平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

落ち穂拾いの精神

2008-11-27 01:26:47 | Weblog
 日本の学校を出ていてミレーの名画『落ち穂拾い』を知らない人はいないと思いますが、落ち穂拾いの精神を知っている人は希(まれ)だと思います。『落ち穂拾い』を、貧しい農民の情景に結び付けるのは単純すぎるのです。

 旧約聖書の『ルツ記』は、エフライム人エリメレクの次男キリオンの妻で、寡婦となったルツの物語です。エリメレクの妻ナオミは、エリメレクと二人の息子が亡くなったので故郷のベツレヘムに帰ろうとしますが、寡婦となったルツは、別の嫁ぎ先を探そうとせずナオミと共に生きる事を選択します。しかし、ベツレヘムでは貧しい生活が待っており、ナオミの親戚である富農ボアズの畑の落ち穂拾いをする事になります。このボアズがわざと落ち穂を多くしてルツを救けるのですが、後にルツと結婚して、エリメレクの畑も買い戻してくれます。

 さて、落ち穂拾いというのは、旧約聖書の時代に、貧しい者のために落ち穂を残す事が半ば義務付けられていた制度なのです。イスラエルの子孫である日本人は、この精神を蜜柑の実を枝に残すという方法で現代に伝えています。蜜柑の実を全部取ってはならないという決まりはここから来ているのです。ですから、ミレーの絵を鑑賞する時に、貧しい農民の方だけに目を向けるのは片手落ちという事になります。落ち穂を残す、少しばかり豊かな者も隠れているのです。

 僕がこの絵の事を思い出したのは、秋葉原で帰りの切符を買った時でした。硬貨のお釣りを取り忘れて券売機から離れようとした瞬間、後ろにいたホームレスと目が合ったのです。目が合った時にお釣りを取り忘れた事を思い出したのですが、ホームレスのために神様がそうさせたのだと気が付き、そのままにしてきました。この些細な出来事が、落ち穂拾いの精神を思い出させてくれたのです。

 『ルツ記』の物語は、幾つかの暗喩を含んでいます。というのも、ルツは伝説の王ダビデの曾祖母に当たるのですが、落ち穂拾いをしたベツレヘムはイエス(ダビデの子孫)の出身地とされているのです。ベツレヘムの旧名はエフラタで、これは「得ふる(エ・フル)土地」という意味で、エフルは倒置されて増えるとなります。日本語の増えるはエフルが正しかったのです。英語の「一杯」を意味するFullもここから来ていますが、古里の語源であるのは言うまでもありません。

 エフラタは、ヤコブ(別名イスラエル)が愛したラケルが埋葬された土地であり、ラケルの子ヨセフからエフライムが出てイエスの雛形になります。要するに、イエスとエフライムの関係が、ベツレヘムとエフラタの関係となるのです。ベツレヘムから救世主が出るのはイスラエルのエジプト時代に預言されていたのです。

 ベツレヘムの意味は「パン(レヘム)の家(ベツ)」ですから、パン屋さんやケーキ屋さんなど、お菓子屋さんも含めてみなベツレヘムとなります。家業の手伝いでケーキやカステラを作っていた僕もベツレヘムの出身なのです。僕は先祖のエフライムがイエスの雛形だった事から、再臨するイエスの雛形という性格を少しばかり与えられているのです。『イザヤ書』53章に記される救世主の特徴は、威厳が無く、顔が損なわれ(顔に傷を持つ)、病を知って(病弱気味)、などなど当て嵌まりますが、特に52章の「彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつぐむ」という記述が僕の古代史を形容しています。求めて与えられる者は幸いである。求めない者の不幸は、落ち穂を侮るのに似ているのです。

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横糸の必要性

2008-11-22 04:46:27 | Weblog
 僕は神の教会をネットワークにたとえますが、別の表現では良い織物となります。織物とは、縦糸(経)に横糸(緯)を編み込んだもので、これだけの作業で強靱で美しい布が出来上がります。このように素敵な織物ですが、縦糸と横糸では役割が違うのです。

