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コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

パパは、パパなんかじゃない!

2014-05-05 01:11:00 | レンタルDVD映画
そして父になる」を観た。

TVで再三流された予告編では、福山雅治が涙していた。福山雅治が泣く映画だと刷り込まれた。なので、今か今かと泣くのを待った。よしっ、ここで泣け! という場面が繰り返し出てくるのに、福山雅治は泣かない。泣きそうにもならない。おい、ここだ、ここだろ、ここでもいいよ、ここしかないだろ、どうすりゃ、泣くんだよ、と繰り返し福山雅治に心中で呼びかけているうちに、気がつけばこちらがずっと涙くんでいた。映画に、やられてしまっているのだ。



予告編のヌードシーンを楽しみに映画館に駆けつけてみれば、予告編とはまるで違っていたり、ごく短いシーンだったりというのとは違って、泣くまでずいぶん焦らされた気がする。ははあ、ここで涙するのかと、ほっと肩の荷を下ろした気分になった。福山雅治が泣くまで約一時間、ほぼ2/3が過ぎていた。号泣は期待していなかったが、ちょっと待ち疲れて、正直、もうどこでもいいやと手を打った感じもある。しかし、やられっぱなしも癪なので、少し考えてみた。

どこで福山雅治が泣いたか、明かすわけにはいかないが、ここでなければならないという気はしない。これでもか、これでもか、とたたみ重ねて、観客の涙を絞ろうというお涙ちょうだいではないが、ここでもない、そこでもないと引き算している気はする。それは、俺に似ていない、俺の子らしくない、子どもへの引き算に、ちょっと符合するのかもしれない。男親ってそうじゃなかろうか。母親は、無条件、無前提に、子どもを愛する、もしくは愛するとされているが、父親は、無条件、無前提に、というわけにはいかない。

母親像、父親像にも、同様なところがある。女は妊娠することで否応なく母親の自覚が生まれる、もしくは生まれると思われている。父親は妊娠しないので、父親の自覚は自然には生まれない。少なくとも無自覚なほど、自らに父親を感じたり父親と信じることはないはずだ。女は子どもを産むことで、自らも母親として生まれる、生まれ変わる感じがするが、男にはそれはあり得ない。父親になる、父親になりたい、父親になった、という自覚だけが頼りではないか。いや、自覚というより、自己対象化かもしれない。

福山雅治は、子どもを対象化することで、自らを父親と対象化している。ピアノの練習に熱心ではない、飽きっぽく負けず嫌いなところがない、男としては優しすぎる、など自分からの引き算で子どもを見ている。だから、取り違えられた、他人の子どもだったとわかったとき、「やっぱり」と思ったわけだ。そう口に出して、妻から非難する目で見られたとき、(だって、俺とはちっとも似ていないじゃないか!)と心中で叫んだ。が、取り違えられた他人の子どもと知った後でも、すぐに本当の子どもと交換するわけにはいかず、親子としての生活はこれまでどおり続いていく。

それ泣くか、いま泣くか、まだ泣かないか、と私たちが待っているときは、じつは福山雅治が他人の子を育てていたと知ってからのことだ。そんな括弧付きの父親が、けな気であどけなく親を信頼しきった「我が子」の場面場面を見ているのだ。福山雅治は、括弧付きの息子として、さらに対象化して眺めざるを得ないから、泣きたくても泣けないのだ。じゃ、どうして、あそこで、あれを見て、泣いたのか。カメラだったから、写真だったからだ。それは対象化そのものだった。つまり、息子もまた、パパなる自分を対象化していた。そのことに、はじめて気づいたのだ。

以前は我が子として、今は取り違えられた他人の子どもだけれど、6年間育ててきた子どもとして、福山雅治は対象化している。当然、自己対象化は混乱する。親子ではないのだから、似ていないのは当たり前だった。なのに、俺は、あれもこれも俺とは違うと引き算して、無理なことを押しつけてきた。そういう俺ではない、俺らしくない俺を、あの子はパパの顔や姿として、足し算していた。父親と息子である前に、人と人なんだ。息子はそれにとっくに気づいていたのに、俺はまるで気づいていなかった。

