江別創造舎

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「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
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燃料の確保

2011年12月04日 | 歴史・文化

 積雪寒冷地の北海道では、主食の確保と共に切実な問題は、燃料でした。

 20年の道内状況は、『(石炭需要は)木炭、薪の不足から小口用のみで前年度の50%増の見込みのうえ、重要産業の急激な勃興などにより、石炭の需給はますます困難になった』(新北海道史第5巻、通説4)のでした。

 とりわけ、石炭不足は、家庭を直撃しました。ちなみに、札幌市の状況は、当時ひと冬一家庭4~5トンの石炭を必要としたのに対し、20年は平均1.95トン、21年1.18トンの配給しかなく、飢えの苦しさに加え、寒さに震えあがっていた様が目前する思いでした。

 江別においても、21年に燃料対策委員会を設置、その確保に全力をあげることになりましたが、同年度における配給量は一般家庭用として石炭6,644トン(1家庭平均1.54トン)、木炭790俵に留まりました。
 石炭不足はいかんともしがたく、翌22年には野幌原始林の枝木と江別太、美原地区から泥炭の採種を計画しました。

 23年度は、12月末までに配炭公団から一戸平均1.5トンを確保、3月までに2.2トンの配炭の見通しがたちました。
 木炭は、12月までに千歳の町有林から自営製炭2,447俵を、その他道庁の割当4,627俵を、それぞれ確保、不足分については原始林からの枝木の採取、あるいは千歳、追分から薪1,200敷を取り寄せました。そして、翌24年に入ると、道内の出炭量も戦中の12年頃までの水準に回復、9月には統制解除となり、戦後4年にして、ようやっと窮状緩和の兆しをみました。
(中略)

 泥炭は、開拓農家の重要な燃料でしたが、一般の人々も石炭不足の大半をこれに頼っていました。(中略)
 泥炭は、燃料期が時代の救世主となりました。
それは、24年の石炭統制解除まで続きました。解除以降は、『昨今の石炭自由販売、薪、木炭の滞荷にすっかり押され、今年は原野周辺の農家が自家用に掘っておくくらい』(昭24年10月28日付北海道新聞)となりました。
 もっともいきなり石炭が潤沢になったわけではありません。
以降も、泥炭は使われ、同時に鉄路でこぼれた石炭を拾う石炭拾いも盛んでした。

 そして、そこにはさまざまな人間の悲喜劇が生まれ、消えていきました。

註:江別市総務部「えべつ昭和史」155-156頁.
写真:戦後の石炭不足から普及した泥炭ストーブ
 同上書155頁掲載写真を複写・当ブログ掲載いたしております。


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