平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

竹島の蛇神?

2010-07-31 18:34:00 | Weblog
 その名も和歌山から始まった『万葉集』ルートは、蒲郡の西浦町御前崎にある万葉歌碑で終わろうとしてます。

 今日は竹島へ行ったのですが、橋から海に目をやると、何やら水棲怪獣を小さくしたようなものがプカリプカリ。最初は蛇に見えたのですが、どうやら倒木が沖に流されているようです。樹皮の剥がれたところが、蛇の腹に見えたのです。さすがに龍神の弁財天ですね。使いを遣わしてくれたのでしょうか。



 竹島ではすべての社でお祈りしたのですが、『千載和歌集』の編者である藤原俊成を祀った社もあり、僕も文才が増すようにお願いしてきました。そういえば、駅の山手側には御幸町という地名があり、「何だ最初から縁があったじゃないか」と独り言。帰りには生命の海科学館に立ち寄ってみました。首長竜プレシオザウルスの複製もあり、さすがに龍神の町だと納得。でも、今日は物凄い暑さでTシャツもズボンもビッショリ。クタクタなので、予定を変更して駅前の港ホテルに泊まることになりました。満室だらけで、五軒目で見つかってホッ。



 改めて蒲郡を調べてみると、始めに書いたように御前崎に万葉歌碑が並ぶ散歩道があるらしい。これで、明日の朝に見てから帰ろうと決心しました。なお、前々回に書いた有間皇子ですが、アリマでは意味が通らず、「アル・イマ」か「ア・リマ」なら、ヘブライ語やエジプト語などで解析可能となるのです。『万葉集』の完全解明には、一万年という時間が必要かもしれませんね。

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松阪ベルライン

2010-07-31 07:21:55 | Weblog
 和歌山から南海電車で北上し、鶴と亀さんが手配してくれた泉佐野の全日空ホテルに入り、さすがに疲れが出たので、生まれて初めてマッサージを呼んでもらいました。マッサージ師のおばあちゃんによると全身がこっていたそうですが、自民党ファンだというので、しっかりとミンスの本性を教えておきました。中川さんの功績や死も含め、マスコミが伝えないことを教えたので本当に驚いていました。

 鶴と亀さんが仁徳天皇陵を車で案内してくれたのですが、巨大すぎて全体像が把握できません。やはり、この古墳は空から見てもらうために作られたと思いました。それから、早めの昼食の後で、古代史でも書いている道明寺を訪れたのですが、随分と小さなお寺で、中門もあちこちの斗拱がはずれています。修理するお金がないのでしょう。訪れる人が少なく、瀟洒な佇まいは良いのですが、国宝の十一面観音像を定期公開するときは賑わうのかもしれません。

 近鉄の道明寺で鶴と亀さんと別れ、二上山をすり抜けて奈良県に入りました。クルクルの唐古・鍵遺跡を見たいと思ったのですが、下車した石見(いわみ)駅はタクシーもバスもなく、遺跡から遠い、一つ前の田原本に戻って出直すのもおっくうなので、そのまま帰ることにしました。

 しかし、特急電車のタイミングが悪く、名古屋行きは待ち時間が長いし、とりあえず松阪までの特急券を買って乗り込みました。伊勢でも良かったのですが、帰りということで、松阪肉を食べておかないことには話のネタになりません。でも、松阪には巧妙に誘導されたようです。

 というのも、観光案内所でパンフレットをもらったら、愛知のセントレア行きの高速艇ベルラインが出ています。松阪牛からのイメージで、松阪も港町であることを忘れていたのです。これで、一年前のルートでまだ訪れていない、蒲郡の竹島弁財天が導いていると確信しました。しかし、弁財天は気難しい女性の神様ですから、手ぶらで訪れるわけに行きません。ということで、『万葉集』の旅の歌である羇旅(きりょ)を倣(なら)い、下手な歌を作ってみました。

羇旅(きりょ)の歌
旅から帰る途、恋しき人を思う歌一首

君が待つ 竹島恋し いざ行かむ
          舟の速けく 浪の速けく


 この歌は、舟と浪が隠語になっていて、弁天様なら分かるだろうという構成になっています。セントレアから名古屋に出て、そこから竹島ですが、弁天様が嫉妬するといけないので、今回は一人で訪れることにします。旅行に出てからスワローズは一軍も二軍も負けていなかったのですが、昨日は二軍が負けたので、何やら不穏な予兆。無理して、天理の兄に会ってきた方が良かったかなと。

 ということで、土曜日に帰る予定ですが、ご支援いただいた皆様には感謝申し上げます。お陰様で、予定の延長と、行く先の変更ができました。暑い中を案内してくださってありがとうございました。『万葉集』編を書き上げなくては申し訳ない心境です。

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有間皇子の引力

2010-07-29 22:40:00 | 古代史と聖書
 昨日は徳島で雨が降り、早々と眉山のかんぽに落ち着き、天井からの打たせ湯で疲労回復。夜中には一時的に雨が上がり、徳島の夜景が見られたのはラッキーでした。でも、今日は朝からの雨で、和歌山港へのフェリーも波でローリング。でも、和歌山港へ到着したときは晴れていました。

