明治9(1867)年開拓使は、琴似、山鼻に次いでエベツブトに屯田兵を配置する方針を固めました。
開拓使顧問であるウィリアム・S・クラークやエドウィン・ダンなどからさまざまな提言指導などを受けました。
例えば、クラークからは住宅の改善、ダンからはアメリカ農法の導入、などです。ダンは、明治9年10月25日、開拓使の中判官堀基に宛、耕牛馬や外国農具の使用は有益であると結論づけ、かつそれらの一覧目録を添付提出しました。
「貴下ノ命ニ随ヒ 本日22日余ハ屯田兵用ニ託セラレシ石狩河ニ於テノ陸地ヲ巡視セシニ 外国農具ハ概該地ノ都テニ有益ニ使用スルヲ得ルナリ」(『外国人像登録』)云々です。
江別屯田は、その出生時から府県型日本農法から脱皮の実験農場的色彩を帯びていました。また、その位置に関して、「津石狩は伏見に等しき土地なり」(『西蝦夷日誌』松浦武四郎)のとおり、樺太アイヌ・対雁移民との関連があったことも忘れてはなりません。
要衝なれば北門ノ鎖鑰である屯田兵は、対雁村の豊平川々口一帯に配置しなければならないと考えても不思議ではありません。事実、開拓使は対雁の当該地の確保に動きました。
しかし、その土地は、対雁移民800余名が強制的に移住させられたばかりの処です。対ロシア関係に直接響き合う樺太アイヌの移住問題を屯田兵入地で更に混乱させるわけにはいかなかったのです。結局、江別最初の屯田兵は。対雁移民の給与地に隣接した、モショッケ川右岸から石狩川上流に添うて伸びる土地に落ち着きました。
エベツブトに屯田兵10戸56人が入地したのは、明治11年8月29日でした。この時点では、居宅となる兵屋は完成していませんでした。完成したのは、10月でした。
開拓使は、10月5日、ここに村を設け、村名を江別と名付けたのです。
甲第8号府県布達
当使管下石狩国札幌郡ノ内字江別太ヘ新ニ一村ヲ設ケ江別村ト称ス
エベツブトが、江別村に決定したのは、開拓使関係部課の投票によるものでした。江別村の他、恵別村、画櫃村、戎太村、江別村、蛯津村、などの候補がありました。
屯田兵幹部は、公文課、地理課による票決の結果、満場一致で江別村に決定しました。
註 :江別市総務部「新江別市史」147-148頁.
写真:モショッケ公園
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