元・還暦社労士の「ぼちぼち日記」

還暦をずっと前に迎えた(元)社労士の新たな挑戦!ボチボチとせこせこせず確実に、人生の価値を見出そうとするものです。

日テレドラマ・リバーサルオーケストラ:続かないのもいる中で「努力する才能」<天才にない凡人が凡人たる・・・>

2023-02-19 16:32:01 | 第2の人生・老後・趣味と勉強

 天才・凡人もいるのを認めて自分の人生を与えられた能力で生きていく!!

 児玉交響楽団(通称「玉響」)団員 チェロ奏者の佐々木玲緒が突然、練習に来なくなった。団員の皆は、特に天才バイオリニスト・主人公の谷岡初音は心配するが、指揮者(マエストロ)の常葉朝陽は何か知っているらしい。ティンパニー奏者の藤谷耀司は、常葉に連れられてカラオケに行くが、そこには佐々木が一人でチェロの練習をしていた。常葉はその部屋に藤谷を無理やり押し込め、藤谷は佐々木玲緒と2人きりになる。なんとなく普段から反発していた2人である。

<・藤谷> 公演出ねえのか。べつに、いいけど。 <・佐々木> あんたに言う必要ある。              <・藤谷> まあ(ここで練習)やんなと不安になるのはわかるわ。                        <・佐々木> S響の首席だった人に分かったようなこと言われたくないんだけど。                   <・藤谷> 分かるよ。俺、凡人だからな。ティンパニーって、ほとんど一人しか出られねえからな。もう必死よ。若い人が入ってくるたびに、お前もういらねえと言われんじゃねえかって、焦って毎日練習して、若手に場所譲らない嫌がらせもした。いい加減、そんな自分が嫌になってオケ辞めた。別に、どうでもいいって顔してな。凡人のくせに、プライドだけは高かったからよ。でも、結局、また戻ってきちゃたわ。今は、ブランク埋めなきゃって、また必死よ。苦しいけど楽しい。厄介だよな。ふふっ・・。んじゃ。                                               <・佐々木>はあ、何一人で気持ちよくしゃべって帰ろうとしているの。                          

 場面は変わり、中華料理の看板が写る。飲みながら、佐々木と藤谷が話している。                                       <・藤谷> なんであそこで練習しているんだ。家、防音じゃないのか。                       <・佐々木> 楽器弾いていいのは夜9時まで。そんなんじゃ全然足りないっしょ。私も凡人だからさ。他の人の何倍も努力しないと人並みにはなれない。昔はあると思っていたんだけどあ、才能。コンクールで取材も受けちゃったりして。         『ー取材の回想ー 記者に「玲緒」の名前の由来を聞かれたことを思い出す。そして、その記者がブランクのあった後に復帰した「谷岡初音」の取材を自分の目の前でしていたが「才能がある人(谷岡初音のこと)のことは忘れませんよ」といった。』 (その記者は)私のことは覚えていなかった。私はハツネッチ(谷岡初音)にはなれなかった。だったら、凡人なりにがんばろうと思ったけど、次の曲はカルメンでチェロはベース弾くだけで見せ場もない。『指揮の常葉の言葉の回想=カルメン組曲は、それぞれにその力を優秀な首席たちがソロでその力を発揮できる曲なんです。』 ああ、またここで線引かれちゃったかな~て。でもショックを受けている自分が嫌だった。私の人生はハイスぺと結婚してのんびりとチェロを弾いて暮らすこと。そう決めたはずなのに。『ー回想場面ー 天才の異名を取る世界的指揮者で父の市長に頼まれて「玉響」の専属になった常葉朝日を、佐々木は食事に誘うが・・・常葉から「それ、いつまで続けるんですか。あなたの一番はチェロですよね。自分を偽るのは疲れませんか」といわれてしまう。』 図星し過ぎてむかついて、つい、公演は出ないと言っちゃって。ああ、今思えば大人げなかったと思う。けどさ、天才に凡人の気持ちは分からないよね。どんなに努力しても追いつけない。才能の差って残酷だよ。                                        <・藤谷>才能ならあるんじゃない。あんたにも俺にも。努力する才能。世の中、努力が続かないやつが多いんだ。それ考えたら一番好きなことのために、しゃかりき努力できんだって立派な才能だろ。オレはそれを頼りにやっていこうと思っているよ。                                                <・佐々木>あんたに説教される筋合い(ない・・・と言う前に「藤谷」が言う。)                                    <・藤谷>いいから戻って来いよ。