 今回の旅行で、和歌山は予定外の行動です。でも、鶴と亀さんの岸和田から近いので、成り行きで和歌山行脚となりました。南海電鉄の和歌山港から、とりあえずJRと連結する和歌山市でコインロッカーに荷物を預け、駅そばの洋食喫茶でカレーを食べながら、何処に行くかを検索。結局、『万葉集』ルートということで、南部(みなべ)の有間皇子の歌碑を訪れることにしました。



 有間皇子は、18才で処刑された悲劇の皇子で、父は孝徳天皇という皇位継承権を持つ有力皇子です。しかし、女帝の斉明天皇に謀反の罪を賜り、反逆罪で処刑されました。そのときの辞世の歌が美しく、『万葉集』の中でも傑作に数えられています。

 磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む (巻二 141番)
家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(巻二 142番)
以上、『万葉集』検索システムより

 しかし、万葉仮名は単なる当て字ではなく、ヒエログリフと同じように、同音でも使う文字によって意味が微妙に違ってきます。たとえば、最初の歌の原文は磐白乃で始まりますが、なぜ白なのでしょう。二つ目の歌は、原文が椎之葉ですが、なぜに椎(しい)なのでしょう?椎の葉は、カシ類の中では小さいのです。ご飯を盛るだけなら、柏とかもっと大きな葉が良いはずです。

 二つ目の歌は一般に、「家に帰れば笥(け=器)に盛る飯を、旅の途中なので(笥がないので)椎で代用し、神様に供えるのである」と解釈されています。でも、椎は木+隹(とり=しっぽの短い鳥の総称)なので、鳥で象徴されたイスラエルの12部族の比喩だと分かります。また、木はユダヤ教の比喩なので、有間皇子は宗教的な対立の中で死を賜ったと分かります。問題は、斉明と有間皇子のどちらがユダヤ教なのか?

 最初の歌の白い岩は、白で象徴されたイエスの教会(岩)だと分かります。ここから、有間皇子はキリスト者として処刑され、松の枝に何かを託したと理解できるのです。でも、本格的な謎解きは、やはり瞳ちゃんが登場する古代史で行うべきですね。

 和歌山から南部に向かう途中、山の尾根から霧が湧く、今にも雨が降りそうな天気でした。しかし、南部に近くなると晴れてきて、南部駅でタクシーに乗ると雨の心配はなくなりました。タクシーでなくては行けない場所に歌碑があるのですが、歌碑の前は無神経なサーファーの車が停められています。僕が思うに、サーファーはもっとも無神経で自分勝手な人種だと思います。台風でも警告を無視するし。

 南部から宿舎に予定している泉佐野までは遠く、最初は17時代の各停から特急に乗り換えの予定でした。でも、南部から特急券を買ってしまい、しかも16時代の特急が遅れているとのことで、その特急で帰ることができました。帰りの車中、いつものように雲間から太陽が出て祝福の印。写真を撮るには日差しが強すぎるかなと思ったら、フィルターの雲に隠れてくれる有り難さ。やはり、有間皇子の死は、僕の古代史のテーマに沿うものだと確信しました。



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丸亀から高松へ

2010-07-27 21:32:16 | Weblog
 昨日は神戸の三宮に降り立ち、真っ先に郵便局を探したのですが、店員さんに教えられたところは見つけられず、かなり歩いて小さな郵便局にたどり着きました。ビジネスホテルを検索して予約したのですが、これも駅から遠いところ。<;`Д´> 変ニダ。

 ところが、あとで住所を確認したら納得。どちらも御幸町の一角だったのです。僕の名前と同じですが、こちらは「ごこう」と読みます。そういえば、名古屋の地下鉄で遠回りになったときも、御幸ビルとかの近くを通っているはずです。やはり、僕の旅行は、御幸(みゆき)をもたらす公務のようです。

 今日は、芸大の二人の後輩が先生をしている、丸亀市と高松市の学校を訪れたのですが、丸亀の方は高校野球の準決勝で高松に遠征。タクシーを呼んで、駅に戻り高松に向かいました。高松の球場は駅から遠く、でも時間がないのでタクシーで乗り付け、先生らしき人に探してもらったら、タオルを被っている後輩に無事に出会えました。卒業以来ですから、向こうも驚いた様子。でも、予備校から一緒だったので、すぐに誰彼の消息確認となりました。

 炎熱の下、先制点を取られ、しかも時間がなかったので、早々と次の目的地に向かうことにしたのですが、学生が食べているうどんの屋台が目に入りました。それで、冷やしキツネうどんを注文して食べていると大きな歓声。どうやら逆転したみたいですが、帰ってから調べてみると、球場を離れた直後に再逆転されたようです。残念。