 縦糸は、社会で言えば縦社会、人間で言えば個人です。個人個人が別々の色ならば、出来上がる織物も色々な色が散りばめられたものになりますが、いわゆる文様(もんよう)を獲得するには横糸の助けが必要となります。横糸は、何往復も行き来するシャトル(=杼~ひ)によって運ばれる一本の糸です。杼は、硬直した縦社会に横の繋がりをもたらす人物に似ています。実は、イエスの十字架(クルス)も縦と横の木で出来ているように、織物のクロスは十字架と同じ意味なのです。

 昭和天皇が亡くなった時に、競馬界にタマモクロスという十字架と、オグリキャップという茨の冠が出現したように、日本はイエスの奥義を伝える尊い国です。しかし、現在の日本は横糸の足りない織物に似て、個人個人がバラバラに孤立して、横の繋がりを欠く構造的な欠陥を有しています。

 例えば、フィギュアスケートで選手にプレゼントする時、ファンは自分の都合でプレゼントを決めています。これを自己愛の投影と言います。投げ込まれる花やぬいぐるみも嬉しいでしょうけど、本当に選手のためになっているのでしょうか?ファン一人一人の予算は限られていますが、何人かが結束して資金をプールすれば、少し高価なプレゼントが実現できます。勉強盛りの選手なら、遠征先でもゲーム感覚で学べるニンテンドーDSや、演技や練習のDVDを再生できるノートパソコンなどが有り難いはずです。このように、横の繋がりというのがあれば、自己満足のプレゼントから選手に必要なプレゼントに意識改革も出来るのです。

 選手に対して自己愛を投影するファンは多いですが、愛の本質は自己犠牲であり、また相手を自由にする事なのです。選手が自由に活動できる環境のために自分の資金を提供する。その精神があれば、ありきたりなものを投げ入れてゴミ袋に収容され、本当に選手の元に行くのかヤキモキする事も無くなると思います。でも、横糸の役割を買って出る人は大変だろうなとは思います。これが自己犠牲ですね。

 という事で、今回はフィギュアスケートのプレゼントをたとえとして書きましたが、僕が教会を建設しようとする理由が理解されましたでしょうか。相手を自由にする事、そのための自己犠牲、この理念こそがイエスの東方教会にあったものですが、異邦人の教会(バチカン)によって失われてしまいました。大半の教会が縦社会だという事は、横糸のない織物状態だという事を証明しているのです。教会建設に疑問を持つ読者に対する、これが解答です。

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ステップアップするという事

2008-11-19 17:57:25 | Weblog
 モーツァルトのピアノ協奏曲は、第18番変ロ長調K.456を境に大変貌を遂げています。この1784年に作曲された一連の作品の中で、次の19番ヘ長調K.459(第2戴冠式)から深みが増しているのです。そして、翌年に傑作の第20番ニ短調K.466が誕生します。このように、第18番変ロ長調K.456はモーツァルトを変えた礎とも言える作品なのですが、出来は彼の生涯では平凡なものに過ぎません。しかし、彼の父レオポルドは涙を流して称えたそうです。ということは、現在では平凡と感じる作品でさえ、当時は傑作の部類に入っていたのです。この壁を乗り越えたモーツァルトには何が起こっていたのでしょうか?

 実は、第18番は、盲目の女性ピアニスト、マリア・テレジア・フォン・バラディスに捧げられた作品のようですが、出会いは前年の1783年です。一年後に彼女の演奏旅行のために作り上げたものらしいのですが、特に際だった音楽性も感じられない、どちらかというと退屈な部類の出来映えです。モーツァルトは果たして満足したのでしょうか。

 モーツァルトのそれまでの傑作は、ハフナー、ポストホルン、グラン・パルティータなどのセレナーデやディヴェルティメント、あるいはハフナー交響曲やピアノソナタなど、どれをとってもピュアなものです。僕も大学一年の冬に、ラジオから流れてくる交響曲第35番ハフナーの第2楽章に涙して、自分の壁を乗り越えた経験があります。これが、一念発起してオーディオを揃えようと思った動機ですが。

