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靖国だョ おっ母さん

2013-12-28 00:53:00 | 政治
先頃亡くなった島倉千代子に、「東京だョ おっ母さん」というヒット曲があります。その2番の歌詞に靖国神社が歌われています。

久しぶりに 手をひいて
親子で歩ける うれしさに
小さい頃が 浮かんで来ますよ
おっ母さん
ここが ここが 二重橋
記念の写真を とりましょね

やさしかった 兄さんが
田舎の話を 聞きたいと
桜の下で さぞかし待つだろ
おっ母さん
あれが あれが 九段坂
逢ったら泣くでしょ 兄さんも

さあさ着いた 着きました
達者で永生き するように
お参りしましょよ 観音様です
おっ母さん
ここが ここが 浅草よ
お祭りみたいに 賑かね


1957年、昭和32年に150万枚の大ヒットをしたのはなぜなのか? 歌曲よりもその歌詞に理由があるように思います。田舎から出てきた老母のために娘が東京案内をします。1番に二重橋、2番で靖国神社が歌われ、3番に当時の代表的な東京の繁華街である浅草が出てきます。

昭和32年は敗戦からまだ12年、連合軍の占領統治が終わってわずか5年しか経っていません。つまり大日本帝国や皇軍など、旧体制の記憶が否定され、美化が禁じられた、アメリカによる検閲期間が終わってから、この歌がつくられ、歌われたわけです。

上京したら、皇居と靖国神社にはお参りしたいものだ、そんな庶民の願望を口にするのが憚れる時代から、歌に歌われるまでの時代になった。「東京だョ おっ母さん」の背景には、まずこの政治的な解放があり、それは懐古的に表現されました。つまり、すでにレトロな歌として口ずさまれた。この年には、もっと露骨に復古調の映画「明治天皇と日露大戦争」が封切られています。

田舎の老母が娘に手を引かれて東京見物ができるほど、経済的な解放もありました。前年、昭和31年の経済白書は、「もはや戦後ではない」という流行語を生み、復興から経済成長への離陸を高らかに宣言しました。「東京だョ おっ母さん」がヒットした年、日本専売公社から「HOPE」が発売され、トヨタは「コロナ」を出し、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」がヒットしました。

庶民は国民は、ほんの少し前のことを、かつての時代を、もう忘れてやしないか。作り手である作詞家・野村俊夫(明治34年生)、作曲家・船村徹(昭和7年生)の思いはそこにあったろうと思います。宮城に向けて遙拝したことを忘れ、多くの戦没者が出たことを忘れ、敗戦直後の飢餓を忘れ、占領されていたことを忘れ、亡国だったことを忘れている日本へ、彼らの抵抗の歌だったのかもしれません。

それほど、昭和30年代の靖国神社は閑散としていたようです。それまでは見向きもされない存在だった靖国神社が、復古主義とそれに反対する勢力によって、A級戦犯合祀をきっかけに政治利用されたことから、今日に続く大問題になっているわけです。「東京だョ おっ母さん」の2番、靖国を歌った歌詞も、TVなどでは放送禁止に近い扱いだったという説もあるくらいです。靖国神社とは、終始、政治問題であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。そこに人間はいない。そう思えます。

一方、「東京だョ おっ母さん」には、遠ざかる「忘れてくれるな」という声に、近づこうとする老母と「忘れてごめんね」という娘(妹)の三者がいます。死者と死者を悼む者と生きていく者です。すべての人間がいます。その意味では、戦後日本人の心の故郷といえる歌なのかもしれません。好悪、愛憎なかばする故郷の歌なのかもしれません。

繰り返しますが、「東京だョ おっ母さん」は、昭和32年当時すでにレトロ、「時代遅れの歌」でした。したがって、歌謡曲に歌われたことで、靖国は国民的な受容を深めたのであって、その逆ではなかったはずです。

そういう複雑骨折した歌をだなあ、カラオケで気持ちよさげに涙ぐんで歌ったりするんじゃねえよ、おっさん!それから、そこのガキ! みやぎじゃねえぞ、宮城(きゅうじょう)と読むんだ。戦前から戦後まもなくまで、皇居とはいわなかったの。宮城遙拝ってのは、遥か遠くの地から皇居の方向へ拝礼することなの(ちっ、皇居って云っちまった)。新聞もよ、安倍首相の個人の思いとか気軽にいうが、靖国神社に思い入れが記者にあるのか? 自らにはなくとも、周囲にそんな人がそんなにいるかね。俺はまったくないし、周囲にも見当たらないがね。



(敬称略)
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