しかし、航路を廃止するわけにはいきません。
北海道庁においては、石狩川航行従来の不成績に鑑み、国庫の補助をなすにあらざれば到底其目的を完ふするに能はざるを看取し」(「殖民公報」 第14号・明治36年5月)、35年4月より補助金交付に踏みきりました。
(中略)
石狩川線のうち、主要航路は江別ー月形間です。
上り線は江別港を出航、幌向、下達布、美唄達布、美唄、狐森、枯木に寄港、9時間をかけて月形に到着しました。
月形港を出航した下り線は、同じ寄港地をとおり4時間で江別港に到着しました。
上川丸、空知丸は、乗客と日常雑貨などを運ぶと同時に、淀船を曵いていきました。
大正4年(1915年)以降の航路受命舎となる、藤原汽船の船乗りだった古山鷹男は言います。
「荷物のあるところ(寄港地)へ曳き船をおいていきわけさ。新篠津に一杯、北村に一杯・・・。月形には亜麻会社があって、亜麻でも雑穀でも全部出ているわけさ。それを積んで江別に下がってくるわけ。」
補助航路石狩川線は、昭和8年(1933年)まで続きました。
この間、受命者は4回変わりました。
最初は、大倉喜八郎、ついで阿部久四郎(キク)、そして江別の藤原由蔵が大正4年から請け負いました。
既に、当地で木工場を経営していた藤原は、この年に汽船部を設け、補助航路の経営にに乗り出しました。
彼の受命は昭和6年までで、最後の2年間は札幌の石狩川汽船株式会社が受命者となりました。
北海道庁告示第210号(大正2年4月9日付)は、大正2年、3年度の補助航路の運行に関し、受命者阿部キクに対し、次のとおり命令(概要)しました。
・航路 仕出地〜江別。
仕向地〜月形および石狩
・航海度数 江別〜月形間
4月=8回
5月〜11月=毎月13回
江別〜石狩間
4月=2回
5月〜11月=毎月4回
・寄港地 江別〜月形間
砂濱、幌向、下達布、上達布、美唄達布、美唄、狐森、上北村、枯木
江別〜石狩間
茨木、ビトイ、当別太
・使用船舶の資格
総噸数3,000噸以上、最強速度1時間6海里以上ノモノ2隻ヲ用ウ
・運賃の割引 乗船賃割引券ヲ有スル移住民ノ乗船賃金及び其ノ携帯品運賃ハ
定額の5割以上ヲ減シ 各地ヨリ輸出スル農産物ノ運賃ハ定額ノ2割以上ヲ減ス
補助航路石狩川は、明治35年から始まりました。
その終航は昭和8年度までですが、就航の目的は上記に引用の運賃割引に直截に表現されていました。
すなわち、道央の開拓地に移民を投入する足であり、かつ、該地方の農産物を札幌、小樽方面へ搬出する流通経路の確保です。
補助航路としたのは、北海道の開拓行政上の重要課題に応えるためでした。
註 :江別市総務部「新江別市市」216-219頁.
写真:命令航路・石狩川線寄港地 (「石狩川治水の曙光ー岡崎分岐ぎの足跡」)
同上書217頁掲載写真4-4を複写・掲載いたしております。