江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

市乳のはじまり

2009年04月27日 | 歴史・文化
 明治30(1897)年代に入ると、市乳の需要が函館、札幌などの都市を中心におこりました。

 明治35(1902)年以降になると、全道の主要な都市に搾乳業者が出現、市乳普及は駆け足となりました。
 明治42(1909)年7月の全道支庁長区区長会議における「勧業に関する注意事項」の一項には次のような一文があります。
「乳用牛は市街地付近にして牛乳需要者多き地方に於いて適当とするも 僻数(へきすう)なる農村は乳の利用者少なきを以て 肉用若くは乳肉兼用の種類を飼養するを利益とす」(殖民公報」第50号)

 『野幌屯田兵村史』によると、江別で本格的に乳牛販売を目的とした最初の市乳業者は、竹見堅蔵であると記されています。
 さらに、『篠津屯田兵村史』によると、「明治末期に現雪印種苗工場付近に山田某が牧場を持ち、十余頭の乳牛を飼育して生乳販売していましたが、直(註:名越)はこれを土地、畜舎を含めて買収し、獣医師を兼ねて営業した」と記されています。なお、名越の市乳業は、大正5(1916)年に渡辺三右衛門が引き継ぎ、その後長く江別小学校裏の牛乳屋さんとして親しまれていました。

 「勧業統計」によると、明治後期から大正期にかける江別の「搾乳」状況をみると、搾乳業者は2-6戸、搾乳牛は10頭から30頭台でした。搾乳量は百石前後で、意思当たり15円から20円でした。また、販売の牛乳屋は、大正4(1913)年で3軒、翌5年で6軒でした。

 なお、この頃町村敬貴(町村農場創業者)は、10年間のアメリカ修業を終えて帰国し、東京中野区で牛乳搾取販売に寧日のない日々を送っていました。雌伏機関でした。
 大正6(1917)年秋、敬貴は石狩・樽川へと足を踏み入れました。やがて江別に移り、ここに今日にいたる町村農場の第一歩が踏み出されたのです。

(参考)当ブログ2008年12月26日「北海道初の練乳製造民間会社」
http://blog.goo.ne.jp/ebetsusouzousha/d/20081226

註:江別市総務部「新江別市史」301-302頁.
写真:メグミルク(日本ミルクコミュニティ株式会社)札幌工場内
 メグミルク牛乳の製造工程を下記にてご覧いただけます!
http://www.megmilk.com/factory/virtual/index.html


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