 しかし、この境以降、モーツァルトの作品は凄まじい進化を遂げています。たとえるなら人間の領域を離れて神の領域にあるのです。慈愛、悲しみ、怒り、希望、などというものが、単純に美しさを求めたものではない精神性を獲得して、崇高という領域に昇華されているのです。以前の美しさに感動した涙が、神の余りの尊さに涙するくらいの変化があるのです。特に最晩年のクラリネット協奏曲イ長調K.622の第2楽章は、僕が建設する教会のテーマ曲に選ぶほどの傑作です。僕はこの曲を思い出すたびに、自分に十字架を負わせるイエスに感謝できるのです。イエスがモーツァルトを通してプレゼントしてくれた最大の祝福。それがクラリネット協奏曲イ長調K.622・第2楽章なのです。

 モーツァルトが盲目の女性ピアニストに出会い、彼の中で葛藤や変化があったとしても、それをより高みに昇華できる資質は大天才のものです。バッハに比して足りないと思われていた深みに到達しているのです。まるで、イエスが御父と同格となったように…。十字架上のイエス・キリストを刻んだ磔刑像をcrucifixと言いますが、これが「苦しい」の語源なのです。茨の冠が草冠、それに十字架と口で「苦」の字が出来上がります。苦しい時は、十字架上のイエス思い出しましょう。そこに光があるはずです。

 参考 クラシック音楽とアンドレア・ロストファンのページ

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欠けている芸術に対する敬意

2008-11-18 01:37:11 | Weblog
 舞・真央公式サイトで、使用する曲の指揮者や楽団名が昨秋(ショパン幻想)から省略されています。この芸術に対する無理解はどこから来ているのでしょうか?CDならレーベル、指揮者、楽団、などの記載は常識であり、それが芸術と版元に対する敬意となるのです。どこの馬の骨かも分からない演奏でもあるまいし、最低限のマナーは全選手に必要だと思います。このような常識を教育しないスケート連盟の怠慢でもありますが…。

 芸術というのは、極限的な状況で生み出される、たとえるなら命の精のようなものです。美という言葉は、そもそも「凝縮する」という意味を持つもので、蜂蜜のように集められたエッセンスが美なのです。ですから貴重であり、そこに美に対する敬意が育まれてきたのです。

 美や芸術に対する敬意の表し方は人によって異なりますが、資金と環境に恵まれている人は生演奏や美術館に通う。CDを聴く時は、CDに収録されている情報を欠落させないように、少し無理をしてでもオーディオセットに投資する。CDを買う余裕がある時はコピーではなくCDを購入する。もちろん、美術や音楽関係の本を購入する事で、文化の底辺を支える事になります。このような基本が出来ていない人は芸術を語るべきではありません。

 話を最初に戻しますが、以前に使用した曲は説明がちゃんとなされています。要するに、昨シーズンから突然の怠慢路線となったのです。芸術と芸術家を蔑(ないがし)ろにする、この意識の低下がサタンを呼び込み、今シーズンの裏目に繋がっているのです。神への反抗はまず、些細な事に現われる。高いところから墜ちたら、再び登るまでに以前の何倍も苦労が必要とされるのです。一年前に戻るには三年必要。それくらいの危機意識が無くては、もう跳ぶ事はできないでしょう。跳ぶとは、飛ぶ事であり、神のように自由になる事のたとえなのですから。翼を失ったら堕天使として、現世利益のためにサタンの奴隷となるのです。

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才能と霊感

2008-11-13 02:44:06 | Weblog
 ブログを始める前に書き留めていた原稿(才能論)を読み直してみたら、結構良い事を語っているのでそのまま掲載する事にしました。日付は2005年4月16日となっています。

 "大多数の人は、才能は天性のものであり、そこには後天性は存在しないように考えている。実際、そのような才能もあるが、才能の本質を語ってもいない。なぜならば、本当の才能とは、神が純粋な魂に下さる賜(たまもの)に過ぎないからである。