 それで、タイミング良く、女子高生二人組を球場に乗せてきたタクシーに乗ることができたのですが、女子高生がお金が足りなかったのでサービスしたという話。話し好きの運転手さんだったのですが、目的地の聾(ろう)学校を盲学校と聞き間違えた様子。盲学校でタクシーを呼んでもらいました。こちらも運良く出会えたのですが、やはり思い出すのに時間が少し。

 聾学校の先生をしている後輩は声楽出身なので、以前は学生合唱コンクールの常連でした。ところが、検索してみたら昨年から聾学校に転勤となったので、ちょっと気になっていたのです。自分の意志なのか、それとも上からの指示なのか。話の流れから、自分の意志ではなく、太鼓を授業に取り入れるという難しい仕事なので、どうもベテランの先生に白羽矢が立ったようでした。

 骨振動で音楽を知ることができる事から、打楽器は聴覚障害の生徒に教えやすいはずですが、打楽器はリズム感が必要なので、誰がやっても難しいのは自明です。でも、前のように合唱コンクールに携わっていたら、会って話す時間がとれなかった時期だと言ってました。やはりラッキーだったのです。

 今日は、懐かしい大学時代を知る先輩の突然の来訪ということで、二人の後輩は見る見る若返ったようでした。人生で一番楽しかった頃の記憶が、マンネリ化の地層から掘り起こされたようなものですね。今から考えると、僕には結構、人と人を結びつけるバッファー(緩衝材)のような役割があったと思います。性格の合わない人と人も、僕が間に入ると仲間となるのです。

 僕は、『万葉集』の歌は、各地に離れ離れとなっている、原始キリスト者を繋ぐアイテムではないかと考えています。四国という万葉の地で、迷える子羊を探すイエスのように、僕は懐かしい友人を捜したのかもしれません。神様はいつも御覧になっていて、何処にいても使いを遣わして、人と神との絆を確かなものにする。

 神から離れた人は孤独(孤立)となり、あろうことか神の使いを遠ざけてしまう。弟子が言いました。僕は全然変わらないと。そう、僕が変わったように感じる人は、自分の方が変化しているのです。僕は学生時代と変わらないし、これからも変わることはないでしょう。純粋で無欲な者は変わることを知らない。晩ご飯に讃岐うどんを食べながら、僕は少しばかり高尚な言葉を紡ぎ出したくなりました。



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迷子の蝉

2010-07-26 10:47:12 | Weblog
 久々に更新です。土曜日は伊勢神宮の三社すべてを回り、特に最後の伊雑宮は人もなく最高でした。猛暑の中を案内してくれた弟子と、付き合ってくれた読者には感謝です。

 内宮では、かき氷の中に赤福餅が入っている赤福氷を食べたのですが、猛暑の中では特に美味しく感じられます。でも、ばてていた体には冷たいものを摂りすぎたかなと。

 伊雑宮(いざわのみや)は弟子が一度迷ったらしい(僕は寝ていた)のですが、静かで人もなく、枯れた美しさが印象的でした。これが本当に本宮に格上げされるとは、今はちょっと想像ができませんが、飛鳥氏も知らない奥義をまだ隠し持っているのかもしれません。

 土曜日は伊勢に泊まったのですが、日曜日は熱田神宮にお参りするので、朝の特急に乗りました。でも、後ろの席の三人連れ(初老の婆)が煩くて、やばいと思っていたら案の定、気分が悪くなりました。昨晩は眠れないのでビールを飲んだのですが、全く酔わなかったので、普段は口にしない氷結何とやらも飲んでみてもダメ。伊勢神宮の効果か、全く酔わない体質になったようです。結局は寝不足に酔わない二日酔いですから、気分が悪くなる条件は整っていました。

 でも経験的に、最近亡くなったという同級生の女の子と飲んで気分が悪くなった時と同じ症状なので、三人組の耳障りは霊障の一種だと分かりましたから、無理をしないで吐くことにしました。過呼吸を起こさないように横になって名古屋に到着。それで、名古屋で最初に会う予定の読者には、申し訳ない対応しかできませんでした。我ながら反省汁ですね。

 熱田神宮へは、僕の活動に協力的で、自分でネットを使って輪を広げている古株の読者に案内してもらいました。しかし、準地元なのに電車に迷うことしきり。最初の乗り換えは逆方向で、それからも間違いの繰り返し、帰りも二度ほど間違えて、本人は当惑していました。でも、このように迷いは、神様が導いた結果なのです。

 迷うという字は「米の道」ですから、米に象徴されるイエスの道に対して、決断が足りないと促(うなが)されているのです。昨年の岡山の読者も道に迷いましたが、一念発起して大学を目指すことになりました。同じように、今回の読者も人生の転機に差し掛かっているのです。神様は、自分の方に招いているのですが、読者はあれもこれもと捨てられないものが多いのでしょう。

 熱田神宮では、名物の宮きしめんを初めて食べました。冷たいきしめんでしたが、朝の体調不良でなかなか食べ進みません。これは残してしまうかなと思ったのですが、読者が元気なので僕もつられて完食できました。読者から元気をもらったようです。

