コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

行方不明事件について

2009-06-16 06:09:00 | ノンジャンル


私は小泉純一郎を支持していた。
05年のいわゆる「郵政解散選挙」は支持しなかったが、01年の自民党総裁選において、一般党員による予備選で地滑り的勝利をおさめ、主流派である旧経政会の橋本龍太郎を下して総理総裁になったときの「小泉劇場」には驚いた。

ヒト・モノ・カネすべてにおいて圧倒的な優勢にあった橋本龍太郎に対し、ほとんど小泉純一郎の演説とパフォーマンスだけで覆したからだ。「ワンフレーズ」と揶揄されたが、日本にも言葉で勝負する政治家がようやく出てきたかと清新な思いがした。

その代表的なワンフレーズである「聖域なき構造改革」、とくに揮発油税の一般財源化と靖国神社参拝強行に注目した。これは財政政策や政治外交問題を利権の構造(=聖域)ととらえ、手を突っ込んでひっくり返そうとしているのだなと私は理解した。

揮発油税とは、いうまでもなく財政投融資という自民党の巨大な財布に入るものであり、靖国神社参拝は、直接間接に中国に対する実質的な「戦後補償」であるODAや円借款など、「公共事業の輸出」として、金の還流に連動してきた経緯があったからだ。

当時の森派は現清和会のような主流派閥ではなく傍流であったから、これらの巨大利権を手中にするのは、とても無理。小泉の狙いは、利権構造の破壊だけにあると思った。彼の最大の政治目的である郵政民営化については、よく知らなかったし、興味がなかった。

国鉄民営化やNTTをはじめとする通信の自由化などと、郵政民営化も同じ流れだろう、くらいにしか考えていなかった。これらの規制緩和は、いずれも赤字の垂れ流しの解消や事業の効率化、市場の拡大や新規市場の開拓に寄与したと理解されていたので、郵貯をはじめ郵政事業それ自体が莫大な資金の塊であるという認識は薄かった。

小さな政府と大きな政府という二元論でいえば、私はもちろん小さな政府を支持し、小泉改革やその規制緩和に批判が強い現在でも、その立場は変わっていない。原則的に政府の介入は避けるべきだし、不必要な規制は緩和され、自由で競争的な市場が形成されるのが望ましいと思ってきた。

小さな政府を是とすることが、すなわち国民の立場であるという認識は変わっていないが、市場原理主義がこれほど猛威を振るい、規制緩和という名の野放しが横行し、階層間格差が急拡大するとは、正直思っていなかった。そして、これらは、政策の失敗の結果というより、市場の暴力に起因するものと理解するようになった。

小泉純一郎の構造改革が、意図的か結果的かは知らず、海外の巨大金融資本とその走狗の投資ファンドの参入など、利権の構造を市場に組み換えて「世界化」するものだとは予測しなかった。欧米の金融資本に根こそぎ盗られるくらいなら、国内の利権政治家と公共工事業者に振り分けられていたほうが、少なくとも地方の再分配につながるだけマシといえる。

つまり、私は、国際的な金融資本の動向や国家財政が市場化する仕組みなど、マクロな経済環境の変化について、まったく無知であり、きわめて無理解であった。にもかかわらず、小泉政権発足当時、某掲示板に、「聖域なき構造改革」は「利権構造の改革」の第一歩につながる勇気ある一撃という趣旨の書き込みをした。

この小文を書き出すとき、小泉と打ち込んでから、さて、下の名前は、シンイチロウだっけか、と思い出せず、愕然とした。物忘れがひどくなっているというだけではなく、自らの不明を忘れようとする機序かもしれぬと考え、行方不明事件となる前に、急ぎ、記しておく次第。さらなる謬見や誤認を犯しているかもしれないが、拙速こそブログの取り柄。

言論の責任とは、その影響力に比すものであって、私などは言論全体からみれば間違いなく捨象すべき誤差の範囲に入り、責任を云々するほうが滑稽で、責任はまったくないというが謙虚なくらいだが、幸か不幸か、私は私の言ったことをまだ覚えているし、当時、読んでくれたらしい十人くらいの人たちには、いささか敬愛の気持ちを抱いていたので、ここに伏して過ちを謝しておきたいのである。ごめんなさい。あれはデタラメでした。

(敬称略)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする