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江別創造舎

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上下水道の敷設

2009年08月09日 | 歴史・文化
 昭和26(1951)年、上下水道について事業計画が策定されましたが、実施は延び延びになっていました。

 昭和31(1956)年5月、第1期工事が着手されました。待望の通水を見たのは、翌年10月のことでした。二ヶ年の総工費5.600万円、千歳川表流水の直接取水で、給水区域は市街地一円、江別太、緑町、大川通、上江別、王子社宅、および元江別の一部でした。

 上水道の出現は、当時まさに生活革命でした。それまで、井戸水をつるべでくみ上げ家まで水を運ぶ生活から、蛇口をひねるだけ居ながら水を得られる生活の実現は、生活様式から習慣、思考方法までも変えるものでした。加えて、この時期、中央通りから石狩川左岸にかけて井戸水が枯れる事故が頻発し、公衆衛生の面を含めた飲み水の安定供給が急がれました。それに江別大火の教訓である防火上からも待望されていました。

 昭和35(1960)年、小児麻痺が全国的に猛威を振るっていました。こうした伝染病への不安解消のため水道への要望が一気に高まりました。
翌年9月には、野幌地区を中心にした第一期拡張工事が始まりました。内容は。野幌地域の配水管敷設のほか、水源施設の改良、浄水場の増設、北電新火力発電所の大口工業用配水管敷設などでした。そして、江別地区に遅れること5年、昭和37(1962)年10月、野幌地区への給水が開始されました。ついで、昭和39(1964)年から大麻団地を含めた計画給水人口6万人の第2期拡張工事へと引き継がれていきました。この間、昭和38年と与保呂地区、42年江北地区に簡易水道が設置されました。

 ところで、水道事業草創期の大きな悩みの一つは、料金が割高であっとことです。これは、初期においてその膨大な設備投資に対して、給水区域がごく一部であったからです。そのため、34年度まで設備投資分を事業収益で賄えず、一般会計の繰入で収支の均衡を図らねばなりませんでした。
 その後、拡張事業は進み、給水世帯が増加するにつれて、規模拡大による経済効率により、ほどよい料金水準になっていきました。

 昭和37(1962)年6月の市議会において、水道事業の地方公営企業法の一部適用にて関する条例が制定され、7月1日から水道事業は企業会計に移行しました。給水区域が拡大し、ようやく草創期を脱したのでした。

(参考)
当ブログ2009年8月 8日(土)「リサイクル市民運動」
当ブログ2009年8月 7日(金)「ゴミ収集市直営から民間業者委託へ」
当ブログ2009年8月 6日(木)「消費者保護基本法施行」
当ブログ2009年7月28日(火)「公害防止条例制定」
当ブログ2009年7月27日(月)「螢が住む川」
当ブログ2009年7月23日(金)「清掃法改正ーゴミの再資源化」
当ブログ2009年7月21日(水)「水と緑の生活」

註:江別市総務部「新江別史」526-527頁.
写真:共同井戸で水汲みをする市民の模様
 同上書,<写真8-8>を複写掲載いたしております。

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