 その後で、帰りの参道の最後に蝉(ミンミンゼミ大で黒い)が死にかけていて、二度ほど飛ぶのに失敗したので、羽も捩れているようだからせめて植え込みにと投げたのです。両手で包んで「土に帰れ」と言いながら放ったのですが、何とパタパタと飛んで行きました。不思議ですね。

 それで、読者と別れてネット喫茶で休んでから神戸へと思ったのですが、ロッカーの荷物を取りに向かったら、難波行きの近鉄特急にドンピシャリ。そのまま難波に行くことにしました。今、その難波から書いています。

 熱田神宮で一緒だった読者は、最後にはネット喫茶と反対側に僕を引っ張っていったのですが、これは近鉄に近かったので正解でした。人の予定より、神様の方が先を見据えているのですね。これから、神戸の姉のところに預けている絵をビデオに収めるために向かいます。予定としては、岡山経由で香川にいるはずの芸大声楽の友人を探し、彼から依頼されて描いた絵をビデオに収めたいところです。まあ、人の予定ですから、すんなり行くとは思っていませんが。ということで、また徳島に向かうかもしれません。なお、画像は撮影した動画から取り込めないので、時間があるときにアップします。

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琵琶湖の地震

2010-07-22 05:42:41 | Weblog
 中国で洪水が続き、巨大な三峡ダムも放水を余儀なくされました。洪水があったのは、三峡ダムより上流の重慶市などですが、下流の武漢でも危険水域を越えそうとの情報もあります。

 掲示板で三峡ダムが話題になるのは、この巨大なダムが崩壊すれば、溜め込んだ393億トンもの水量により、河口の上海が滅びるからです。もっとも、これは台湾が軍事的に解析した、攻撃目標としての巨大ダムという設定らしいですが。

 このような、三峡ダム崩壊に対する期待が大きくなれば、工作員などが火消しに涌いてきます。例えば、途中には山があるので、上海に到達するまでに衰えるだろうとか。しかし、三峡ダムの構造を分析すると、この安心論は消し飛びそうです。

 三峡ダムをWikiで調べると、衛星写真の説明があり、中央右側が三峡ダムと書かれています。また、掲示板における、グーグルマップなどのリンクも概して同じ場所です。ところが、自分でグーグルアース上の揚子江を遡ってみれば、三峡ダムとは別に巨大なダムが目に入ります。その二つのダムの距離は40kmほどで、先のダムの上流(西)にあるのが本当の三峡ダムなのです。間違っていた東の方は、古くからある葛州覇(かっしゅうは)ダムと呼ばれるらしいです。

 葛州覇ダムは、宜昌(ぎしょう)市に密接しており、グーグルアースによるとダムの下の川は標高が42mと出ます。ダムの水面が60mなので、差し引き18mが蓄えられた水位となります。大したことはありませんね。しかし、21日の三峡ダムの観測データでは、上流側が155m、下流側が52mとなっています。下流側水位が60mに満たないという事は、この場合の下流側とは、葛州覇ダム湖ではなく、葛州覇ダム下の宜昌市の川の水位だと分かります。

 この宜昌市の水位を基準とすれば、上海までは標高差がたったの40mで、揚子江が流れているのだから山で遮られていないと分かります。例えば、琵琶湖の水位は85mなので、琵琶湖の方が葛州覇ダムよりも高い位置にあるのです。ちょっと信じられませんが、データは嘘を付きません。琵琶湖は天空の巨大な溜め池なのです。

 三峡ダムは、葛州覇ダムよりも100mも高い水位を保っています。三峡ダムの放出口側も61m位ですから、葛州覇ダムまでは水位が変化しないで、三峡ダムで突然に100mも水位が高くなっている構造です。蓄えられる水は393億トンで、琵琶湖の14倍にもなります。08年の四川大地震の時に出来た、唐家山の堰止め湖(堰塞湖)の一千倍です。

 三峡ダムは遙か上流の重慶まで続いていますが、重慶の警戒水位は180mで、現在はこれを数メートル超えています。実は、三峡ダムの最大水位は、この重慶基準で185mと設計されたと考えられるのです。これ以上高くすると、重慶は水面下となりますから。

 三峡ダムの水393億トンが、四川大地震の際に原因の一つではないかと疑われましたが、琵琶湖についても同じように地震の原因となるのでしょうか?実は、そのように考えていた矢先、昨日の奈良地震が起こったのです。奈良は活断層が多く、昔から大地震が多かったのですが、琵琶湖も活断層が走っています。

 僕は、奈良にある弥生時代の唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)を水没した遺跡と分析していますが、その水がどこから来たのかを、今より南(伊賀)にあった琵琶湖に求めています。琵琶湖が移動するだけの地殻変動があり、それで大和川が塞がれて水が抜けなくなり、旧琵琶湖から水の一部が押し流されて盆地に溜まった。それが古大和湖で、葦原の中つ国と呼ばれる原因となったのです。