福山雅治が泣いたのは、息子も同様に、パパを引き算していたが、足し算もしていたからではない。こんなパパでもお前は慕ってくれていたんだ、とそのいじらしさに感じ入ったからではない。引き算も足し算もなく、俺のすべてを、俺さえ見たことがない俺の寝顔さえ、息子はじっと見ていた。俺はどうだったか? 引き算しか見ていなかったではないか。何もかも、わかっちゃいなかった。だから、俺こそ子どもだったんだ、と心底からわかった。それで、泣いた。自分が子どもと知ったから、泣くことを自らに許した。したがって、ほかの場面ではなく、泣くのは、あの場面でなければなかった。そう思いました。

それと、映画的ないわゆる映像美を追わず、TV的な空気感を意識したカメラワークに、映画の新しい可能性を感じました。

(敬称略)

ぶっ込むぞ!

2014-04-13 23:29:00 | レンタルDVD映画

映画「凶悪」予告編 https://www.youtube.com/watch?v=BIiPio_xnes

シャイロックは悪徳高利貸しだから裁判に負けたのではない。シャイロックの手元に滞留していた金が、アントニオに貸し出されたことで貨幣本来の流通機能を取り戻し、判決によって返済を免れたことで資本として完全に解放された、という話である(ヴェニスの商人の資本論 注1)。

利用もせず担保にもしなくて放置された土地を地主を殺して転売する。経営が傾いた電設会社の社長にかけられた多額の保険金という「貯蓄」を殺して手に入れる。いずれも金を回すことで資本に変えていく経済社会からみれば、殺しを除いて、きわめて合理的な運動といえる。

凶悪」の実行犯・須藤(ピエール瀧)や「先生」と呼ばれる首謀者の木村(リリー・フランキー)はなぜ殺すのか? 保険金目当ての殺しはともかく、地面師に殺しは必要ない。地主を意のままに操ることができるなら、法的な書類を完璧に用意しておけば、民事不介入の警察に出番はない。

借金の支払いや生活費の必要に迫られて、コンビニやタクシー強盗に及ぶのがアマチュアの犯罪者だとすれば、計画して時間をかけて大金を詐取する彼ら「凶悪」はプロの犯罪者といえるだろう。しかし、不必要な殺しをする点でプロからは逸脱している。犯罪を完璧に隠蔽する目的がただの口実に過ぎないかのように、彼らは躊躇なく殺す。

彼ら「凶悪」に、捕食者の正当性を与えているかのような場面がある。

建築会社の焼却炉で死体を焼いて始末しようとするが、炉が小さくてそのままでは入らない。須藤が鉈で死体をバラバラに刻み分け、投げ入れた後の火を眺めながら「先生」木村との会話。ひと仕事を終えた和やかな連帯感が二人を包んでいる。

木村 「肉の焼けるいい臭いがする」
須藤 「なんだか、肉食いたくなっちまうなあ」


場面変わって、「先生」木村宅で賑やかなクリスマスパーティ。サンタクロースに扮した木村。ローストチキンを手にはしゃぐ須藤やトナカイの着ぐるみを着た舎弟。その妻や子どもたち。

ただし、ほんとうの祝祭は、殺しの現場だった。須藤の殺しを意味する、「ぶっ込むぞ!」という脅しは、祭りの始まりを告げる太鼓の音であり、始まればグロテスクな祝い歌の合いの手、掛け声のように耳奥に残っている。被害者の悲鳴や苦痛の呻きをお囃子に、「凶悪」たちの哄笑と喝采が爆発する。

彼らは貪欲に、滞留した金と弱い人間を探して食らう。

人は目先の金に追われて金を追いかける回し車を懸命に走っているネズミだ。借金を背負っていなくとも、不要不急の消費そのものが、未来の収入を当てにした借金ともいえる。回し車を懸命に走るうちに、気がつけば犯罪に踏み出していたとしても、いまさら止まるわけにはいかない。

金が持つ凶暴な意思や行動力に魅入られたときの全能感は、善や悪といった道徳倫理を越え、処罰されるかもしれないリスクさえ恐れなくする。その一方で、金さえ得られれば、という犯罪者なりの秩序や合理に従った行動でもある。騒がれたから首を絞めた、向かってきたから刺した、悪いのは俺じゃない、と必ずのように言い訳をする。