 才能は素質(素材)と伸びシロ(成長力)の両方において優れていなくてはならないが、仮に両方備えている者があったとしても、これでも不足である。なぜならば、霊感(インスピレーション)が無くては、独自の世界を創造することはできないからである。従って、才能論を展開するときには、霊感について語らなくてはならないし、霊感を語ることのない才能論は、最初から一番大事なテーマを放棄したことになる。このように、才能は一言では語ることができないものであるから、今回は霊感にテーマを絞って書いてみよう。


 霊感とは、自分の外からやってくるものである。人間には自分の能力的な限界というものがある。それを素質と言うが、自分でどうこうできるものではない。できることと言えば、努力して素質に見合った成長を遂げることくらいである。素質は遺伝的な要素が強く、それを伸ばすには環境の整備が不可欠である。けれど、いくら努力しても限界があり、その壁の前には無力になるしかない。だが、霊感を持つ者は、まるで壁が存在しないかのように新たな次元の世界を開拓する。いやむしろ、傍目には壁を利用して成長しているようにさえ見える。こういう人を天才と呼ぶのだが、かつては天才も凡人と同じ道を歩み、幾つかの二股道で一緒に立ち止まっているのである。天才も凡人も、同じこの世に属して生きているのだから。

 このように、ある壁を乗り越えようとするときに、人は二股道に差し掛かり道の選択を強いられる。また、この道のことをカッバーラではパス(小径)と言う。この二股道のどちらを選ぶかの判断材料は、その人の経験ではない。全く新しい未経験の道なのだから、小賢しい経験則は通用しない。では、何をもって人は道の判断材料を選るのか?実は、その人の心の奥底にある純粋さである。純粋な人は、この二股道で神の声を聞く。この声は小さいので、心を澄ましていなくては聞こえてこない。世俗の事に心を煩わせている人には聞こえてこないのである。イエスは、これをマルタとマリアの姉妹にたとえている。妹のマリアがイエスの話を熱心に聞く余り、教会の仕事を疎かにした。姉のマルタは自分だけが忙しいので不平に思い、イエスにマリアに注意してもらおうとした。ところがイエスは、マリアを褒めた。

「あなたは多くのことに心を配って思い煩っている。しかし、無くてならないものは多くはない。いや一つだけである。マリアはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」ルカによる福音書10章41~42

 イエスの時代に生きて、イエスの話を聞くことができた人は幸いである。だが、せっかくイエスの側にいながら、マルタはイエスの話よりも客人の世話をする自分を選んだのである。そうすることで褒められると勘違いして。マルタには、人から良く思われたい、褒められたいという、世俗の価値観が生きていた。だから、イエスは純粋なマリアを褒めたのである。

 美術大学を目指して絵を学ぶ場合、目標をどこに置くかで成長の結果が違ってしまう。芸大に入りたい、公募展に通りたい、お金を稼ぎたい、こういう俗な価値観で絵を学んでも自ずと限界がある。僕は、研究所で先生が与える課題を無視した訳ではないが、一枚一枚にテーマを与えてそれを最優先させた。それは、心の中の神の声に従った結果であり、そういう意味では僕は霊感に恵まれていたのである。だが、神の声はいつでも誰にでも語られている。人がそれに気が付かず、破鐘(われがね)のように響いてくる悪魔の声に従っているだけなのだ。そう、二股道とは、神の光の道と、悪魔の闇の道の二股を指すのである。そして、神の声は心を澄まさなくては聞こえてこない小さな声なので、大半の人には聞こえてこないだけなのである。これは、心の持ち方における自己責任なのである。

 人生の岐路とは、些細なきっかけで迫られる二股道である。だが、その道の行く末は天国と地獄であるから、決して疎かにはできない。また、この世に属す人間で神による霊感を持つ者は極端に少ない。だから彼らの心の中は空虚である。その空虚さから逃れるために、擬似的な霊感を得ようとする。それが、悪魔の誘惑の声とも知らずに。チャネリングとか、自己啓発とか、カルトや様々なセミナーの実態はこれであり、心を澄まさなくても聞こえてくる破鐘の音なのである。才能のない者は、その空しさから闇の声に従い闇の道に至る。そして、名声や高収入などのこの世的な成功によって満足するのである。その結果、魂も霊も悪魔の物になってしまうのだが。"

