江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

西洋屯田・江別兵村

2018年09月19日 | 歴史・文化

 江別屯田兵10戸56人は、各戸に間口50間、奥行き100間、5千坪の給与地が与えられました。しかも、兵屋は、暖炉付、ガラス窓など北方寒冷地住宅ともいうべき、破格のものが用意されました。

 琴似や山鼻屯田の和式木造切妻平野(旧来の平均的農家住宅)に比べ、はるかに高級、ハイカラなものでした。それもそのはず、建築費は、琴似型210円に対し、倍以上もかかりました。

 江別屯田が琴似や山鼻から西洋屯田といわれたのは、住宅のせいばかりではありません。各戸に牛(短角種)と馬(日高和種)一頭ずつが給与され、更に鋤鍬(すきくわ)ではなく、一応の洋式農具を備え、畜力による開墾が始まったからに他ありません。

 明治16(1883)年4月「北海道転籍移住者手続き」(太政官布達)が発布され、同時に従来の「移住農民給与更生規則」、「北海道送籍移住者渡航手続」が廃止されました。つまり、前者に後者が一本化されたわけですが、肝心な点は、一般農民に対する保護内容の明らかな低下でした。

 他方、士族移民の保護は厚くなりました。
 同年6月、札幌県などは、「北海道移住士族取扱規則」を布達、屯田兵制度の原型ともいうべき「厚キ保護」策に転換しました。
 この方針の転換が、明治17年以降の江別、篠津、野幌への士族移住となって表れました。すなわち、17年3月、政府は、向こう六カ年間に国費から士族授産のため金88万6千125円の支出を決定しました。また、陸軍省は翌18年から同23年までに士族屯田1千61戸を募集するとし、その中心の一つを江別村に置きました。

 江別村に第二次屯田75戸が入地した翌月、17年6月に現在の江別小学校所在地に第三中隊週番所(中隊本部)が置かれました。
「此の月江別村第三中隊週番所ニ番兵ヲ設ク。下士1名、卒四名ヲ以テ警備セシム、之レ其土地ノ僻遠ナルト樺太空知両集治監囚人徒脱監ノ途ニ当ルヲ以テナリ」(『屯田兵沿革』屯田兵司令部編)。第三というのは、琴似の第一、山鼻の第二に次ぐもので、この年まで入地の江別、篠津両屯田を一団の中隊組織として編成したものです。

 この中隊編成は、その後の屯田兵の増加と共に幾度か変わりました。
 そのうち重要なことは、明治20年5月に江別村に大隊本部が置かれ、第一中隊(江別と篠津)と第二中隊(野幌)に分かれたことです。
 これは、その後の江別の街づくりに大きな影響を与え続きました。一つの中隊は一つの兵村を意味し、兵村は軍事上はもとより、地域生活全般を規制する単位となったからです。
以降、長い間一つの同じ行政村ながら、江別(兵村)と野幌(兵村)は何かと肘を張り合う隣村感覚の時代が続きました。具体的には、後に表面かする町村長選挙、町医配置、実科高等女学校の位置決定などにおける、度ごとの摩擦です。


註 :江別市総務部「新江別市史」148-150頁.
写真:十二戸屯田のアメリカ兵屋
 同上書149頁写真3−10掲載写真を複写し、江別創造舎ブログおよび江別創造舎facebookに掲載いたしております。




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