金欲しさの犯罪の機序をそう考えるなら、彼ら「凶悪」はまるで違う。彼らの回し車は全体が見えないほど巨大で、その踏み板となっているのは横たわった人間である。踏み潰すときに上がる悲鳴は、回し車がゆっくりまわる心地よい前進の軋み音なのである。

彼らは老人という弱者を踏み潰すことで大金を得る犯罪のビジネスモデルを確立している。木村は須藤に、「老人はいくらでもいる。俺たちは油田を掘り当てたようなものだよ」と「起業家」宣言をする。実際、須藤が収監された後、木村は介護サービスに従事する手下を連れて、獲物探しに老人施設を回っている。

彼ら「凶悪」が捕食者だとすれば、密林の弱肉強食へ先祖返りではなく、この経済社会が生み出した捕食者といえる。彼らの犯罪は、私たちが目先の金に追われてやりかねない犯罪とは、地続きではない。振り込め詐欺の事務所を捜索すると、壁に「今月のノルマ」や「成績の棒グラフ」が貼られていると同様に、老人の金を市場に取り戻す経済活動のひとつに従事する、暗黒のビジネスマンといえる。

だとすれば、彼ら「凶悪」がなぜ老人を殺すのか、その答えも自ずと明らかになる。つまり、経済社会のコスト削減のためである。経済社会からのリストラとは、死以外にない。生命保険金目当ての家族から頼まれて「凶悪」が殺す、電設会社の老社長は、「そこらの男に5000万円もの借金ができるかって」と自らがつくった巨額の借金をむしろ自慢にしていた。

経済社会の生態系を維持する捕食者であれば、須藤や木村に贖罪はあり得ないわけだ。

という感想を抱くような「左翼映画」を監督は構想したに違いない。ところが、須藤・ピエール瀧の凄まじい「凶悪」の独壇場に、「先生」木村・リリー・フランキーの「冷酷」が後景に引いてしまった。凶暴が先んじて、暴力映画になってしまった。これは誤算だったろう。映画は監督のもののようで、監督のものではなく、現場のものらしい。

おかげで、「凶悪」に対峙する雑誌記者の藤井・山田孝之とその妻、認知症の母(吉村実子好演!)の市民生活のリアリティが味気なく映ってしまった。「凶悪」場面のクソリアリズムから生まれるブラックユーモアに拮抗する、ほのぼの可笑しく笑える家庭生活を対置していれば、大傑作になったと思う。

凶暴なヤクザ須藤が身内には優しい笑顔も見せる、面倒見のよい人物であるように、敏腕記者も明るく笑ってよく喋る、気さくな人物である場合が多い。眉根を寄せた暗い顔ほど、記者に似合わないものはない。ジャーナリストに市民社会の苦渋に満ちた正義を負わせる予定調和から脱して、吉村実子と掛け合い漫才する山田孝之が、思わずプッと吹き出す場面などを観たかった。

もしみなさまが東京で何かを失くしたならば、ほぼ確実にそれは戻ってきます。たとえ現金でも。実際に昨年、現金3000万ドル以上が、落し物として、東京の警察署に届けられました。
-滝川クリステル 2013/9/8 於ブエノスアイレスIOC総会にて、「お・も・て・な・し」スピーチより

そう、たしかに先進国中、日本の治安は例外的なほどよい。殺人件数も減少している。しかしそれは、統計上のフィクションかもしれない。「凶悪」は事実に基づいた犯罪実録映画であり、原作は『凶悪 -ある死刑囚の告発-』(新潮45編集部編 新潮文庫)である。死刑囚・須藤が3件の殺人の余罪を新潮45記者に告白するまで、警察は事件をまったく把握していなかったのである。

その3件の殺人事件のうち、立件されたのは、保険金目当ての電設会社社長殺しのみ。須藤の告白を聴いて、記事にしたいという記者に、編集長は当初にべもなくいった。「不動産ブローカーが老人殺して土地を転売するなんて当たり前すぎて誰も驚かない」。須藤や木村のモデルとなった「凶悪」が、実際には判明している以上の殺人に関わっている可能性は大きい。編集長と同じく、「ありふれた話」と耳目を塞いでいる世間に、私たちは暮らしている。