 このように考えると、奈良や京都は、琵琶湖の水圧で地震が誘発される危険地帯かもしれません。京都盆地の下は巨大な水脈があるそうですが、それは琵琶湖が移動する過程で閉じこめられた水の一部かもしれません。天空の巨大な湖である琵琶湖は、極めて微妙なバランスで成り立っている、出口を塞がれた堰止め湖だという認識が必要だと思います。

 なお旅行ですが、土曜日の午後に外宮の参道横の外宮前郵便局で、弟子や読者と待ち合わせる予定です。

参考 【中国】三峡ダムの水位、今後2~3日で最高レベルに[07/18]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1279458929/

三  峡  ダ  ム    and   長 江
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/river/1152341050/

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お知らせ

2010-07-20 23:48:15 | Weblog
 幾つかお知らせがあります。

 ホタテ屋サトウさんから、ウニが出荷できるようになったと連絡がありました。ウニを注文された読者をお待たせしましたが、ようやく届けられるようでホッとしています。海の透明度が悪かったそうで、いろいろと難しいものですね。

 それから、参院選のお礼参りとして、今週末は伊勢神宮と熱田神宮に参拝予定です。金曜日に発って、土曜日の午後に伊勢参りをして、日曜日には熱田神宮と考えているのですが、弟子も含めて読者の都合があるので、何人と会う事が出来るか目下検討中です。

 最後に、絵の勉強をしたい読者のために、参考になる資料を作る事にしました。昔の作品の解説や、新たに技術解説を行うために、清水の舞台から飛び降りるつもりで、ハイビジョン撮影の出来るムービーカムを購入しました。僕の繊細なタッチが再現できるギリギリの画質ということで、無理して3MOSセンサー式にしました。

 ところが、今のパソコンでは編集が大変であり、しかもDVDの形式と違うので、パソコンでも独自のプレーヤーが必要です。Mpeg2にファイル変換すると画質劣化が大きいし、編集ソフトも含めて、この辺は旅行から帰ったら煮詰めてみます。

 ということで、ちょっと夏風邪気味で更新はほどほどにしますが、週末には伊勢からお伝えできると思います。

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ノアの日

2010-07-17 12:34:50 | Weblog
 今日はノアの方舟がアララトの山に漂着した記念日ですが、京都の祇園祭の山鉾巡行が行われる日でもあります。ギオンはシオンの転訛とされていますが、祇の字には氏が入っているのでシという読みもあり、祇園も正しくはシオンであった可能性があります。

 祇の字は、「示+氏」ですから、要するに京都人の氏素性を指す言葉なのです。京都人の氏素性とは、イスラエル12部族のユダ族などです。「示+申(さる)」で神ですが、申はモーセの事なので、モーセに天界の奥義を示した存在が神なのです。モーセは、エジプトのファラオに物申したからモーセなのです。ナイル川から拾われたからモーセという逸話は、後からこじつけられたのだと思います。

 4日前の13日に、弟子から「雨続きなので土曜日の宮川花火も雨かも」とメールが来ました。その時点での週間予報では曇りだったのです。「17日はノアの方舟がアララトに漂着した日だから晴れる」と返信したのですが、今日は快晴で面目が保たれた様子 <"`∀´ > ホルホル。それにしても、サタンの方の竜神が降らせる雨は異様ですね。

 今年の雨の特徴は、局地豪雨の雲が散弾型で、例年のように降る地域がまとまっていない事です。日本中のあちこちで、本当に局地的な雨量が観測されるのです。西日本の雨は、中国からの雨雲がもたらすもので、中国のエネルギー使用の増加が原因と考えられます。「都心が熱せられると千葉で夕方に豪雨がある」のと同じ理屈です。事態が深刻化する一方なのにミンス政権が動かないのは、災害対策費を仕分けしたからと噂されていますが、自民党が対策本部を立ち上げているのですから、ミンスがいかに無能か分かります。

 ところで、昨年の伊勢参りで同行した読者君がトヨタ系の会社で仕事しているのですが、修理したアンプの押し付けに成功しました。若い男性なので、セパレートアンプでも大丈夫だろうと大きなアンプ。とは言っても、言い出しは随分と前でしたから、ようやくの完成です。スピーカーはブラームスが聴けるように、台湾製の低音に寄ったユニットを使いました。オリジナルの弟子のより根暗な音なので、トゥイーターの追加で誤魔化しています。

 
 
 メイン(パワー)アンプはフロントパネルが潰れていたので、東急ハンズで黒いアクリルをカットしてもらい、プラスチック用のジェル状接着剤で貼り付けました。レタリング文字は書き込んでいないので、パネルからコピーしたものを送り「<;`Д´> 何とか汁」。転写シールが使えると思います。本当は、スモークのアクリルにしたかったのですが、ハンズでは大きいサイズは置いていません。



 プリアンプは根岸で拾ってきた物で、コンデンサーは全交換したのですが、アースラインに問題があるらしく、少しハムが出ます。視聴位置では聞こえないレベルですが、日立のアンプはアースで回路を囲む方式なので、ボリュームなどのケースもアースとして利用されています。これがハムに弱い原因かもですね。

