Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

バイロイト音楽祭:神々の黄昏

2010年09月02日 | 音楽
 バイロイト最終日は「神々の黄昏」。まず演出からいうと、序幕の3人のノルンの場面は無数の骸骨の上。ジークフリートとブリュンヒルデの場面は例の石切り場。第1幕のギービヒ家は成功した実業家の自社ビルのようだ。ブリュンヒルデとヴァルトラウテ、ブリュンヒルデとジークフリートの場面は再び石切り場。第2幕は第1幕と同じギービヒ家の自社ビル。

 興味深かったのはギービヒ家の場面の処理だ。この場面ではグンターとグートルーネをはじめ多くの人々が出てくるが、要するに全員現代人だ。それまでは現代社会の片隅に異次元の世界があり、神々が昔と変わらず奔放に生きているという設定だった。ギービヒ家では現代人が前面に出てくる。で、どうなるか。人々のあいだに金粉を塗られて羊の頭をかぶった男がいた。これはフリッカのパロディーか。また金色のドレスを着た3人の女がいた。ラインの娘たちが紛れ込んだのか。要するに主客が逆転した設定だった。

 第3幕前半は「ラインの黄金」と同じコンクリートの堤防の上。後半はギービヒ家の自社ビル。前半ではジークフリート殺害などまったく知らずに愛にひたっている現代人のカップルが、後半では炎上するビルのあいだを呑気に通っていく。

 ティーレマンの指揮では第1幕冒頭のハーゲン、グンターそしてグートルーネが語り合う場面に感心した。ドラマらしいドラマが起きない地味な場面だが、各々の発する言葉のニュアンスが克明にたどられていて、少しも飽きない。微妙な陰影の変化が連続する。
 第3幕の幕切れの「ブリュンヒルデの自己犠牲」では透明なハーモニーがしなやかに流れて、その美しさはたとえようもなかった。豪快に鳴るときは鳴るが、少しも力まず、大きなパースペクティヴのなかに収まっている。

 ブリュンヒルデ役のリンダ・ワトソンもよかった。けっして絶叫せず、ティーレマンの作る流れのなかに収まっている。だから起用されているのだろう。
 配役表をみていて気がついたが、ヴァルトラウテを歌った歌手は、前作まではエルダを歌っていた歌手だった。ヴァルトラウテではとくに問題はなかった。そもそもヴァルトラウテを歌う歌手にエルダを兼務させることに無理があったのではないか。

 カーテンコールでは演出家のドルストに猛烈なブーイングが飛んだ。私はそれには同調しなかったが、現代人の扱いが消極的だったのはたしかだ。

 バイロイトの音の特性がつかめた。一言でいうと、蓋を閉めたピアノの音だ。蓋を開けたときの生々しい音色は失われるが、声との相性がよい。オーケストラでいうなら、各楽器の音が溶け合って、生の音の角がとれ、均質化された音色になる。ワーグナーがこれをきいてある種の啓示をうけ、「パルジファル」の音楽を構想したプロセスがわかる気がした。
(2010.8.25.バイロイト祝祭劇場)
コメント (4)
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