江別創造舎

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新聞紙印行条例公布

2008年10月07日 | 歴史・文化
 明治2(1865)年、新聞紙印行条例が公布されました。
 新聞紙印行条例は、戊辰戦争を収拾して内政面の整備に着手した新政府が、正式に新聞の発行を認めた最初の関係法令でした。

 京阪をはじめ先進都市に新聞が誕生すると、施政上にも効果を上げているいる点に鑑みて、開拓使関係者は、北海道のような新開地こそ、一層その必要があるとしていました。
 明治5(1868)年6月、函館出張所岩村判官より、西村権判官に宛てた「函館ニ活字翻刻所取設ケ新聞紙発行ノ件」を提案しました。
その結果、西村権判官は文部省との折衝のうえ、岩村判官に次のごとく回答をしました。

 当使おいて新聞紙発行之義ニ付、文部省え及掛合候処、別紙之通回答有之候。就テハ其御地ニテ表題井編人御取究御中越有之度、且活字植付之者御地え居合候哉、当地ニテ雇入之都合候得ハ幾人御入用候哉、何分御答承度、此段可得御意、如此候也。
   壬申7月12日                  (開拓使公文録原本)

 しかし、この発行計画は、見送られたまま終わり、翌6(1869)年4月、福山出張所から建議した「函館ニ新聞本局開設ノ義」もまた、実現をみるに至りませんでした。中央からの新聞を取り寄せて購読していたのは、ごく限られた少数の人々で、一般住民はこれと親しむことができなかったのです。東京においては、明治5(1868)年11月頃、市中に多くの新聞縦覧所が開設され、大いに一般庶民に利用され出しました。
 北海道にもその風潮が及び、新聞縦覧所の設置を望む声が次第に強まってきました。

 明治6(1869)年1月浦河支庁よりの伺書によれば、
「日誌新聞紙縦覧館ノ儀ハ、各新聞ニモ掲出シテ都下咫尺ノ地トイヘドモ往々其設ケ有之、況ンヤ当地ノ如キハ自今ノ急務、且当今開化策進ノ際トイヘドモ僻遠ノ地内地日進ノ景況ヲ知ルモ、自ラ遅滞セバ大ニ政事ノ利害ニモ関係候儀ニ付、当掛官員自費ヲ以海内各種ノ新聞紙ヲ集メ、紙覧ヲ迄フ者ハ時限ヲ言ハズ、見料ノ費ヲ労セズ他見ニ供シ、所民ニ至迄御趣意ノ厚キヲ貫徹セシメ、且化城進歩ノ一助トモイタサセ申度、就テハ各縦覧所ハ町会所ノ内ニ相設候様仕度存候間、両条御伺申上候也。但追テ海外新聞紙ノ如キモ相調、縦覧ニ供シ可申筈ニ候事。
 明治6年1月                         (浦河往復)

と、ありました。
 この構想は、単に浦河ばかりでなく、各地に盛り上がりました。すなわち、5月函館からは新聞類のみならず、翻訳和漢書や新刊書を備え、各種新聞のニュースの要点をも掲示して縦覧させるよう建議しました。これらの盛り上がりによって6月函館区内澗町に新聞縦覧所が設けられました。この新分縦覧所は、函館のみではなく、松前・江差・札幌など諸方にも小規模のものがみられるようになりました。函館では、明治7(1870)年さらに渡辺熊四郎・今井市右衛門・平塚時蔵らによって、末広町に洋風建築の書店「魁文舎」が開店され、店内に新聞縦覧書が施設されました。

 北海道が中央政府と遠く隔てらているため、開拓使は、一般民衆の指導的立場にある本・支庁勤務者にとって新聞紙の閲覧が極めて必要であるとして、明治6(1869)年10月から「新報節略」と題する一般ニュースを収録した刊行物を発行しました。これは、東京出張所が東京・横浜有力5社の新聞から重要事項を選別し、要点を抜き書き、編集・印刷したものです。この新報節略は、発行期日を定めず、随時刊行され、内外の情勢を知らせるために大いに役立ちましたが、明治8(1971)年4月に廃刊となりました。

 開拓使は、新報節略廃刊の善後策として、東京で発行される新聞を送付することにしました。しかし、それは札幌本庁のみに限っていたため、当時札幌に在勤していた松本判官から管下の支庁にも配布されるよう「新聞御廻しの儀伺」をもって、自後本庁および管内、根室支庁とも合わせて10部回付願いたい旨の申請が出されました。

註:北海道「新北海道史第三巻通説二」970-972頁参照。
写真:2008年10月6日・7日発刊北海道新聞撮影掲載いたしております。
 

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