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和歌とイエスの罪状書き

2008-11-05 04:54:00 | 古代史と聖書
 古代史は順調に新発見の連続ですが、アンチが増えた事だしそろそろ無料公開を止める時期に来ているかも知れません。世界で最も神聖な奥義を公開しているので、僕には神に対する責任があるのです。明日いきなり閲覧できなくなっていても悪しからずお願いします。

 僕が古代史で書いている事は大部分がオリジナルであり、そうでない部分はことわっています。これほど膨大なオリジナルは、神の霊によってもたらされる奇跡なのです。その有り難みが分からない愚か者は金も払わないのに噛み付いてきます。こういう者を地獄に堕ちた者というのです。「聖なるものを犬や豚にやると噛み付いてくる」と言うイエスの教えは正しかったのです。

 さて、古代史の方で新発見があったのでオリジナル主張のために発表します。非公開にした時に、僕の説だという事が分からなくなると困るからです。今書いているのは『万葉集』編ですが、和歌というものの性格を決定付けるのは三十一文字と首という数え方です。特に、どうして首と数えるのかの説明に出会った事はありません。

 この基本にして最も難解なテーマですが、やはりカッバーラによって隠されてきた知恵なのです。その知恵とは、イエスの罪状書きの板です。ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語、という三カ国語で「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書かれた板ですが、飛鳥氏によると八咫烏は罪状書きの板を首と言うそうです。ラテン語ではIESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM、略してINRIと書かれますが、数えれば分かるように26文字です。実は、このラテン語版にキリストの名前Crist(異体~通常はChrist)を追加すると31文字になるのです。

 レクイエムなどでは、しばしばクリステ・エレイソンと歌われるパートがあります。「キリストよ哀れみたまえ」という意味ですが、「主よ…」と呼びかけるキリエ=Kyrieの方でも31文字になります。英語で検索すると結構異体字のCristが氾濫しているのです。これは、ラテン語にもhを抜かした表記方法があったのではないかと思われるのです。

 さて、罪状板に書かれた文字が和歌の三十一文字の原型であるとする根拠ですが、実は和歌の数え方にあります。和歌は何故か首で数えるのですが、この不思議な数え方の論理的な説明は、首と呼ばれた罪状書きにあるとする他はないのです。だからこそ、『万葉集』には罪人として処刑された皇子達の歌が集められているのです。

 三十一文字は五七五七七と数えられますが、これも次のようになります。

 このように聖数7が777と並ぶ十字架が構成されるのです。さて、ラテン語のキリエは、実は首相などが公式会見する場での台(桐紋)でお馴染みです。というのも、桐は元々はパウロの名前が桐なのです。ここから菊の紋のイエスに従う者という意味で桐の紋は使われるのです。しかし、桐の絵でキリエとは八咫烏には脱帽です。僕たちは知らずに「主よ」と叫んでいたんですね。


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絶対という事

2008-11-03 13:38:44 | Weblog
 聖書を読んでいて一番難解な概念は絶対という言葉です。ヤハウェ=イエスは絶対神と呼ばれていますが、そもそも絶対とは何なのでしょうか?多くの人はこれを「完全」という意味で用いていますが、そのような単純なものではありません。

 聖書、特に旧約聖書を読めば分かるのですが、神が預言者に命令する事は変な事が多いのです。山に登れ、石を積め、塩をまけ、川を上着で叩け、目に唾でこねた泥を塗れ、などなど。現代の理屈ばかりこねる人間なら、大半は「何でそうするのですか?」と質問するか、不平を言いながら渋々従うところです。神が絶対の力を持っているのなら、変な儀式など必要もない理屈です。

 では、なぜ神は変な儀式を預言者に授けているのでしょう。それは聖別するためです。選び分けるためです。神が選んだ人に権威を与えるために、普通の人間では躊躇する事を命令し、素直に従った者を預言者としているのです。神のこの命令が絶対なのです。逆らう事は許されていません。預言者が逆らえば預言者ではなくなるし、普通の人が逆らえば神の祝福は無くなるのです。実際、役目の後に禁止されている食事をしたために、帰路で獅子に殺された預言者がいるのです。

