コタツ評論

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実は実話です

2012-07-18 03:13:00 | ノンジャンル
 山手線I駅南口改札内側で、かれこれ30分、私は若い警察官に説明していた。そこへ、もう一人、中年の警察官がやってきた。
どうです
 と私は聴いた。
「どうも困りましたな。お二人の話が食い違うもので」

「食い違うも何も、それであっちは、何か私に求めているんですか?」
「あなたに謝罪してほしいといっています」
「ハッハ、謝罪とは。そういう問題じゃないでしょう。彼が暴力を振るったことが問題なんですよ。それはあっちも認めているんでしょ?」
「ぶつかっただけだといっています」
「それは嘘です」
「でも、やっぱり、上り階段を下りたのはよくないです。そのために階段を区切ってあるんですから」
「なるほど、それは一般論としては正しいです。だからといって他人に暴力を振るっていいわけじゃない。そうでしょう?」
「だから、そこが食い違っていて、カバンがぶつかっただけだとあの人はいっています」
「上り階段を下りたことから、上がってきた彼と口論になったというのなら、警察が介入する問題じゃないんですよ。彼がそこで重いアタッシュケースを私にぶつけた、4度も。それであなたたちを駅員が呼んだ。そういうことなんですよ」
「それを駅員たちも見ていたわけじゃなさそうだし」
「これではいつまでたっても埒があかないな。あなたたちが来る前に、彼にもいったんですがね。そんなに急いでいるなら、もう終わりにしてもいいよ、止めようかとね。止めますか? 私はそれでもいいんですが」
「いや、そういうわけには」
 と年配の警官はいった。
「じゃ、彼をここに連れてきてくださいよ。駅員が南口まで一緒に来てくださいというから私は来たのに、彼は現場から動かないといって来ない。どちらがいっているのが事実なのか、彼をここに連れて来ればいいんですよ」
「来ないんです。あなたのほうから来るべきだというんです」
「ほんと、しようもない。階段の途中でやりあっていたら、通行する人の邪魔になるから移動してくれと駅員がいっているのに、動かない。あっちはそういうガキなんです」

旦那さんは、あの人に何か求めているのでしょうか?」
「というと?」
「謝罪とか」
「別に何も、そんなこと私は一言もいっていませんよ」
 中年の警官は嬉しそうな表情になり、私の傍らの若い警官に、「ちょっと行ってくる」といって離れ、しばらくして戻ってきた。
「あなたと話したいといっています」
「しょうがないな。じゃ行きましょう」

 彼と揉めてから、かれこれ一時間が経とうとしていた。山手線ホームの階段下コンコースに、3人の警察官の中心に、見方によっては囲まれているように、彼は立っていた。すると、計5人の警官が出動しているわけだ。
「ラッシュアワーの忙しいときに、おまわりさんたちも迷惑な話ですね」
 と私ははじめて見る3人の若い警官たちを見回し、彼を見た。白髪の混じった頭の大柄な男である。180cm前後はあるだろう。かっぷくもよい。押しの強そうな大造りの目鼻立ちで、グレーのスーツを着ていた。50代にも60代にも見える。中小企業の社長か、団体役員といったところか。そばに、あの重い黒のアタッシュケースを置いている。
 私が歩み寄ろうとすると、彼の近くの若い警官が進み出て、
あまり近寄らないで、2mくらいは離れて」
 と制した。