注1:引用ではなく、コタツの一部要約です。

(敬称略)

横道にそれながら世之介を語る その三

2014-04-09 02:10:00 | レンタルDVD映画



横道世之介は大学でサークルに入るのね、サンバサークル。ブラジルのカーニバルのサンバ。町起こしイベントとか、商店街の売り出しとか、そういうところへ参加して踊るのが活動。就職面接ではとても売り込めない、ひまつぶしサークルだよね。でも、バブルの頃で就職はめっぽう楽だったから、学生ものんびりしてたんだね。いちおう、まじめにサンバの練習したり衣装作ったりする。法政ってのはね、昔は学生運動が盛んで、いまでも残っている珍しい大学でね。そういう描写はまったく出てこないんだけどね。それが撮影に協力した大学の狙いかもしれないな。

与謝野祥子(吉高由里子)は世之介たちと同じ法政大学の学生じゃないな。成金のお嬢様で運転手付きの車でデート現場に乗り付け、「世之介さまあ、ごきげんよう~」って手を振りながら駆け寄ってくるの。都内のお嬢さん女子大だろうね。世之介の友だちの倉持の彼女の友だちが祥子。倉持の彼女って、「彼女、ノリ付けてんの?」と尋ねて倉持が泣かした唯ね。その最初のWデートで、祥子はすぐに世之介を気に入ってしまう。お嬢さん女子大より法政大学の方が普通の大学だし、世之介も普通の大学生だからさ、お嬢様育ちの祥子は普通が嬉しかったんだろうな。

だけど、世之介の方は素っ頓狂な祥子より、色っぽい大人の千春(伊藤歩)が気になってしかたがない。祥子はさ、「木綿のハンカチーフ」の太田裕美みたいなさ、フリフリフリルの裾の長いスカートなのに、千春はセクシーなタイトスカートにピンヒールだもの。そりゃあ、無理もないさ。でもね、この祥子(吉高由里子)が出てきてから、俄然、映画にドライブがかかる。吉高由里子って意外に小柄だったけど、いいねえ。めじからっていうの? 俺たちは眼力(がんりき)や眼光(がんこう)っていうけど、ちょいサディスティックな強い視線が可愛さを引き立たせている。

祥子や千春のほかには、大学では倉持一平(池松壮亮)や次に友だちになった加藤雄介(綾野剛)などが主な登場人物だけど、彼らはとくに世之介が気に入ってというわけでもない。「親友だあ」というベタな感じじゃない。なんとなく、いっしょにいたり、部屋に泊まったり、飯食ったりしている。そういうんだよね、友だちってさ。でもね、それから12年後、倉持も加藤も、世之介ってやつがいたよね、いたんだよって嬉しそうに笑いながら思い出すんだ。

加藤はね、今の友だちというか、恋人に、「世之介を知っているってだけで、俺はあんたより、ずいぶん得している気がする」とまでいうんだ。この加藤の意外な顔を世之介が知る場面は、普通論にはうってつけなんだが、君にこの映画を観てほしいからさ、くわしくはいえないな。

成金の土建会社社長の父親(國村隼)に、「どんな彼氏なんだ?」と問われて、祥子は、「世之介様は見込みがあるんですう、今まで会ったどの男よりもあるんですう」と口を尖らせて反発するのね。「見込みがある」ってのは、父親の口ぶりを真似て、父親の価値観に沿って祥子が持ち出した言葉なんだが、じつは父親も、そんな出世とか金とか有名になるとか、そういことだけを「見込み」といってるんじゃないんだ。もちろんそうしたことも重視しているんだが、それ以上に大事なことは何かってことはわかっている。

もしかしたら、義理とはいえ息子になるかもしれない娘の彼氏だからね。父親の「見込み」は、たぶん、祥子の評価とそれほど変わりない。でも、お父様と世之介様は違うって、だから、お父様と私も違うのって、それが祥子の云いたいこと。たしかに、世之介が社長になったり、政治家になったり、学者になったり、エライ人になるなんて思えないもの。そうはならないし、それでいいんだって、祥子は思ってる。この場面は、祥子が意外な進路を選ぶ伏線にもなっているんだな。じゃ、祥子がいう「見込み」って何? 普通すぎるって何だろう?