 このように神の命令は絶対であり、預言者はモーセのように尻込みする事になります。預言者も人間ですから、いかに神の命令でも王を怒らせたりするのは気が引けるものでしょう。しかも、彼は無知で愚かな民衆を何十万人も導かなくてはならなかったのです。何かと言えば権力を独占していると批判されます。苦悩に対して得る対価はほとんど無きに等しく、預言者ほど割に合わない仕事もないのです。では、預言者はどうして活動を続けたのか?それは神の言葉が絶対だからです。

 エジプト宰相ヨセフのように獄に繋がれたり、モーセのように何度も殺されそうになったり、エリシャのように子供に馬鹿にされたり、このような預言者の苦労が今の日本の下地となっているのです。もっとも、エリシャを馬鹿にした子供42人は呪われて熊に殺されましたが。子供と言えど神の人に逆らうのは許されないのです。

 神の心は計り知れず、人間の思いでは理解不能、あるいは損になる命令がたびたび預言者には下されます。預言者は神の予定調和を信じて、それを遂行するのみです。神と預言者の絆は、神と王との絆よりも強いのです。預言者もかっとなって子供を呪い殺したりの間違いもしますが、苦難をものともしない強さには敬服せざるを得ません。パンと水だけで力がみなぎるだけの信仰、それが僕の課題ですかね。パンと水はモーツァルトも真似をしたようですが…。

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言霊の力

2008-11-01 14:00:27 | Weblog
 古代史CDの読者には一部予告したのですが、第五部の『万葉集編』は、歌聖・柿本人麻呂の正体を明らかにする段階に来ています。予定より少し遅れていますが、実は新たな発見があったために資料作りで忙しいのです。具体的には、カシミール3Dというソフトで、地図上に人麻呂が歌った地名のフラグを立てている作業中です。

 人麻呂というのはある有名人の仮の名なのですが、推理作家・島田荘司風に言えば「読者に挑戦する」というレベルの、謎解きの基本的な材料は提出済みになっています。ですから、読者は自分の力で人麻呂の正体に迫る事が出来るのです。もっとも、証明するには人麻呂の妻などの歌を分析して、彼の人脈や歴史から隠れている理由を説明する必要がありますが。

 さて、その人麻呂ですが、彼は言霊というものを極めて大事にした人かもしれません。『万葉集』巻十三の「作者未詳或は人麻呂作か」とある3254番の歌ですが、次のように歌われています。

 敷島の大和の国は言霊の助くる国ぞ国ぞ真幸くありこそ

 言霊は人を動かす力があります。いや、天に通じれば神の加護が期待できるのです。ですから、僕はマイナスになる事は絶対に書かない事にしています。不安材料を入手していても、無視していることも多いのです。もしも僕が悲観的な事を書けば、それで一度に数千人が不安になるのです。それが毎日ともなれば大変な数になります。

 神は美しく強い言葉に魂を与え、逆に悪魔というのはマイナスの言葉に増殖して活動するのです。2chのスケート板はそのマイナスの言葉の宝庫(ゴミ溜め)です。スレタイだけ見ても狂気が支配しているのが分かります。その地獄に光をもたらすのは絶望的な試みなのですが、幸いにも真っ当な人間が少数は存在しているようなのが救いです。

 ところで、僕がニダー君の事を書いたら韓国がアメリカとの300億ドルのスワップを締結させ、崩壊を来年の春に先延ばしされました。これも一種の言霊ですね。ドル建ての借金を増やしただけですが。それで縁起が悪いので、ニダー君の記事は封印する事にしました。アメリカ民主党が韓国を使って反日を強めてくるのは、米大統領選後ですからもうすぐです。オバマの側近に韓国人がいるのです。麻生・中川の最強コンビでどこまで持ちこたえられるか。日本はいよいよ正念場ですね。

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