 彼はニヤニヤ顔を傍らの若い警察官に向けた。
で、どうなの
「何がですか?」
「上り階段を下りてきたこの人が正しいのか、間違っているのか。警察の判断はどうなの? もう飛行機には乗り遅れてしまったんだが、その旅費の件をどうしてくれるのか、払ってくれるのか、この人に聞いてよ」
「だから、それはお二人で話し合うべきことで」
「よい年をして、何が正しいか正しくないか、警官に決めてもらおうというわけか。問題はそれより、君が暴力を振るったことなんだよ。君はそのアタッシュケースを振り回して、私にぶつけたね」
「上り階段を下りてきた、あんたが悪いんだろうが」
「自分が正しいと思っているなら、警官の判断を仰ぐ必要はないだろう? 上り階段を下りてきたからといって、そんな重いアタッシュケースを振り回して、人にぶつけていいという法はないんだよ」
「あんたがルール違反をするから、そんな目に合うんだ。ちゃんとルールを守っていれば、こんなことにならなかったんだ。そうじゃないか」
 と傍らの警官に同意を求める。若い警官は正面を向いたままで、彼のほうを向かない。
「語るに落ちるな。ルール違反をしたから、アタッシュケースをぶつけた。そういっているわけだ。それで、君は私に何を求めているんだ」
「反省がない。ちゃんと反省するという気持ちがない
「だから、反省の問題じゃないだろ。階段を下りたのと、アタッシュケースを振り回すという暴力行為では比較にならないんだよ。君は私だけでなくほかの人にもぶつけていたんだよ。だから、私は君を呼び止めたんだ。危ないじゃないかとね。狭い上り階段でそんなもの振り回したら、避けようがない。君は自分がどれほど危険なまねをしたのか、わかっているのか。ひとつ間違えば、怪我人が、ひどい怪我人が出たかもしれないんだ。だから、警官が来ているんだよ。わかっているのか?」
「じゃ、訴えればいいだろう。俺はいつでも受けて立つ」
「でも、旦那さんも、こちらの人の胸倉をつかんだと」
「この人がそう言ってるの? ぜんぜん違うだろ。嘘つきだな。この人が怒鳴りまくった拍子によろけて階段を踏み外しそうになったから、腕をつかんで引き戻したんじゃないか。よくいうよ」
「いいや、あんたは胸倉をつかんできた
「胸倉をつかんだのなら、りっぱな暴力じゃないか。それなら、君が私を訴えることができる。おもしろい、やってもらおうじゃないか」
「じゃ、やっぱり、警察署まで来ていただいて、そこで話していただくほかありませんな」
 年配の警官がうんざりした声でいった。
「私はいいよ、じゃ行こうか」
 しかし、彼は動こうとはしない。

「いいかい、最初から説明しようか。私は下りてきた。そのとおりだよ。君は上がってきた、アタッシュケースを振り回しながら。下り階段はいっぱいの人だったから、あふれて上り階段を下りる人は、けっこういた。上がってくる人は少ない。夕方のこの時間帯は、下車する人が圧倒的に多いからね。でも、もちろんみんな遠慮して、一列で下りていた。君が上る余裕はじゅうぶんにあった。下りてくる人たちを君が押しのけなければ上れないということはなかった。ここまではいいね

「君は下りてくる人たちに、その重くて硬いアタッシュケースを振り回し、ぶつけながら上ってきた。そして、すれ違いざまに、私にひどくぶつけた。だから、私は振り返り、君を呼び止めて、何をするんだ、危ないじゃないか!といった。そうだったね」
(いやいやいや)とばかりに彼は首を振った。
「あんたは俺の胸倉をつかんだんだ。それで俺が振り向いたときに、カバンが当たったんだよ」
「ちょっと待て、めちゃくちゃいうな。カバンが当たったのは、それが2回目だよ。すれ違って君が上、私が下という位置だろうが、どうして君の胸倉を私がつかめる。私の手はそんなに長くはないぞ」
「あんたが胸倉をつかんだから振り向いたんだ。カバンはそのときに当たった。あんたが胸倉をつかんだのが先だ」
「いいかい、私は君より階段の一段か二段下にいた。上にいる君の胸倉をつかんで振り向かせるには、後ろから前に腕を回すことになる。そんなことができるか? それに、もういちど、念のために訊くが、カバンはそのときはじめて当たったんだな」
「そうだ。俺はカバンをぶつけたりなんかしていない。たまたまちょっと当たるくらいはあったかもしれないが」
「いったい、どっちなんだ。私に先にカバンをぶつけたのか、たまたま当たったのか? 私が君の胸倉をつかんだから、振り向いたときにカバンが当たった。そういうことなのか?」
「そうだ」
「なるほどね。君が言うとおりだとすると、君は私に何もぶつけず、触れてもいない、何も言っていないのに、私は君を呼び止めたわけか? 何をするんだと。私はキチガイか?
 彼は黙っていた。