 なお、スピーカーの注文ですが、今回の8㎝ユニットタイプは、高44.2㎝、幅12.4㎝、奥行き28㎝(スピーカー接続端子含む)で、原価がステレオ分の2本で16000円かかります。クリスマスの時に作った5㎝ユニットタイプ(A4サイズ)は原価11000円ですが、音としては低音の限界が違います。8㎝ユニットタイプは50Hz(ヘルツ)まで伸びていますから、交響曲でもそれなりに再生できます。

 フルトヴェングラー時代のレコードは、低域が70~80Hzまでしか収録されていませんから、5㎝ユニットタイプでも問題なく再生できます。コストと使用環境(設置スペース)を考えて注文してください。とは言っても、一ヶ月に2セットが限界なので、完成が何時になるかは分かりません。以前に申し込みのあった方は、板の発注をしますから、ユニットのタイプを選択してお知らせください。

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資料について

2010-07-07 20:05:26 | Weblog
 せっかくの七夕が雨ですが、七夕の起源は定説の中国ではなく、古代エジプトの宰相ヨセフと妻アセナテにあると、僕は古代史の中で書いています。こういう斬新な説は、行き当たりばったりの思い付きではなく、極めて論理的な思索の継続から生まれるのです。

 僕は古代史の中でも書いていますが、「誰の目にも触れていながら、誰も本質が理解できない」という謎を解き明かしているのです。七夕もその一つであり、新しい証拠や資料などは存在しません。もしも資料となる物があれば、書店などに神様がたった一冊だけ備えている状態で手に入ります。特別なルートや読者などから提供されるわけではありません。

 なぜこのような事を書くのかというと、読者から資料として一方的に送られる物が、今までに役立った事は皆無だからです。最近も、神代文字(じんだいもじ、かみよもじ~漢字以前に日本で使われていたとする文字)のマニアから資料が送り付けられ、ビジネスホテル並みに狭い部屋が又狭くなりました。置く場所がないので処分対象です。

 縄文時代の遺跡を含め、古代日本の遺跡は古代イスラエルの尺度(太陽角度連動メートル法=メートル法の先祖)で造られています。同様に、イスラエル12部族の子孫である日本人は、その言語や文字も、イスラエルの足跡であるエジプトやパレスティナと共通点が多くなければなりません。実際、古代エジプトのヒエログリフには夥(おびただ)しい日本語が見つかるのです。しかし、神代文字にはヒエログリフとの共通点は見つかりません。

 神代文字を別にしても、『竹内文書』や『ホツマツタヱ』などに登場する神(祖先)の名が、どうして『記紀』と一緒なのか?僕は、大物主の「物」がモーゼを指すと明快に解き明かしています。しかし、古文書マニアで大物主の名前を解き明かした僕のような天才は皆無です。当たり前ですね。古文書の大半は捏造だからです。

 ヲシテ文字の解説の中に、朝鮮半島のハングルに似ているから、ヲシテも古代文字であるというような牽強付会が見られます。しかし、ハングルは愚民文字と言って、漢字を覚えられない朝鮮民衆のために、中国(明)の属国であった李氏朝鮮の第四代世宗王が、15世紀に新しく考案した物なのです。という事は、ヲシテ文字も同時代以降の創作物と考えるのが自然です。何しろ、縄文時代に使われていたと主張していながら、肝心の縄文遺跡からは一個も見つかっていない文字なのですから、縄文起源の主張に無理がありすぎます。

 『竹内文書』や『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』などの文献との正しい付き合い方は、災害や天変地異などの伝説の部分だけを、あくまで伝説としてピックアップする事です。アメリカインディオの伝説から創作された『モルモン書』から、その伝説部分だけを分離するのと同じです。創作された部分は価値がありません。

 日本人の祖先は、古代エジプトでクフ(正しくはクフウ=工夫の語源)と呼ばれたヤコブであり、また七夕の牽牛と織女のモデルとなったヨセフとアセナテなのです。ヨセフは牛神アメンとして数字の7で象徴され牽牛となり、アセナテはオン(ヘリオポリス)の祭司ポテペラの娘だから「音」の付く織女となったのです。

 『創世記』に記されているように、ヤコブは黒斑の羊で富を得たので、黒斑の羊神クヌムのモデルとなり、ヒエログリフをクヌム読み(ヤコブ読み)したのが「訓読み」の始まり。対して、ヨセフの外戚オンの祭司の読み方が「音読み」となった。ここから、一般的にクヌムと読まれるヒエログリフも、本当は「クン」が正しいと推測できるのです。

 このように、誰の目にも触れていながら、誰も本質を理解できなかった事例として、漢字の「音読みと訓読み」もあるのです。音読みと訓読みの区別は、古代エジプト時代のヒエログリフに既にあった。思索と推理と洞察によって天才と呼ばれる僕に、思索の時間を奪うつまらない資料は必要ありません。送ってくれるなら、図書館で館外禁帯出扱いになっている、教文館『旧約・新約聖書大辞典』などの、本当に役立つ物をお願いします。でも高価だから無理しないでくださいね ハート。

