江別創造舎

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清朝の辺民制度と樺太

2010年03月09日 | 歴史・文化
 16世紀末期のイヴァン四世(雷帝)の時代にはじめられたロシアのシベリア浸出は、1639年にはオホーツク海に達し、1649年にはついにユーラシア大陸の東端に達しました。
 ロシア人をシベリア進出に駆り立てたのは、クロテンの毛皮に対する飽くなき欲望でした。コサックを中心とするロシア人は、抵抗するシベリアのヤクート族やツングース族を鎮圧し、ヤサーク(毛皮による人頭税)の徴収による統治体制を敷きました。さらに、ロシアは南進し、アムール川流域にも食指を伸ばしました。

 当時アムール川中上流域に住むジュチェリ、ダフール、ツングースなどは、清朝に毛皮朝貢を行っていました。このため、ロシアと清朝との間で抗争が繰り返されるが、結局1689年のネルチンスク条約によって、ロシアはアムール川流域から完全に閉め出されることになりました。
 翌1690年、清朝はさっそくアムール川河口地域に官吏を送って、ニヴフ(ギリヤーク)、樺太アイヌなどからの毛皮交易を受け付けました。樺太住民の中国王朝への朝貢は、元代にはじまり、明代の一時期にも行われていましたが、この時、2百数十年ぶりの復活でありました。ロシアは、これによって南進を阻まれ、以後矛先をカムチャッカから千島列島へと転じることになりました。

 清朝のアムールの辺民支配の拠点は当初、牡丹江中流の寧古塔(ニングタ)にありましたが、1731年牡丹江河口右岸の姓に副都統が設置され、翌1732年には樺太のニヴフとアイヌが毛皮交易民として清朝の辺民制度に組み込まれました。樺太のニヴフやアイヌはアムール川下流のキジやデレンに設置された清朝の出張所満州仮府における朝貢の様子については、文化6(1809)年にデレンを探索した間宮林蔵が『東韃地方紀行』の中で詳しく報告しています。

(参考)
当ブログ2010年 3月 8日(月)「場所請負制と金肥」
当ブログ2010年 3月 7日(日)「ツイシカリ場所」
当ブログ2010年 3月 6日(土)「知行制の転換」
当ブログ2010年 3月 2日(火)「石狩川中心的交易地ちよまかうた」
当ブログ2010年 2月28日(日)「アイヌのチャシ跡」
当ブログ2010年 2月27日(土)「ハウカセと石狩アイヌ」
当ブログ2010年 2月25日(木)「シャクシャインの戦い」
当ブログ2010年 2月24日(水)「商場知行制の成立」
当ブログ2010年 2月21日(日)「徳川家康黒印状」
当ブログ2010年 2月20日(土)「和人地の成立」
当ブログ2010年 2月16日(火)「アイヌ文化の成立」
当ブログ2008年10月 1日(水)「北海道三権分立制廃止」
当ブログ2008年 8月12日(火)「北海道の成り立ち」
当ブログ2008年 7月15日(火)「北海道三県一局の成立」
当ブログ2008年 6月30日(月)「江別最初の学校ー対雁学校」
当ブログ2008年 6月28日(土)「対雁学校の教育」
当ブログ2008年 6月19日(木)「飛騨屋と石狩山伐木」
当ブログ2008年 6月19日(木)「蝦夷地改称2」
当ブログ2008年 6月16日(月)「蝦夷地から北海道へ改称ー蝦夷地は皇国の北門」
当ブログ2008年 6月10日(火)「地名解」
当ブログ2008年 6月 9日(土)「元禄御国絵図」
当ブログ2008年 6月 6日(金)「アイヌの遺構江別チャシ」
当ブログ2008年 6月 5日(木)「アイヌ文化期のツイシカリ」

註:江別市総務部「新江別市史」80頁.
写真:アイヌ民族の住まい
 北海道開拓記念館にて許可を得て撮影、掲載いたしております。

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