「二人とも、たがいに謝ればいいと思う」
 年配の警官がつぶやくようにいった。
 私は警官と彼を見た。彼はぼんやりしていた。
「私がここで謝ればいいのか?」
 彼はうなずいた。
「旦那さんも、こちらに謝罪を求めますか?」
 警官はとりなすようにいった。
 彼が口を開きそうになった。
「いや、謝罪は求めません。この人は自分が正しいと思っているんだから、謝らないでしょう」
 年配の警官は顔をしかめた。
「でも、この人が求めるなら、謝りましょう。上り解段を下りたのは間違っていた。謝ります」
 彼はホッとした顔でニコリとした。手を差し出せば、握手になりそうだった。警官たちも身体が緩んだようだった。
「君に謝罪は求めない。でも」
「君は私にありがとうというべきだよ。だから、感謝は求めたいな」
 誰の顔も見なかった。私は少し高く遠くを見た。8時はとうに過ぎているだろう。

「いまから、君が私に感謝すべき理由をいうが、3つある」
「まずひとつめは、私が呼び止めていなければ、そのまま君はアタッシュケースを振り回しながら上がっていったはずだ。下りて来る人はまだいたから、誰かよけきれず、倒れたり、転げ落ちて怪我したかもしれない。その可能性はそう小さくない。私はそれを防いだ。起きなかったことに、感謝する人はいないかもしれないが、もしそんな事故や事件が起きていたら、君の立場は大変なことになったはずだ」

「ふたつめは、私が君を制止したおかげで、こんなふうに警官がくる騒動になった。君は苦い思いだろう。私がいなければ、君はどこでもいつでも同じことを繰り返し、いずれただでは済まない危険を招き事故を起こしていたかもしれない。今後、君は多少腹が立っても、今回のことを思い出して、二度と同じことはしないだろう。君の将来を救ったのは、この私だ

「みっつめは、君は明らかに、私に暴力をふるった。4回、わざとアタッシュケースをぶつけたし、それは君自身が証言しているのにひとしい。そのほかにも、私の足の甲に、その重いアタッシュケースを置いたね。ちょっと痛かったよ。それには何が入っている? 鉄の塊のようだな。当然、私は君を警察に訴えることができる。これはケンカじゃないからね」

「もちろん、だからといって、君が逮捕されたり、起訴されるまではいかないだろう。でも、これから、警察に行って調書をつくらせることはできる。そうすれば、記録に残る。それはできるが、私はしない。忙しいおまわりさんたちを、これ以上煩わせるのは本意ではないからね。この3点について、君は私に感謝すべきだよ。ありがとうといっても、罰は当たらない」
 
 またも、彼が口を開く前に続けた。
「もっとも、この3つとも、結果的に私は君を救ったに過ぎない。君を救うためにしたわけじゃない。ありがとうといえといわれても、そんな気にはならないかもしれない。いいたくなければ、いわなくてもいい」
 みんな片づかない顔をしている。これで止めようかとすこし考えたが、口を開いた。

「そうそう、もうひとつ、結果的にじゃないのもあったな。君が私を怒鳴りあげて、興奮してよろけたよね。危うく階段を踏み外しそうになった。君の腕をつかんで引き戻したのは、とっさのことだったが、君が階段を落ちやしないかと心配する気持ちからだった。それは、君にも認めてもらいたいな」

 帰宅の車中で思い返しながら、そういえばよかったのに、と私は悔やんだ






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