江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

引揚者の状況

2011年12月05日 | 歴史・文化

 昭和22年4月、第1回統一地方選挙が行われ、江別町長選挙で初公選町長として古田島町長が就任しました。

 古田島町長は、食糧、燃料と同時に当面したのが引揚者、復員者対策でした。
いわゆる外地引揚者は、終戦の年から数年間、その一部は数10年にわたって続きましたが、その総数は終戦時の日本の人口約7,200万人の約4.8%に当たる350万人といわれていました。

 これらの人たちは、日本軍が侵攻した中国、挑戦、インドネシア、ベトナム、フィリピン、台湾などからの引揚者ですが、最も多かったのは満州(中国東北部)の約100万人、次いで朝鮮、千島、樺太などでした。
 台湾を含め、満州、中国など大陸方面からの引揚者は、九州、中国地方出身者に片寄っていましたが、逆に樺太は北海道の30%余を筆頭に、新潟、福島以北だけで90%に近く、きわめて対照的でした。

 この一般邦人350万人に300万人の軍人を加えた650万人が、武装解除のまま外地に放り出されました。そして、それまでの反動ともいうべき迫害などで、これら在外邦人の事態は憂虜の極みにありました。
 そのため、政府は、20年9月「現地の惨状に鑑み、内地民生飢えの必要を犠牲にするも優先的に処置すると共に、他の一切の方途を可及的速やかに之の完遂を期するものとす」の閣議決定を行い、万難を排し引揚対策に全力を傾注しなければなりませんでした。
 この各方面からの引揚の実情については、既に多くの記録が出版されていますが、樺太から江別に引き上げてきた人の中には、宗谷海峡を身一つ小舟に乗り逃れてきた人もおり、その困難と惨状を想像するに難くありませんでした。

 その樺太には、北海道出身者が圧倒的に多く、そのため当然のこと北海道への引揚が多数を占めていました。
 戦後、町会議員を務めて八重樫清によると、樺太引揚者には王子製紙関連の人たちが多く、それらの人たちが集中した江別は、他町村に比べ、引揚者も多くなりました。
 ちなみに、王子関係者は23年3月現在、220世帯、約1千人を数えました。
これらの人たちは、旧王子航空機製作所の空寮に収容されました。また、この年、樺太落合の王子工作所関係の引揚者救済のため、王子構内に王子工作株式会社(昭和23~27年)が設立されるなど、王子側の受入準備もなされたのでした。

註:江別市総務部「えべつ昭和史」156-157頁.
写真:昭和23年対雁小学校に設置された引揚児童特殊教育会場
 同上書156頁掲載写真を複写・当ブログ掲載いたしております。


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