江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

江別大橋

2009年05月26日 | 歴史・文化
 石狩川、千歳川、新夕張川など町域を縦横に河川が走る江別では、道路の新設や改良などと同様、生活上は勿論、軍事的にも架橋は重要な課題でした。

 事実、この時期、広域幹線道路関係だけでも、大正15(1926)年9月の江別橋(国道27号)、昭和4(1929)年6月の石狩大橋(地方費道・札幌稚内線)、10(1935)年11月の江別大橋(国道27号)、17(1942)年11月には対雁橋(地方費道・札幌稚内線)などが架け替えや新設がなされました。

 昭和11(1936)年、通水開始の新夕張川に架橋の江別大橋は、橋長522m、有効幅員7.5m、構造は型式低水敷「ゲルバー式鋼板裄」で、橋上両脇に数基の街灯をもつ、当時としては大変モダンな橋でした。
 昭和12(1937)年版「江別町勢要覧」では、「本道稀ニ見ル橋梁ニシテ 之ト平行架設セラレタル鉄道橋ト併セ 石狩原野ノ一大美観タリ」と名所扱いをしていました。これは、国道27号が道央を貫く屈指の軍事道路であり、11年の陸軍特別大演習(於旭川)で来道する天皇の巡幸路にあたっていたからに他ありませんでした。

 他方、12(1937)年11月、幌向原野の開発の農産物の円滑な出荷のため、野幌殖民社と幌向村字夕張太(現南幌町)の農民がこぞって陳情の千歳川・幌向村ー野幌間架橋は、日の目をみることはありませんでした。
 また、江別で最も繁華な往来をみる江別橋は、軍事的にも重要でしたが、「腐朽甚だしく積載量を制限、農民、軍搬業者は困り果てている」(昭和13年9月15日付北海タイムス)と、当時の架橋や改修が、ともすれば民意民需とはかんけいないところで決定された感を払拭できません。

 昭和16(1941)年現在、町道の木橋は31を数えました。この年、木橋を順次更新する「江別町橋梁架計画」(昭和17年度~30年度)が樹立されました。総工費は、66,600円とされましたが、これも道路改良計画同様画餅に帰しました。

註:江別市総務部「新江別市史」437-438頁.
写真:石狩川
 本日開催「人が集えば文殊の知恵袋講座~春の探訪」では、写真の石狩川もコースに含まれています。
 

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