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江別創造舎

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小・中学校の新設と廃校

2013年10月28日 | 歴史・文化

 昭和51年3月、市教委は議会に対し、51年~53年度までの学校建設3か年計画の概要を報告しました。

 その骨子は、
(1)毎年度1校ずつ学校を新設し、体育館も公社方式で同時建設する
(2)増改築は5校の校舎、および3校の体育館について行う
と、いうものでした。
ちなみに、計画の新設3校は、仮称元江別小学校、同11丁目小学校、同東大麻(おおあさ)中学校です。

 そして、これら3校は、52年1月の中央小学校、53年4月の大麻(おおあさ)泉小学校、54年4月の大麻(おおあさ)泉中学校の開校となって具体化しました。
なお、これら3校の体育館はそれぞれ公社方式で建設されていました。

 54年大麻(おおあさ)東中学校の新設により、新設ラッシュは一応のピリオドを打ちました。
そして、その翌年55年3月、下の月小学校が閉校となりました。
同小学校は、24年11月、江別小学校から分離独立、開校したものです。
しかし、農村の過疎化の波は、上江別地区を校区とする同小学校にも押し寄せてきました。
すなわち、児童数は、33~35年度の43人をピークに、その後、年を追うごとに減少しました。
51年には8人、52年6人、53年、54年5人と、都市部の小学校としては異例の小規模となりました。

 なお、新設、閉校とは異なりますが、55年4月、野幌中学校が市道2号線沿いに新築移転となりました。
同校は、昭和22年、第二中学校の分校として発足、翌23年独立校となりました。
場所は、道道・江別恵庭線沿いの東西野幌地区です。
40年代後半に至り改築問題に合わせて移転問題が浮上しました。
結果、現在地は敷地が狭く、市街化区域の発展など、招来展望に立った本格的な地域の中学校建設のためには、移転やむなしとなったのです。

 それまでは、ある面では植民社(東西野幌)の中学校として存在しただけに、統合された篠津、八幡中学校などと同様、地域の人びとの喪失感は大きなものがありました。
事実、同中学校は、『戦後、是非東西野幌に中学校がほしいと部落住民の必死の願いとなって、実現に努力を注いだもの』(「旧校舎を偲ぶ記念誌」菊田常吉)でした。

 そうした意味からというと、この移転新築は、廃校でもあるという、ホロ苦いものを含んでいました。

註:江別市総務部「えべつ昭和史」540-542頁.
写真:昭和55年3月閉校となった下の月小学校
 同上書541頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。


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