフィエフ交響曲全曲演奏プロジェクトも残すところあと1回となった。曲は交響曲第6番。プロコフィエフには珍しく暗い心象を盛り込んだ曲だ。先日の第5番は今までの成果の一応のまとめという感があった。第6番ではさらに先へ一歩踏み出す挑戦を期待したいところだ。

 私は同プロジェクトがなければプロコフィエフの交響曲全曲に向き合うことはなかったかもしれない。その意味では貴重な機会を与えてもらった。こうして第1番から順番にたどってみると、プロコフィエフという作曲家の全体像がみえてくる気がする。

 第1番でいきなりハイドンやモーツァルトのパロディーをかいた恐いもの知らずの若い才能は、第2番では第一次世界大戦後のアヴァンギャルドの風潮に接近して、「鉄と鋼(はがね)でできた」挑発的な音楽をかいた。第3番では自らの資質に深く根ざす悪魔的なオペラ「炎の天使」の音楽を交響曲の世界で再現した。第4番(改訂版)では、これもプロコフィエフの本質の一端であるバレエ音楽で交響曲をかいた。第5番では交響曲という様式の枠内で完成度の高さを目指した。ひとつ飛んで第7番では、失意のうちに迎えた晩年の、人生の苦さを甘いオブラートで包んだ音楽をかいた。

 変転めまぐるしい軌跡だ。そこには両次大戦のほかに、ロシア革命、スターリン時代のソ連社会という要素も反映されている。さらにはプロコフィエフの個人的な野心やその挫折という要素もある。

 では、こういうプロコフィエフの音楽を一言で定義するなら、どうなるか、と考えて私は戸惑いを感じた。ひどくつかみにくいからだ。第2番のときのブログでご紹介したが、20世紀フランスの作曲家プーランクの、シューベルトを引き合いに出した言葉は、プロコフィエフの美質を蒸留水のように濾過した言葉だ。私は最終的にはそれに尽きると思う。だが途中の過程をもう少し吟味したい。

 先日の演奏会での一柳富美子さん執筆のプログラム・ノートは、さすがに著名なロシア音楽研究者だけあって、興味深かった。一柳さんによると、プロコフィエフ研究はショスタコーヴィチやラフマニノフなどと比べて「若干遅れを取っている」そうだ。私はプロコフィエフが「表現の自由がないソ連社会に対してはショスタコーヴィチ以上に警戒心を」抱いていたというくだりに注目した。

 私は前から気になっているオペラ「真実の人間の物語」の評価や、妻をめぐるスキャンダルめいた逸話の真相も、この際知りたいと思った。ネガティヴ情報になるかもしれないが、それでもよいのではないか。
コメント
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