江別創造舎

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国内3番目に開通した幌内鉄道ー江別駅の誕生

2008年06月22日 | 歴史・文化
 明治11(1878)年、維新後の国内の近代化に奔走する明治政府は、殖産興業政策強化のため、1,250万円の起業公債を募集しました。
そして、「北海道岩内、幌内ノ炭坑ヲ開サクスル事」とし、1,250万円の中から150万円を開拓使に下付けすることを決定しました。
ここから幌内鉄道の建設が動き出したのです。

 明治13(1880)年、アメリカ人の開拓使顧問(幌内鉄道建設技師長)ジョセフ・U・クロフォードの建言を取り入れ、幌内鉄道は手宮側から着工し、幌内炭坑の開発と同時に札幌を中心とする交通路の確立、さらには石狩原野の開発を促進させる方針を打ち立てました。
そして、同年11月手宮ー札幌間の鉄道が開通し、運転式が行われました。
明治14(1881)年4月には、札幌ー幌内までの鉄道建設工事が開始されまたした。この工事は、豊平川ー江別間を五工区に分け、それぞれ請負に出したもので、江別・野幌には建設小屋が建ち、江別には出張所も置かれました。
 なお、工事(鉄道敷設)に使う木材供給林として野幌原始林110万株が指定され、大量の原木が切り出されました。

 明治15(1882)年6月25日には、札幌―江別間の試運転が開始されました。そして、同年11月3日、手宮ー幌内間約90kmが開通しました。
これは、新橋ー横浜間(明治5年)、京都―神戸間(明治10年)に次ぐ国内3番目という、先進府県を飛び越えての開通となりました
ちなみに、東海道線(新橋―神戸)は明治22年、東北線(上野―青森)は明治24年の開通でした。

 なお、江別駅は、明治15(1882)年11月の開業でした。
木造平屋22坪の大きさでした。江別鉄道橋(橋長75.26m)は、明治13(1880)年に着工されたものです。

 こうして、交通の中心は、次第に石狩川を離れて鉄道に移り、江別の発達もまた対雁を離れて江別駅を中心に移行していったのです。
幌内鉄道の主眼は、石炭をはじめ石狩川本支流沿岸町村の産物搬出にありました。特に農産物や木材集散の水陸運輸の結節点となった江別にとって、鉄道敷設と開駅は、街区発展の跳躍台となったのです。
★参考:当ブログ6月18日(水)「わが国における電信のはじまり」
    当ブログ6月12日(木)「村名選定ー江別村」

註)江別教育委員会「新江別市史本編」・江別屯田兵村遺族会「江別屯田兵村百二十周年の歩み」・北  海道江別市役所「江別市史」参照。

写真:2007年北海道江別市所在江別駅撮影。

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