 なお、お薦めの聖書は何ですかと愚問をよこす読者がいますが、僕は少女コミックの落書きが書かれた、ミッション系大学で使う古い聖書しか持っていないので分かりません。イエスの言葉のように、門を叩くつもりで勝手に探してください。あなたの信仰心が、良い聖書に導くでしょう。

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ブラームスのデリカシー

2010-07-06 02:45:03 | 芸術
 もうすぐ参院選の投票日ですが、人事を尽くして天命を待つの心得で、ジタバタしないで粛々と行動するのが吉かと。今年は豪雨や地震などの災害が多いので、できるなら当日ではなくて、期日前投票を済ませておくと良いと思います。マスゴミによる捏造支持率も、現実の支持率を無視できなくなってきましたから、自民関係者はダメを押すつもりで頑張って欲しいですね。

 ところで、秋田大学に勤務する同級生と長電話してから、どうも芸術家の虫が目覚めて、学生時代に放送されたカール・ベームの「ブラームス 交響曲第1番」ばかり聴いています。当時はNHKのFM放送だったのですが、ライブ盤としてCDが出ているので手に入ります。僕は相模大野の図書館で借りてきました。

 CDの印象ですが、昔はもっと音質が良かったと記憶しています。とは言ってもカセットに録音した物ですが、今回はノイズが目立ってヒステリックに聞こえます。エンジニアの腕が悪いのでしょう。

 「ブラームス 交響曲第1番」というと、『のだめカンタービレ』で千秋君が指揮した曲ですが、彼の指揮はカラヤンを参考にしていると思います。カラヤンの指揮は、振り下ろした下限でアクセントのドンが鳴るタイミングです。これが素人には分かり難いんですね。タイミング的には、指揮棒が曲より一拍早く動く感じです。ですから、オケのメンバーの中で、弦楽器奏者は耳を頼りにして指揮棒をろくに見ていません。指揮棒を見ているのはもっぱら打楽器と管楽器の奏者です。

 ウイーンフィルの演奏でもそうなのですから、カラヤンの指揮は難解です。対して、5月にN響を振ったヘルベルト・ブロムシュテットは、弦楽器の弓の動きと一緒に指揮棒を振る、極めて分かりやすい指揮です。でも、分かりやすいから良いとは限らないんですね。芸術の難しい所です。

 カラヤンのように、リズムのドンで合わせる指揮は、実はガリー船(古代の奴隷船)の太鼓叩きと同じなのです。奴隷は、太鼓がドンとなるタイミングで櫂を引き寄せる。カラヤンが指揮棒を振り下げたときに、オーケストラはジャーンと鳴るのです。要するに、カラヤンの指揮は支配の指揮なのです。支配する指揮だからこそ、カリスマ性が求められたのです。

 ブロムシュテットの分かりやすい指揮は、指揮というより音楽に合わせて踊っているに近いのです。音楽とシンクロしているからこそ、踊りのタイミングで指揮棒を振る事が出来るのです。オーケストラに所属する優秀な楽団員なら、どちらの指揮にも付いて行けるでしょうけど、今の僕はカラヤンでは付いて行けないダメな子です。楽譜と照らし合わせながら見る(聴く)と、カラヤンは物凄い指揮者だと分かると思います。

 話をベームに戻すと、ベームの指揮はテンポが遅くて、華麗なカラヤンとは随分異なります。でも、ブラームスにはこれが良いのでしょうね。特に、第二楽章の美しさは絶品で、ブラームスのデリカシーがよく伝わってきます。若いときに聴いた曲ですが、今の方がブラームスの偉大さが理解できます。

 秋田で准教授をしている同級生は、芸大寮で酒を飲むと、僕の部屋でブラームスを聴いていました。秋田で、ブラームスの話が出来る友人はいるのかな?

      エフライム工房 平御幸
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深浦その2~北前船

2010-07-03 20:44:33 | Weblog
 深浦というと、将棋好きには深浦王位ですが、深浦王位は長崎の佐世保出身です。深浦家が深浦出身かは分かりませんが、深浦を寄港地にしていた北前船によって、ご先祖が長崎に移住した可能性がありますね。

 北前船と長崎というと、越前の国・三国(福井県坂井市)の船祝い歌に「いざき」というものがあります。「いざき」とは水先案内人の事ですが、この祝い歌の節回しは、長崎県の馬渡(まだら)島から伝わったと考えられています。北前船によって歌も広まったわけです。

 北前船の長さは22m位で、クフの太陽船の約半分です。北前船の航海能力から、太陽船が外航を想定していたという僕の仮説は信憑性を帯びてきます。北前船は太陽船と同じく、船の先端が絞られた近代的な形状をしています。太陽船の先進性を物語るものです。北前船は、ロシアなどからの交易品をもたらし、大陸が身近な存在であった事を証明しています。でも、大陸と日本は、海があってもそれほど離れていないのかもしれません。

