平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

トヨタ車体の未来

2015-11-25 22:45:52 | バレーボール
 ひたちなかから帰って来ました。土日には出待ちしたかったのですが、まだ隠されたミッションが残っていたので、残念ながら遠慮しました。月曜日の鬼退治については明日の更新予定。今回は、週末の試合も近いので、火曜日の夜のことについて書きます。

 火曜日は天気も良く暖かで、遠くの読者の作品を梱包してから、土曜夜から泊まっている水戸に戻りました。勝田のホテルは取れなかったのです。

 水戸のホテルに荷物を置いて、以前にも利用した、佐藤あり紗さんのtwitterで紹介されたお店で晩御飯。前と同じ読者との三人組で前と同じ席でした。ビールと生ハムなどを楽しみながら試聴会やバレーボールの話をしていると、背の高い男性が店に入ってきて僕の後ろに着席しました。客がいなくて他にも空いていたのに。

 そうすると、僕の言葉が自然に、連敗中で出口の見えないトヨタ車体のことになったのです。「もしもトヨタ車体に謙虚さが戻れば、トヨタ車体を救けるために神は僕に何かを書かせるだろう」というようなことを二人に話しました。でも、もう一人、僕の後ろに座ったトヨタ車体の泉川監督の亡霊が話を聴いていたようです。おっと、泉川監督は亡くなってはいないので生き霊ということにしておきます (;^ω^)

 泉川監督は、僕が古代史で何度も書いている、聖書学的に重要な1992年にバルセロナ・オリンピックに出ています。しかも、日立リヴァーレの松田監督も日本代表メンバーに連なっていた戦友の間柄です。

 聖書学的に、七倍罰と呼ばれるイスラエルの苦難の期間は、半分の3.5倍罰で1260年間と計算されます。これにシンクロしたのが、フィギュアスケートのトリプルアクセルの3回転半。『ダニエル書』によると、後半の3.5倍罰は、1260年に30年と更に45年が加わるので、1260年目と1290年目と1335年目の3つの区切りで見なくてはなりません。このうちの真ん中の1290年目こそ、1992年となるのです。詳しくはこちら

 1992年は、アルベールビル・冬季五輪で伊藤みどり選手が銅メダル。伊藤みどりの代名詞が3回転半のトリプルアクセル。これを継承したのが浅田真央のトリプルアクセルで、2人のトリプルアクセルで七倍罰の7となります。要するに、七倍罰の終了が近いことを知らせた2人の天使が伊藤みどりと浅田真央なのです。

 だから、1992年のバルセロナ・オリンピックも聖書学的に無視できない。全日本代表メンバーからVリーグの監督が出るのも当然なのです。

 七倍罰が明けるとき、人類は全く新しい世界を見ることになる。それが福千年の始まりなのですが、残念ながら、今の価値観そのままの人は新しい世界に招かれることはない。新しい世界を見ることのできる人は、何かで神の目に叶う必要がある。それは、金で買えるものではなく、その人の持つ魂の価値だけで決まる。

 純粋さ、素直さ、優しさ、慈悲の心、などもその一つであり、その中でも最も大切なのは謙虚さです。そして、次の世界では自由意志が絶対的に尊重される。けれど、多くの人にとって自由は重荷でしかない。なぜなら、自由には責任が課せられるからで、動物や家畜のように支配された方が楽だからです。

 今の古い世界では、政治家、官僚組織、会社、学校、チーム、その他あらゆるものは上下関係で成り立っている。これは、突きつめると男性原理の社会構造に起因するのです。軍隊が良い例。でも、人間の半数は女性なのだから、男性原理だけでは片手落ち。だから、次の世界は女性原理が尊重されるようになる。

 この場合の女性原理とは、フェミニストが主張するような、男性に取って代わる虐げられた女性という意味ではありません。男性と女性が尊重しあって、互いの欠点を補い助け合うことでより良い世界が構築される。フェミニストや左翼のように声高に女性の権利を主張する人は、逆に次の世界から追放されるのです。