父娘どちらも、世之介を買っているんだが、それは世間的な評価の上でじゃない。つきあって得するか、自慢の友だちかといえば、世之介はそうじゃない。でも、いいやつなんだ。信じられる男なんだ。裏も表もないんだ。いつも朗らかに笑っていて、素直にびっくりして、ほんとうに心配して、腰軽くどこでも行くやつなんだ。思ったこと、感じたこと、考えたことが、その次の行動で手にとるようにわかる。思い出すとつい笑いが込み上げてくる男なんだ。それは「いいやつ」とか「いい人」としかいいようがないよな。とすると、いいやつになる「見込み」ってことになるわけだ。ちょっと変だよな。

じゃ、誰もが「いいやつ」と認めるオーラとか影響力を世之介が備えていて、というなら、それは普通の人間じゃないよな。そうじゃなくて、世之介もまた、倉持や加藤や祥子や千春から影響を受けて少しずつ変わっていくんだな。たとえば、世之介の故郷の長崎の港町で、夜の海岸で祥子といい雰囲気になる。ところが、ベトナムか中国か、難民のボートが漂着して、あたりは大騒ぎになる。世之介は、祥子の手を引いて逃げようとする。当然だよな、まず、自分と彼女を護ろうとするのは。でも、祥子は泣いてとどまろうとし、世之介を引き留めようとする。

この映画に主人公はいないんだな。世之介を中心に映画は進んでいくけど、世之介が主人公というわけじゃない。祥子たちも主な登場人物じゃない。倉持や加藤や祥子や千春は、俺や私なんだな。そう思わせてくれる映画はとても上出来なんだ。主人公は、ヒーローは、ヒロインは、という映画は不出来と限るわけじゃないが、残念ながら大人の映画じゃない。いつかは卒業したほうがいい。

最後にね、世之介の事故が明かされる。最初、あざといなって思った。小説が原作だから、あの設定を変えるわけにはいかなかったんだろうが、なんだよそういうことかって、つじつま合わせに思えて、ちょっとがっかりした。でもね、それも世之介にとって横道なんだろうなって思い直したね。というのは、倉持や唯、加藤や祥子も、横道を歩いたことがわかったからさ。ほんのちょっと脇の道へ、ちょっと狭い、まっすぐではない、曲がっているところもあってその先が見通せない、そんな道をみんな歩いていた。

普通なんてないってことなんだな。でも、俺たちは普通だし、そう思っているし、そう思っていることはたしかなことだよな。でも、気がつけば横道を歩いている。でも、俺たちは普通だしと、ぐるぐるまわりだけど、それは誰も似たようなものさ、というのとは全然違う。俺とか私を離れてみれば、俺たちとか私たちと思ってみれば、「普通すぎて可笑しい」と祥子が微笑む普通が見えてくる気がするんだよな。カメラワークでいうと、俯瞰の眼だな。時間の風に頬をなぶられながら、道のない地面をうねうね歩いている、俺や俺たちを空から見ている。死者の眼でもある。そういう映画だな。観たくなった? なあ、頼むから観てくれよ。ダメ? やっぱり、「アナと雪の女王」を観たい?

(敬称略)


祝 日米間首脳会談!

2014-03-26 10:39:00 | レンタルDVD映画
もとい、日米韓首脳会談、であります。会談後の記者会見で安倍首相がパククネ大統領に顔を向け、韓国語で「朴大統領ともお目にかかれて、本当にうれしく思います」と話しかけても、正面を向いたまま視線を合わせず、硬い表情を崩しませんでした。下の「報道に過不足あり」で、韓中の日本に対する「歴史認識」批判はプロパガンダという「ロシアの声」掲載の論説に賛同しましたが、パククネ大統領の沸き立つ感情を抑え込んだような冷厳な顔を視て、あらためてプロパガンダというだけに収まらないものを感じました。

東アジア 記憶の戦争」論説でも、

2月末、中国政府は南京で朝鮮人慰安婦が働かされていた場所にメモリアルを設ける予定だ。これは決して人道的な考慮によるものではなく、政治的行動であることを忘れてはならない。

