24年から始まった弁論大会は、回を重ねるごとに充実し、28年の5回大会からは青年の部に加え、中学生の部、高校生の部が設けられました。(中略)
この弁論大会は、32年まで続き、この間多くの青年弁士が平和と民主主義、地域社会の建設、いかに生くべくかなどをテーマに真摯な弁論を展開しました。
その様は、飽食と消費の大波に浮遊することの多い今日に比するとき、際立って禁欲的であり、きわだって清々しくみえました。
青少年プロジェクト発表大会も、24年から始まりました。
これは、当時の農村生活、農業経営の不合理と不安定をいかに解決するかをテーマとし、1人1人研究を合い言葉に実践、その研究成果を年1回発表するものです。(中略)
このプロジェクトは、『いろいろな改良方式や、普及員の推奨し指導する科学技術に基づいて行われ、その成果は慣行法、ならびに地域のそれに比べて必ず勝るべきところがあるので、この結実こそは地域の後進農法を改善する原動力になると同様に経済的価値も考え合わせ』(えべつと第2号、砂川茂吉)計画され、実践されました。
1年間の成果を問う大会発表となりますが、前出の砂川によると、『大会は管内、全道大会まであり、江別は全道大会で29年と31年に優勝、30年は2位』と大活躍をしました。
それは、まだ農基法農業以前の、農業経営が個々人の創意と工夫で漸次改良されいった幸せな時代のことでもありました。
しかし、30年を節目に、連青の組織活動の中で会員が激減、相次いで脱会しました。
こうした潮流を背景に、33年度の連青運度方針は、はじめて組織の体質改善を掲げ、時代との懸隔を埋めるべく、その模索が始まりました。
こうした中、プロジェクト大会も弁論大会と同じく32年を最後に終わりました。
経済白書がもはや戦後ではない、と宣言した翌年のことでした。
註:江別市総務部「えべつ昭和史」192-193頁.
写真:第5回青少年プロジェクト大会で発表の上江別・砂川茂吉
同上書192頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。