 バレーボールの監督は男性が多いから、男性原理でチームを作る方が楽になる。その男性原理が行き過ぎると、過度な精神論やスパルタになる。いや、女性指導者でも男のように怒鳴る人もいる。これは、スポーツに対する間違ったイメージの弊害なのです。

 怒鳴られたり、スパルタで虐められてスポーツが嫌いになる選手もいる。嫌いにならなくても、楽しむことを知らないで続ける選手もいる。馬や牛でないのだから、叩かれて動く隷属性には最初から限界があるからです。

 バレーボールでも、好き嫌いに関係なく、評価やランクという他人の目がついて回る。その上、先輩や後輩という上下関係にも厳しいチームがある。酷いチームは自分の下着も後輩に洗濯させる。このような支配構造は次の世界では全否定されるのです。

 ある選手について、誰がダメと決めたのか。何故、個性や可能性の芽を摘むのか?選手がダメなのではない。ダメなのは芽を摘む組織や指導者の方ではないのか?

 「愛の三原則」とは、「関心を持つこと、相手を自由にすること、そのための自己犠牲」の3つで成り立っています。しかし、大半の人は最初の「関心を持つこと」で躓いてしまう。だから次の「相手を自由にすること」が出来ず、最後の「そのための自己犠牲」にまで至ることは出来ない。

 心が自由になれば、自分の可能性が広がる。自由になれば、今までに見えていなかったものが見えるようになる。自分以外の選手に対する気遣いもできるようになる。そのように成長した人が集まれば、チームは自然にまとまって一つになり、同じ目標に向かって邁進できるようになる。監督やコーチやキャプテンが大声を出さなくても、自分の意志と判断で個々の選手が動くことができるようになる。また逆に、自分たちの言葉でアドバイスしたり励ますことができるようになる。

 監督は、選手間のわだかまりを放置してはいけない。特に女性は根に持つから、きちんと話を聞いて、双方が心から和解するように諭さなくてはならない。その時も、上から目線で一方的に判断するのは火に油なのでやってはいけません。肩を持ったと反発されますから。そして、片方が折れなければならない時は、基本的に上の人が折れるのが望ましい。

 選手が自信を失っていたら、上辺だけの励ましではなくて、ちゃんと見てあげた上でアドバイスを送る。自分がきちんと見られることが選手の励みとなり、また次への意欲となるのだから。そのためには、選手個々への尊敬が必要となるのです。五輪代表のプライドなんて、溝に捨ててナンボですよ。監督は立場的に偉いのではなくて、選手に尊敬された監督だけが偉い世界ですから。

 久光もトヨタ車体も、ひたちなかに来たことで謙虚になることができた。鬼は去ったのだから、あとは監督と選手の尊敬と尊重の問題なのです。謙虚になれば神が導いてくれる。何かヒントを与えてくれる。それに対する感謝の心がありさえすればですけど。久光の久美長は、僕の前に座ったので神の言葉が届いたかもしれない。トヨタ車体は監督の生き霊が後ろで耳を傾けたので、何かしら導きがあるかもしれない。

 選手を自由にする、謙虚になる、関心を持つ、ひとりひとりをちゃんと見る、その上での合理的な練習と合理的な戦術。それが調和した時がチームの完成なのだと思います。絵を描くのと同じ。音楽を作るのと同じ。自由な想像力を持てば、創造と調和の地平線が見えてくる。選手が存分に自己表現できる環境を整える。それが出来れば、選手は勝手に木に登るし、美味い酒も運んできてくれる。

 トヨタ車体の課題は戦力ではなくて、自然に回るチームを作ること。監督と選手、あるいは選手間の信頼の基礎をどこに置くか?バナナを食べていたカナニとポリーナは違う。高橋とカナニでもそう。カナニとはタイプが違うけど、チームの潤滑油になる選手が必要だと思います。故障がちの牽引車ばかりで仕事にならないのが今のトヨタ車体。僕には1992年生まれの竹内彩選手が良さそうに見えますが。何故って、開幕戦で目の前で目立ったからです (;^ω^)


竹内彩選手の大学の先輩 田村真希さんのサイン(読者持参)


日立リヴァーレが久光に勝った時に読者がゲットした古藤選手のサインボール

    エフライム工房 平御幸
コメント (9)
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