として、主に中国の日本への言動をプロパガンダとして明快に切り捨てていますが、韓国のそれへの言及はわずかしかありません。筆者のアンドレイ・ラニコフ氏も、プロパガンダとだけ整理するには躊躇せざるを得ないほど、韓国の行動には理解しがたいところがあったのでしょう。中国に言及したその前段は、主に韓国を指し示していると思えます。

多くの場合、ナショナリズム感情というのは実際の地政学的利害の前には意味を成さないが、東アジアにおいては一見たんなるシンボリックな行動であっても、現実的に大きな政治的意味をもつことがある。

韓国の「地政学的利害」からいえば、反日は「意味を成さない」が、従軍慰安婦、東海表記、旭日旗批判などの「シンボリックな行動」であっても、国内世論の統合という「現実的に大きな政治的意味」をもつことがある。そう読み換えられます。

うがってみるなら、ロシアにとって対日政策は、その逆だと云いたいのでしょう。エネルギー供給や北方領土及び、シベリアの共同開発など日本との経済協力関係を進めることで、ロシア経済の活性化をはかり、東アジアにおけるロシアの安全保障の基盤をつくり、もって政権基盤をより強固にしたい。それが、ロシアの対日関係における「現実的に大きな政治的意味」であり、つまり未来志向というわけです。

クリミア併合により欧米から経済制裁をつきつけられても平然としていられるほど自給自足体制のロシアに比べれば、韓国ははるかに脆弱な国家体制である上に、北朝鮮という最悪の隣国に接しています。地政学的な利害に関しては、ロシアよりいっそう敏感であることが求められる韓国が、その「親中」はともかく、「反日」から不利益以外の何が得られるのか、理解に苦しむというところでしょう。プロパガンダとは何より、自国の利益、具体的な利益を求めて発動されるものだからです。

政治や経済、文化といった統治の次元では、理解を越えた韓国の激しく執拗な反日の主張を考えるために、もしかすると一つの補助線として有効に思える韓国映画があります。日韓関係に関心がある向きは、ぜひご覧になることをお勧めします。韓国の国民感情を知るのに役立つのではないかと思います。いまならTUTAYAビデオレンタルの準新作コーナーにあるはずです。「嘆きのピエタ」という映画です。



映画を現実の構図に当て嵌めて観るのは、いうまでもなく邪道ですが、「嘆きのピエタ」の残酷非道な高利貸しを歴史的日本、債務に苦しむ零細工場主を歴史的朝鮮人と見るのは、むしろ日本の観客としては避けがたいのではないかと思います。

考え込んでしまうのは、主人公の若き高利貸しを捨てた母親を名乗って突然現れる中年女は、誰なのかです。うがっていえば、彼女こそ朝鮮人慰安婦なのかもしれません。偽の母親と疑い、犯して白状させようとするところなど、きわめて象徴的に思えます。

陰鬱な表情ながら、ハンサムで背が高く、頭が切れて腕力もある青年高利貸しは、この母によって精神的に追いつめられあがきますが、その贖罪は凄まじくも美しいものになります。走る軽トラックの後に途切れることなく続いていく、影のような線を俯瞰して映画は終わります。

このエンディングに至り、やはり「韓日」の歴史的な構図と「反日」の情念がモチーフとなっていることを確認できる思いがしました。そして、現実の構図に当て嵌めてみて、非現実的な「韓日」の姿を希求されていることを知り、日韓の現実に戻って考え直させられました。真に求められているのは、謝罪や賠償ではないのではないかという気がしました。

「嘆きのピエタ」は第69回ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受賞しました。記者会見では必ず調子っぱずれのアリランを歌うことで知られるキム・ギドク監督の2012年作品です。母親役のチョ・ミンスの熱演もさることながら、何より高利貸し役のイ・ジョンジンが鮮烈です。こんな俳優はちょっと見たことがありません。韓国は素晴らしい俳優が途切れないですね。

ちなみに、「ピエタ」とは、もとはイタリア語で「哀れみ」「慈悲」を意味し、磔刑に処せられたイエスの亡骸を聖母マリアが抱く、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロの彫刻が有名だそうです。つまり、日本はイエス、聖母マリアは韓国ということになります。仮に、この非現実的な夢想が韓国の国民感情に根ざしているとすると、現実的な構図としては、韓国併合を求めているとなります。いや、仮に、仮にですって。ご批判無用ですよ。