 筆者は、地方の割と裕福な家庭に育ったので、家に帰ると手伝いをさせられるようなこともなく、自由に勉強時間も与えられて、それでも試験前には一夜漬に近い形で勉強して、何とかトップレベルの成績をあげられた。今の人とは違い、戦後の復興期の育ちだったので、まだまだ、おおらかな時代である。大学はどうにか地方の公立大学にいけた。そして、ここまで来ると悩みに悩んだことがある。それは、地方とはいえ、ここで「天才」に会うことになるのだ。英語のできるやつ、数学のできるやつ、スポーツ・芸術のある才能のあるやつ・・・社会性に優れたやつと言おうか・・・など。いままで、努力すればどうにかなる、達成できるもんだと思っていたのに、能力(才能)の差を思い知らされることになる。米人のクリスチャンの英語の講師に、能力の差はどうしてあるのかと尋ねたが、あまり明確な答えは返ってこなかった。

 実は、大学に入る前に、中学の頃、算数が得意な人がいて、あの人は勉強しなくてもテストでは点数が良いと聞いたことがある。その頃、本当なのかと疑った。友達の中にはその人とクラスが一緒だった人がいて「お前があの人とクラスが一緒だったら、思い知らされるよ」と言ったことがある。今思えば、そうなんだと思う。だから、大学でのこの悩みは、中学の頃、悩むべき課題だったかもしれないので、いずれにしても人生において悩まなければならない問題だったのだ。悩んだ後の結論として、藤谷がいう「努力する才能」を自分は持っているということで納得したように思う。

 しかし、また、社会に出てから思い知らされることになる。一生けん命その方面の知識を身に着けても、完全に「負けた」と思ったのは、瞬間的にその場に応じて答えが出てくる「能力」のなさである。世の中には、こういった能力に本当に長けた者がいる。うらやましい。その場その場に応じてすぐさま的確な解答を出せる能力というのは、ちょっとそっとで勉強しても出来て来ないものである。これには参った。しかし、「努力に勝る才能なし」ということで、引き下がるしかない。凡人は凡人なりに努力を続けるしかない。藤谷のことば「一番好きなことのために、しゃかりき努力できんだって立派な才能だろ。オレはそれを頼りにやっていこうと思っているよ。」

 そう思っても、天才がいるのも事実。自分に与えられている「努力する才能」というのも事実。これをそのまま認めざるを得ないのだ。この年(70代)になって、やっとどうにかこの答えに納得できるようになったようだ。他人にはその他人なりの人生があるのだ。自分の人生は、これなんだ。他人をうらやんでも仕方がない。オギャーと生まれて、人生が始まりこれまで、できる限りの自分の能力<「努力する才能」を含めて>を使って問題解決し、生きてきた人生である。他人をうらやむのでない、その人の人生なのだ。だれの人生でもない、自分の人生を自分の人生として生きていくのだ。残った人生、後、何年生きるかも分からないが、心うきうき・ワクワクする人生があることを期待して、生きていきたいと思う。                                              

 最後に、天才は天才なりに苦労も努力もしているようなのだ。演奏会が終わった後、本番前に不安になったことを帰りのバスの中、天才バイオリニスト「谷岡初音」が皆に詫びるシーンがある。                                    <・佐々木> 天才でも不安になることもあるんだね。<・藤谷> 同じ人間だからな。                   (お腹が空いた2人。夕食に佐々木が藤谷を誘い、おごるという。)                                   <・藤谷> 今日は、俺は飲まねえぞ。 <・佐々木> 夜練ね。私もそのつもり。

 この作品は、原作はなく、脚本家・清水友佳子氏のオリジナルだそうです。音楽短大卒とのこと。なるほど・・・。

 

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