 日本の文化の中心は、奈良から京都に移り、そして近代では関東に移りました。しかし、古墳時代以前には、西日本は人口密度が低く、人が住むに不適切な天災などが多かったと推測されるのです。僕は、西日本全体が移動する、大規模な地殻変動が頻繁にあったと睨んでます。これが古代史の第四部・邪馬壹国編のテーマなのですが、その中で古地磁気学について考察しています。

 古地磁気学とは、岩石にプリントされた古代の地磁気を調べる学問で、平安時代に地磁気が大きく変化した事が分かっています。実は、この地磁気の変化と平安時代の大飢饉はシンクロしていると考えられるのですが、もうひとつの因果関係が青森にもあったのです。それは、十和田湖を形成した火山の爆発です。


  ↑方位磁石のN極が指し示す方角の変化
  古代には方位磁石が役に立たなかった事が分かる

 十和田湖は今でこそヒメマスで知られていますが、これは苦労して養殖した人工の産物です。昔は魚の住まない湖として有名だったのです。では、平安時代に十和田湖が出来るほどの噴火があり、それが大飢饉に繋がったのか?答えはノーです。意外な事に、大飢饉の原因は北朝鮮と中国の国境にある、白頭山(中国名・長白山)の噴火がもたらした物と考えられます。そして、十和田と白頭山の噴火は同時に起こっていたのです。それがまた起ころうとしているのです。

 このように、近い将来に遠く離れた二つの山がシンクロして噴火するとき、大飢饉をもたらす噴煙が観測されるはずです。最近でも、十和田周辺では毒性の強いガスが噴出して、死に至る人的被害が発生しています。これが警鐘としての前触れなのか、それを確かめるためにも、近いうちに僕は十和田も訪れなくてはなりませんね。岩木山が見られなかったのも、まだ十和田に噴火の兆候が現れないから、「もう少し先に訪れよ」という天のメッセージかもしれません。

      エフライム工房 平御幸
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深浦その1~太宰治の汚い宿

2010-07-01 10:31:43 | Weblog
 今回の旅行で、青森県の西の漁港として知られる、深浦の読者が熱心に案内してくれました。太宰治が『津軽』を書くために取材に訪れた深浦ですが、太宰が泊まった旅館が「ぶんがく館」として改装され、太宰が汚い部屋と書いた一室も保存され、部屋の窓からは深浦の海も見えます。

 今回案内してくれたのは、「ぶんがく館」の児童向けコーナーを仕事場にしている方ですが、「斜陽館」と呼ばれる、太宰が育った金木の生家から案内してくれました。金木へ行くには、弘前から五所川原へ向かい、五所川原で津軽鉄道の「走れメロス」号に乗り換える事になります。一両編成なのに、ちゃんとガイドさんが乗車している力の入れようです。



 太宰の生家である津島家は資産家であり、また議員を輩出する名家にふさわしく、斜陽館の作りや調度は金がかかっていて、太宰が育ちがよいと評価される理由がよく分かります。しかし、太宰の文章を育んだかと言えば、それはちょっと疑問です。

 太宰は文体で読ませる作家であり、簡潔で語彙が豊富、深い陰がありながら、それでいてユーモアもあるという、独特の表現力を持っています。けれど、これは地元の津軽弁の特徴ではありません。むしろ、物や情景を表現するには難しい津軽弁の欠点を補うために、標準語による文体が彼の中で求められたのではないか?宮沢賢治の花巻弁による創作とは対極にある、何を書いても下品にならない、やはり育ちの良い作風なのです。

 深浦の旅館は、太宰の生家と比べれば、それは汚い部屋しかありません。悪気ではなく、寂寥とした深浦に来て、感じたままに書いたのでしょう。深浦についての太宰の文章は、観光地のパンフレットにそのまま使える、実に簡潔で説明が行き届いた描写になっています。カメラ目線と時間軸で構成されるプロローグは、実は僕が最も苦手とするものでもあるので、太宰の文体は教科書的にさえ見えます。

 僕は雨に濡れる事はほとんど無いと以前に書きましたが、この日は最初からの雨模様が、五所川原の立佞武多(たちねぷた)館を出るときは本降りになってきました。急いでタクシーを捕まえて五所川原駅に戻り、喫茶店で一服していると目が痛くなって目を洗いました。この間に、案内してくれた方が、前もって買っておいた深浦までの特急券の発券間違いに気が付きました。神様が「早く気が付け」と雨を降らしてくださったのです。目を洗うは、よく見ろという事だったのです。

 あいにく、岩木山は見られませんでしたが、太宰は青春だと宣(のたま)う弟子には、「走れメロス号」のキーホルダーみたいなのを土産に買い、深浦の旅館で普段食べ慣れないものを食べて熟睡。昨晩の青森では一時間しか眠れなかったのとは大違い。やはり、バランスの良い食事が睡眠に必要みたいですね。

      エフライム工房 平御幸
コメント (2)
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