(敬称略)

横道にそれながら世之介を語る その二

2014-03-21 22:33:00 | レンタルDVD映画

予告編


横道世之介がどう普通かっていうと、映画ではまず変な髪型で表現しているの。ぼわっとふくらんで、ちょっと長めでくせっ毛。なんか悪目立ちたい漫才師や奇術師がするようなヘアスタイルだな。これでイケメン路線はないって、すぐわかる。

相手に対するときもそう。猫背でぐにゃぐにゃしながら、相手を見ないまま、かといって何かを見るわけでもなく喋り、相手が自分を見ていないときにちらちら見るのね。そういう若いやつっているよね。

だからさ、普通って目立たないとか特色がないってのとは違うんだな。何か変でおかしいのが普通なんだ。髪型なんて、似合ってなけりゃおかしいし、似合っていてもそれはそれでおかしいじゃない。

君さ、自分の髪型をベストだと思ってる? でしょ、思ってないよね。いや、変じゃないよ、たとえばの話、怒るなよお。

そのなんだ、かなりキマっていると思っていたとしてもだよ、正面を鏡に映して判断しているだけだもの。身体ならなおさら。誰も自分の背中を見たことがないし、ましてや身体を動かしている自分を、他人の目になって見るなんて誰も経験したことないわけだから、無理もないがね。

ほら、君の場合、そうやって耳を引っ張ったり、あかんべえするみたいに指で伸ばすでしょう? 退屈しているってボディランゲージかな。でも、どんなに変な身動きをしているか、自分では気がついていないから、それを他人がどう思っているかなんて考えてみたこともない。

そんな世之介(高良健吾)なんだけど、じつは礼儀正しいんだ。それはファースト・コンタクトですぐにわかる。大学のオリエンテーションでね、近くの席にいた唯(朝倉あき)と口をきく。東京で、大学で、はじめて、女の子と口をきく。

でも、話題はない。とりあえず世之介はね、唯の目の化粧に気がついて、「オシャレだね」っていう。で、唯を先に知り合った倉持(池松壮亮)に紹介する。すると、倉持はいきなり聞く。「ね、ノリ付けてんの?」。さらに倉持は聞く。「ね、ね、彼女、ノリ付けてんの、キャハ」。唯は泣き出し、怒ってしまう。

世之介とは対照的なアプローチだよな。唯の顔がアップにならないからよくわからないんだが、唇とか、ほっぺたとか、テラテラ濡れ光るみたいな化粧があるじゃない? たぶん、あれじゃないかと、えっ、アイプチっていうの?。なるほどねえ、二重瞼にするのに失敗して、ノリだけが目立っちゃったんだ、唯は。

倉持はガキだから、わっ、瞼てかってる、おもしれえってだけで、ちっとも悪気はない。すでに唯を友だち扱いしているから、なぜ唯が泣き、怒っているかわからない。

世之介もじつは「なんか変にてかってる」って思ったかもしれない。けれど、そこは田舎者の自覚はあるから、東京の娘だしオシャレのひとつなのかもしれない、そういったん判断を保留する。無知な田舎者と思われないように、おずおずと、「それ、オシャレだね」と褒めておく。

つまり、お世辞だね。そういわれて唯が満足そうに微笑むと、あっ、よかったんだ、と世之介も安堵して微笑む。これが礼儀なんだ、ね。それのどこが礼儀かって? お世辞が礼儀なのかって? 礼儀でしょ。あのね、礼儀って、お辞儀するとか、丁寧な言葉遣いとか、お行儀よくってことばかりじゃない。なにより態度が大切ね。

「今日はお忙しいところ、ご足労いただきまして、まことにありがとうございます(棒読み)」。これでわかるだろ? でも、そうそう態度はとりつくろえるもんじゃない。そういう姿勢というか、心の中の構えがないとね。かんたんにいえば、怯えかな。

