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意思ばてろ発言に軍ぐつのヒッキー

2013-12-04 01:45:00 | 政治
自民党内では「リベラル過ぎる」と批判されるほど、石破さんは温厚でリベラルな人です。その石破さんが、「テロ発言」に及びました。

「今も議員会館の外では「特定機密保護法絶対阻止!」を叫ぶ大音量が鳴り響いています。いかなる勢力なのか知る由もありませんが、左右どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。
 主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべきなのであって、単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます。(11/29 石破ブログ




国会や議員会館周辺に一般住宅はありませんから、「多くの人々」とは、国会議員や国会職員など公務員を指します。つまり、公務員VSデモ隊という構図から、「テロ行為」という言葉が選ばれました。さらに、「その本質において」と熟考を重ねて強調しています。

では、テロの本質とは、何でしょうか? デモ隊が反対している、当の特定秘密保護法案に明記されています。

「テロリズム(政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう)」(特定秘密保護法案 第12条)

「国家若しくは他人にこれを強要し」の国家とは、石橋発言では国会議員や国会や議員会館に働く職員などの公務員を指すことは明らかです。しかし、石橋発言はマスコミ、野党、世論から強い反発と批判を浴び、その真意を問われることになりました。

「国会の周りに大音量が響き渡っているが、周りにいる人たちが恐怖を感じるような大きな音で『絶対に許さない』と訴えることが、本当に民主主義にとって正しいのか。民主主義とは少し路線が異なるのではないかという思いがするが、もし表現が足りなかったところがあればおわびしなければならない」(12/1 富山県南砺市の講演

「テロ」を「非民主主義的」と言い直し、「もし表現が足りなかったところがあれば」と仮定して、「おわびしなければならない」としました。これが「もし表現が過ぎたところがあれば」なら、「テロは言い過ぎだろう」と即答できるのですが、「表現が足りなかったところ」を尋ねられても、ちょっと見当がつきません。

「『テロだ』と言ったわけではないが、テロと同じだという風に受け取られる部分があったとすれば、そこは撤回する」(12/1 講演後、記者団に)

やはり、「テロと同じだという風に受け取られる部分があったとすれば」と仮定して、「撤回する」としました。つまり、「表現が足りなかったところ」や「テロと同じだという風に受け取られる部分」の説明責任を果たそうとするのではなく、その反対に、解釈責任を問うているといえます。受け取り側の読解力に問題があったのではないか、というわけです。

したがって、メディアは「撤回発言」と報じましたが、「とすれば」と仮定や条件を示して、「撤回する」といっているだけで、撤回はしていません。

整然と行われるデモや集会は、いかなる主張であっても民主主義にとって望ましいものです。一方で、一般の人々に畏怖の念を与え、市民の平穏を妨げるような大音量で自己の主張を述べるような手法は、本来あるべき民主主義とは相容れないものであるように思います。「一般市民に畏怖の念を与えるような手法」に民主主義とは相容れないテロとの共通性を感じて、「テロと本質的に変わらない」と記しましたが、この部分を撤回し、「本来あるべき民主主義の手法とは異なるように思います」と改めます。

自民党の責任者として、行き届かなかった点がありましたことをお詫び申し上げます。(12/2 石破茂ブログ


冒頭に戻りますが、国会や議員会館周辺には一般住宅はありませんから、議員会館前のデモ隊の騒音が、「一般の人々に畏怖の念を与え、市民の平穏を妨げる」ということはあり得ません。

ただし、国会議員や会館職員なども「一般の人々」や「市民」とするなら、一市民の石破茂の発言になります。その場合は、「畏怖を感じ」「平穏を妨げ」られたというのは事実でしょうから、撤回する必要はありません。

そうした矛盾を躱わし、本来の謝罪をするために、「自民党の責任者として」という発言主体を出します。国会議員としてではなく、特定秘密保護法案推進の立役者のひとりではなく、一政党の幹部という立場です。

その前に、「撤回し」といっていますが、これも厳密には撤回とはいえません。「テロの本質」を「民主主義とは相容れない」「本来あるべき民主主義の手法とは異なる」と言い換えただけです。そして、「本来あるべき民主主義の手法」とは、「整然と行われるデモや集会」であるとすでに例示しているわけです。

しかし、「自民党の責任者として、行き届かなかった点がありました」というお詫びだけは本物です。昨日朝のNHKニュースで、石破自民党幹事長はこう云って頭を下げ、薄い頭頂部を晒していました。

関係諸機関にご迷惑をおかけしたことをお詫びします。(12/3 NHK)

特定秘密保護法案の審議を紛糾させる騒動になったことで、自民党内や賛成野党、関係省庁の諸機関に、自民党幹事長として謝ったわけです。

どうして石破さんは、意固地を張るかのように、最後まで国民には、暴言の撤回を渋り、謝らなかったのでしょうか? その一方で、自民党幹事長としては謝ったのでしょうか?

たぶん、特定秘密保護法案だけではなく、その前に国家安全保障会議(日本版NSC)の創設があり、その先に集団的自衛権があるからです。この3つがそろって、はじめて日本は戦争ができることになります。

集団的自衛権は戦争行為そのもの、国家安全保障会議は戦争を指揮する司令塔、特定秘密保護法は戦時検閲法といえます。

戦時においては、国家の非常事態として、その危機管理上の要請から、民主主義国家でもある程度の基本的人権や自由の制限は許されています。第二次世界大戦時のアメリカも国内に戦時検閲法を敷き、占領下の日本にもそれを延長して適用しました

3点セットのどれを欠いても、あるいは不充分な運用しかできなければ、戦争の遂行には重大な障害となります。

かつて防衛大臣をつとめ、「国防オタク」と揶揄されるほど、防衛問題の専門家を自負する石破さんが「テロ発言」に及んだのも、これ以上反対が盛り上がれば、戦争ができる国になる、千載一遇のチャンスを失うことになりかねない。そうした危機感からだったのではないでしょうか。

あるいは、こうも考えられます。尖閣諸島の領有をめぐり、領海侵犯を繰り返す中国とは、すでに戦争状態にある、もしくは一触即発の緊急事態が迫っている、石破さんの現状認識がそうであったとしたなら、「戦時検閲法」反対デモをテロと云ったことについて、撤回や謝罪する必要はないし、また断じてしてはならないわけです。

追記:特定秘密保護法案 第12条の読み方について。

大人数で練り歩き、拡声器やシュプレヒコールや拡声器の大音量で主張を訴える、あらゆるデモは外形的には「強要」に見えるわけです。「結社・集会の自由」が「テロ行為」なのかという批判が出ています。私もそう読まれてしかたがない文章だと思いますが、もちろん、そうではない、と反論が寄せられています。ところで、「又は」と「若しくは」の文法ルール(?)、ご存知でしたか? 私は知りませんでしたね。

礒崎陽輔ツイッター
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(敬称略)