
アイヌによる蜂起は、館主間の抗争の側面も合わせもちながら、その後も80年余りに渡り断続的に繰り返されました。
こうした戦いを鎮圧する過程で武田信広は、この地の権力一統に踏み出すことにな理ました。
コシャマインの戦いを鎮圧した武田信広は、蠣崎季繁の養女(安東政季の娘)の婿になるとともに上之国守護職を得ました。
ついで、永正9年〜12年(1512年〜1515年)、東武のアイヌは松前へ大攻勢をかけたが、このどさくさの中で永正11年、息子蠣崎光広が松前守護職の奪取にも成功しました。
大館を本拠とした蠣崎氏は同年、檜山の安東氏に「諸国より来る商船旅人をして年俸を出さしめ、過半を檜山に上る」(『新羅之記録』)ことを条件に、蝦夷島における宗主権を認めさせました。
その後も、大永5年(1525年)の東西のアイヌ蜂起、享禄2年(1529年)の西部の酋長タリコナの蜂起鎮圧を持って一応戦いは沈静化しました。
しかし、蠣崎氏の支配強化に対し、アイヌ側の反発がなくなったわけではなく、蠣崎氏はアイヌ酋長層との平和共存の必要性を覚理、季広時代の天文19年(1550年)、東西アイヌとの間に講話を結びました。
季広は、この講話の条件として「夷狄の商船往還の法度」を定めました。
この法度とは、東西アイヌの首長をそれぞれ対和人交易の統括者と蠣崎氏が認め、両者に蠣崎氏が諸国から来る和人商人より徴収した年俸(税)の一部を夷役として配分するというものでした。
こうして、蠣崎氏は、アイヌの交易上の規制に対する不満を吸収するとともに、蠣崎氏の勢力圏を上の国の天ノ川と知内以南に画定しました。
註 :江別市総務部「新江別市史」58頁.
写真:道南12館分布図
同上書58頁 図2-1を複写し、掲載致しております。
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