江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

江別川は生活道路1

2019年05月22日 | 歴史・文化

 石狩川の支流、江別川舟運のにぎわいも本流に負けてはいませんでした。

 江別川あ上流で結ぶ千歳川により、幌向、馬追、恵庭、千歳方面との往来の便が発達しました。
明治の中葉には「数十石積みの淀川船を以て該植民地需要品の供給に応じ、また秋収農産の搬出季には江別川口に殆ど百有余の小舟を輻輳せしむるほど」(明治31年7月2日付北海道毎日新聞)賑わっていました。

 明治32年ですから、百有余の小舟輻輳は、決して大袈裟ではありませんでした。
実現には至りませんでしたが、この繁忙を見込んで、31年6月、石狩川漕運株式会社が江別ー千歳間の定期航路開設の試航を行いました。

 江別から幌向、長沼、千歳方面に至る舟運の基本的な形は、
「荷物は長沼の作物を買って舟におろし、江別の運送店へもっていき、帰りには日用品などをあげてきた。」(『長沼町90周年誌』)、云々です。
すなわち、江別からは砂糖、酒、反物、醤油、縄などの日用品が運ばれ、千歳方面からは木炭、沿岸の農村からは雑穀類などが江別港に届きました。

 長沼の回漕店・吉川金弥の述懐によると、31年頃、長沼から江別に下るのに4時間、江別から長沼へ上るのは一日がかりでした。
「上りは二人で先端に鉄製の二又をつけた棹を肩の力で進行方向に背を向けて押したり、沿岸の樹木の先をかけて引いたりしてなかなか楽なものではなかった」(『長沼町の歴史』)。
舟運が最も活発になるのは、千歳川沿岸農村の収穫期である8月、9月、10月の3ヶ月です。
これら舟の持ち主は、店舗を構え、船夫を雇った営業する者のほか、船の中で寝泊まりしながら稼ぐ者などさまざまでした。
船は、小廻船、俗にいう長船で一隻2付米豆類は120-130俵、木炭は140俵前後を積載しました。


註 :江別市総務部「新江別市史」219-220頁.
写真:写真:上川丸
   *江別カルタ<江別創造舎制作>絵柄抜粋



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