君だって、知らない人にはじめて会うときは、ちょっとびびるだろ? びびんないか。ま、たいていの人はびびる。若いうちならなおさらだ。なぜかというと、知らないからさ。人気のない夜中に、真っ暗な路地に入らなくちゃならないとしたら、ちょっとびびる。そこに何があるか誰がいるかわからないからだよね。道がなくて穴があるかもしれないし、怖い人が飛び出してくるかもしれない。

人の内面もね、真っ暗な路地みたいなもんさ。この人について、私は何も知らない、まるでわからないかもしれない、そういう心持ち。この人は危険かも?ってのが基本だが、相手から危険に思われたくないってことでもあるな。そう誤解されたら向かってくるだろうからね。私はあなたを傷つけませんよ、無害ですよって態度で示す。世之介の場合、そのひとつが、「オシャレだね」ってお世辞になる。

自分の知識や経験から人を判断せず、これまで会った誰とも違う人かもしれない、とやや怯えながら相手に接する。そういうことさ、礼儀正しいって。う~ん、物怖じするのとは違う。物怖じは自意識過剰で、嫌われたくないとか、嫌な目に遭いたくないって気持ちが先行して、身体は後ずさりしているもの。礼儀は怯えながらも一歩前に出て、私はあなたを傷つけませんよと先に態度で示すもの。

だから、礼儀正しくするって、受動じゃなくて能動なんだな。押されているようで押している。だから、世之介は女性にモテる。登場する女性のすべてに、世之介は憎からず思われている。憎からずって憎まれていないってことじゃなくて、好感を持たれているってことさ。惚れたとはぜんぜん違うけど、恋愛はそこからしかはじまらないもんだ。うん、そうだ、そうだ。

何やってんの君、顔のあちこち引っ張って。吊り目にしたり、垂れ目にしたり、そんなマッサージすると、小顔になるわけ? ま、つまんなかったかもしれないが、普通って、礼儀正しいことなんだ、というのは大事なポイントなんだよ。じゃなくちゃ、世之介がモテる理由が見つからないもの。

イケメンでもなく、格好よくもなく、頭がよいわけでもなく、話がうまいというのでもない、そういう世之介がモテる理由が君はわかった? なぜなの? 優しい笑顔をするから? だあからあ、その優しい笑顔は、俺がさっきいった姿勢、相手と自分の構えを解かせる笑顔なわけでしょ。

ボクシングでいうと、両手だらり、ノーガードという構えなわけ。いや、あれは挑発か、いや、フリーにやろうやっていう、ま、いいや。どっちにしろ、君はボクシング知らないもんね。

でさ、世之介って名前はないだろ? 聞いたことないよね。そんな名前のやつ、いないよね。井原西鶴って江戸時代の小説家の「好色一代男」って作品の主人公の名前なんだ、世之介は。江戸時代の名前。好色ってくらい、女が好きでモテた男の人生を書いた小説だ。ま、光源氏みたいなもんだな。俺もちゃんとは読んだことないけど、きっとモテる秘訣が書いてあるんだろうな。だから、江戸時代のベストセラー。

世之介は、3人、いや元カノを合わせると4人出てくる女、全員にモテている。男の友だちからも好かれている。み~んなから好かれている。つまり、モテ男だ。おいおい、それじゃ、普通じゃねえだろ。異性にはモテないし、友だちもいない、それが普通だよな。その矛盾を解くキーワードが、祥子のいう「世之介さんて、普通すぎておかしい フフ」って言葉なんだな。

ほかにもね、この映画、矛盾がいくつかある。横道っていう名字にかかってくるんだけど、それは普通ってことの意味にも帰ってくるんだね。ま、次回のお楽しみということで、まだ続くのかって? 続くよお。何のためにタダ飯食わしてると思ってんの? ケーキも頼んでいいから。しっかし、高いな、この店。次は別の店にしない? うん、そうね、ケチはモテない。どうしたらモテないかについては、俺はかなりくわしいよ。

上を向いて歩こう / 忌野清志郎&甲本ヒロト


ファンの間では常識かもしれないが、ブルーハーツの曲作りと甲本ヒロトのボーカルは、忌野清志郎の影響が濃いんですね。ブルーハーツのリードギターはダウンタウンブギウギバンドに影響されていましたが。

(敬称略)