コタツ評論

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学ばない人は学ばない

2007-02-12 14:44:50 | ノンジャンル
「女は産む機械」
「子ども2人を持ちたい若者は健全」
「産婦人科医の減少は少子化でニーズが減ったから」

問題視され、批判されても、子どものようにムキになっている柳沢大臣。
専門の金融政策分野では、突っ込まれることなど皆無だったので、面食らったまま動揺が続いているとしか思えない失言の積み重ねだ。






柳沢家では、大臣以外はぜんぶ女性だという。女性を相手に議論したときは、言葉遣いはきわめて大事なのだが、何十年も女たちと暮らしていながら、たいして学んでこなかったようだ。

男なら誰だって、女性と言い合いしたあげく、90%以上の勝利を確信した直後、「そういういいかたってないと思う」の一言で形勢が逆転して、唖然とした覚えがあるはずだ。この「いいかた」がPC(ポリティカル・コレクト=政治的な公正)だ。

一般的に議論の目的は、自分の主張に対して相手からなにがしかの譲歩を引き出すことにある。上記の男の場合、「今度の休日には釣りにいかせてくれ」という希望を実現させたいわけだ。

ところが、「たまには釣りぐらいさせてくれても・・・」の「たまには」と「ぐらい」が、夫婦間の分業体制への日頃からの不満を煽ってしまった。もちろん、これは「言葉尻」への「揚げ足取り」だ。

いいかたを改めようと承知しないし、ほかにいくらでも言上げの種を見つけるだろう。しかし、自分の希望を実現するため、「今度の休日には、ホームセンターで大きな植木鉢を買うのについてきてほしい」という相手の要望を先送りしなければならない。

男は、大きな植木鉢を持ち帰る助力を求められていると理解し、ホームセンターから配達させる、前日の夜に行く、などいくつかの提案をするものの、女から言下に却下されている。そこで、「たまには」と「ぐらい」と愚痴っぽい非難が口をついたわけだ。

つまり、非難の口火を切ったのは、男の方だった。相手を非難することで議論の足場を自ら壊してしまった。ほかの何を非難しても、相手を、ことにそれが女の場合、けっして非難してはならない。

女の「いいかた」への非難は、そうした男の首尾一貫しない姿勢と誠意なき態度に向けられている。男は実務や作業という側面しかみていないが、女はその背景をこそ、つねに観察しているのだ。

結果や成果だけでなく、2人の合意形成に至る過程を重視している以上、同意や説得の言葉そのものが彼女にとっての結果や成果のひとつといえるかもしれない。したがって、あなたのことを第一に考え思っている、それを言葉の端々に印象づけるよう話すべきなのだ。

PC政治的公正とは、そうした努力を相手に見せることによって、かろうじて議論の枠組みを維持し、具体的な結果や成果への合意形成を得ようとする日常的な営為である。したがって、事実の追及を目的とする議論のための議論とは、異なり相容れない。

結局、俺を釣りに行かせたくない、俺が楽しむのを邪魔したいだけ、ただの意地悪ではないか、と理解するのはたやすいが、家庭における合意形成にとって論外の考えかたである。それを言葉や表情に表したとたん、「男らしくない」とその資質を問われてしまう。

男というリソースの再分配の問題であり、時間であれ労力であれ、再分配は必ず不公平感をもたらすのは必然であり、リソースを利用する女に不平不満が生まれるのは当然でもある。それを前提とすれば、PC政治的公正に配慮した言葉遣いを嫌々ではなく、むしろ積極的に採用しなければならない。

さて、男は釣りに行けるだろうか。少し聡明な女なら、家族一緒の釣り旅行を提案するかもしれない。それで、リソースの再分配の点では合意形成といえるかもしれない。男のしょんぼりした顔が見えるようだ。

ひとつの政局としては、男の次の休日の釣行は取り止めになるかもしれないが、男が釣りを楽しむ自由そのものは否定されたわけではない。あくまで、男の釣行きへの合意形成である以上、その方向は定まったままであり、政治的な敗北とまではいえない。

しばしば男は、女が求める同意にあわてふためく。たとえば、「愛してる?」というやつだ。向けられた同意が合意形成の枠組みを突破する鋭い切っ先を持つことを、その危険を無意識に感知するからだ。

合意形成とは演繹的につくられた擬制であり、さまざまな同意を積み重ねたものではない。近代化を接ぎ木した日本では、逆に多くの同意を無視してきたあげくの合意形成といえる。実体を持たない理念である以上、つねに脆弱であることは避けがたい。

一見、無茶な、非論理的な、悪意に満ちたと思われる非難であっても、暮らし共同体から出た女からの非難には根も葉もある。それは合意形成を間違いなく鍛え上げる。少なくとも、一人で釣りに行く自由と楽しさを家族と過ごす時間の充実と比較対照する契機にはなる。

合意形成に向けた政治的に公正な言葉遣いは、民主主義が与件とする「不断の努力」のひとつに相当するものであり、擬制を維持するためのごまかしではない。「不断の努力」を強いる側に正当性はあり、だからこそ、「不断の努力」をするとする政権に正統性が付与される。

「不断の努力」が、実は「不断の譲歩」であっても正統性だけは手離したくない。正統性を失えば政治的な公正は成り立たず、政治権力も消える。「うるさい! 何をしようと俺の勝手だ」と釣りに行けば、そこで女との関係性は損なわれる。

釣りから帰ってきて、誰もいない部屋の電気を点けたとき、女というリソースだけでなく、自分という再配分可能なリソースも失われたことに気づく。資源は再配分され利用されて、はじめて資源として機能する。最大限に利用されなければ、ただのゴミでしかない。

男は釣りに行ってはいけない。代替として、女を釣りに誘ってもいけない。潔く、快く、まるで自分が思いついたように、ホームセンターへ大きな植木鉢を買いにいくべきだ。それを唯々諾々というは不見識な者である。
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