国道12号線の第2次改築が進みました。
国道12号線は、札幌ー旭川間を結ぶ道内有数の産業道路であり、かつ同時に市域にあっては最重要の生活道路でもありました。
また、舗装が完了する前後からモータリゼーション(自動車の大衆化)の発達は著しく、国道の車両通行は一気に増大しました。
そのため、43年札幌市境から酪農学園大学までの2.4kmにつき、拡幅(2車線から4車線へ)と歩道付設の2次改築が着手されたのを皮切りに、44年には野幌陸橋まで、46年には野幌8丁目から市役所間など、順次2車線から4車線へと拡幅されました。
こうして、国道12号線の2次改築は進みましたが、一方現行の12号線については、早くからそのネックが指摘され、道開発局ではバイパス案の検討が視野に入れられていました。
国道12号線のネックの中でも、特に問題であったのは江別市街です。
急カーブや極端な道幅の狭い区間があり、モータリーゼーションが加速する中、将来の道央圏の交通動脈として疑問視されていました。
こうしたことを背景に、道開発局では43年末までに江別バイパス案を3本に絞り込みました。
すなわち、(1)現行路線である酪農学園大学前から江別市街一番町3丁目までの拡幅(25m)を急ぎ、ここから北日本製紙(現新王子製紙)用地、開発局機械工作所江別工場を通り、江別大橋に抜ける、(2)現行路線のうち、江別駅前を通らず、江別市街を南に大きく迂回する、(3)酪農学園大学付近から野幌、江別の両市街を外し、南大回りで江別太を経由し、江別大橋に結ぶ、という3案です。
結論がいえば、上記(1)案により昭和51年11月江別バイパスは完成しました。
(2)案、(3)案が具体化しなかったのは、一つには本格的なバイパスとして、既に建設省の道央自動車道構想が浮上、近い将来の実現が見込まれていたことでした。
それに、44年2月の豪雪雪害により江別大橋付近で500台の車が立往生、一時は3,500人もの人たちが吹雪の中に閉じ込められる事故発生の教訓などから、建設まで長い年月のかかる(2),(3)案を待ってはいられなかったのです。
それよりも、2次改築の進む現行路線を急ピッチで江別市街へ進めた方が、当面のネック解消になると判断されたからです。
昭和44年8月、道開発局は(1)案によるバイパスを建設、当面のネックを解消すべく、当初48年度を完成年度に、待望の着工にこぎつけたのです。
註:江別市総務部「えべつ昭和史」329-330頁.
写真:昭和40年初頭第2次改良(拡幅、歩道付設)の進む国道12号線
同上書329頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。
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