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コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

私の正月映画でした

2015-01-25 01:35:00 | レンタルDVD映画
ある過去の行方」を観ました。



フランスでロケした仏伊合作映画ですが、イラン映画といえます。2012年12月に当ブログでも紹介したイラン映画「別離」が米アカデミー外国語映画賞をとるなど高い評価を得たので、アスガー・ファルハディ監督に仏伊が資金と配給を引き受けて撮らせたのでしょう。フランスに移住したイラン人一家の離婚と結婚と不倫が織りなす男女の愛の文様を描いた作品です。

ただし、パリのカフェやクロワッサンは登場しません。パリ郊外の変哲もない小都市しか出てきません。甘い言葉は囁かれず、「愛してる」はもっと切実な訴えです。濃厚なラブシーンはありませんが、中年にさしかかった男女の暮らしのなかの肉感は描かれます。たがいの髪や肌や唇はたがいの手指や吐息がすぐに触れるほどなのに、もどかしくからまっている心は解けません。

薬剤師としてつとめるシングルマザーのマリーは、思春期の娘二人に再婚予定の男の連れ子とも同居する四人暮らし。毎日が目が回るように忙しく、心配事も多くて気の休まる暇もありません。結婚予定のクリーニング店を営む年下の男サミールの連れ子ファドはマリーに反発し、長女はなぜかサミールを嫌うように避けて結婚に反対しています。そこに、4年前に別れ故国イランに帰っていた前夫アフマドがやってきます。正式の離婚手続きをするために、マリーが呼び寄せたのです。

冒頭、空港でマリーがアフマドを迎えるところで、この映画で象徴的に多用されるガラス越し対面場面が出てきます。到着ロビーのマリーが先にアフマドを認め、手荷物受取りロビーのアフマドもマリーに気づきますが、二人は厚いガラスに隔てられています。たがいのジェスチャーを目で追い、口の動きで伝え合うしかありません。こうしたガラス越し場面は後のほうにも出てきますが、求め合い伝え合おうとするのに些細なことでうまくいかない関係です。

ホテルに泊まるつもりだったのに、マリーが予約していなかったために、アフマドは子供部屋に泊まるはめになります。マリーはバツ2で、娘二人はアフマドの前の夫との間にできた子どもですが、アフマドにはなついています。やがて、長女のリュシーがマリーとうまくいっていないことに気づき、リュシーの相談に乗ろうとしますが、そのリュシーからマリーが再婚予定であることをはじめて聞かされて驚きます。

翌朝、訪ねてきたサミールと対面し、アフマドはますます居心地が悪くなり、マリーの気持ちをはかりかねてとまどいます。そう、マリーとアフマドはかつて愛し合っていたし、夫婦関係を解消したいまもたがいを憎からず思っているのです。愛が冷めたというより、求め合い伝え合おうとするのにうまくいかず疲れたのです。だからこそ、久しぶりに会えた懐かしさは、すぐに皮肉へ口論へエスカレートします。一方、寡黙なサミールも、マリーと心の通い合いはすれ違いがちです。自殺未遂のあげく植物人間となった妻を抱えているのです。

サミールの妻が仕事場のクリーニング店で洗剤を飲んで自殺を図ったのは、母マリーとの不倫への当てつけではないか。長女リュシーはそう考えているようだとアフマドはつきとめます。そこから、真相は二転三転して驚かされますが、前夫アフマドを探偵役にした推理映画の趣きがあります。欧米の探偵ものでは、登場人物たちがさまざまな事実について言及し、あけすけに心象を語り、ときに対手を批難するという応酬のうちに真相が解き明かされていくものです。口角泡を飛ばす舌戦に、やはりイランは西欧だなと感想をまず抱きます。

しかし、求め合い伝え合おうとするのにうまくいかないことについては言い募りますが、求め合い伝え合おうとするその心については口を閉ざしたままです。いつまで待っても、けっして告白や告解はしません。汲みとるものなのです。そんなところが小津安二郎や成瀬巳喜男の映画を思い起こさせ、イランの家族ドラマに惹かれる理由かもしれないと思いました。言っても詮ないことだ、すでに過ぎ去ったことなのだから、あるいはこれから待ち受けているのだから、そんな宿命的な予感のようなものが漂うところが共通しているのです。

いわば諦観めいたものなのにニヒリズムに陥らないのは、小津安二郎や成瀬巳喜男の映画や「ある過去の行方」に登場する男女や肉親、周辺の人々の間に慈愛のまなざしが交わされているからです。あたかも空気のように、いつもそこにあります。それがこの映画の胆であり、最後の最後に、アフマドではなくサミールの手によって、「ある過去の行方」をめぐる謎が解き明かされる伏線でもあります。ほんの些細なことから。私たち観客は誰が誰をより愛していたかをはじめて知ります。これはわかりませんでした。予想もつかない結末でした。

(敬称略)

サイレント・ウォー

2014-11-22 23:34:00 | レンタルDVD映画
これはベストの映画です。いや、ベターとベストではなく、ニットのベストです。この映画の時代設定なら、日本では毛糸のチョッキと呼ばれていたでしょう。1947年の香港から幕が開き、1949年の北京天安門、中華人民共和国の建国を毛沢東が宣言するまで、国共内戦の2年間が時代背景です。

盲目のピアノ調律師・何兵(トニー・レオン-梁朝偉)は、中共701部隊の張学寧 (ジョウ・シュン-周迅)からスカウトされます。701部隊は中国国民党の100以上もの通信を傍受する諜報組織です。

ところが、ある日、すべてのヘッドフォンから、天気予報やニュース番組などを聴かされる羽目になりました。周波数が変えられたのです。そこで、新しい周波数を見つけるため、ラジオ電波にまぎれた微細なモールス信号を聴き分けられる、聴覚に優れた者を701部隊は血眼で探していたのです。



社交界の華にも偽装する暗号名「200号」の張学寧の上司である局長、暗号名「老鬼」の郭興中(王学兵 ワン・シュエピン)と、驚異的な聴覚で失われた周波数を次々に見つけ出し、701部隊の救世主となる何兵が、いつもニットのベストを着込んでいました。何兵はカジュアルな、局長はスーツの内に合わせて、という違いはあれど、それぞれ色柄の違ったベスト姿を見せてくれます。

錦織圭選手のような爽やかなテニス青年が着用に及ぶ場合をのぞいて、ニットのベストといえば、学校の先生か市役所の職員か、野暮ったい印象が先立つものです。この二人が着ると、ニットのベストもどうしてなかなか小粋に映え、渋い男らしさを醸し出すのです。

たぶん、香港が英国の植民地という背景があるのでしょう。イギリス人はニットのベストやカーデイガンが好きですからね。第67代と69代の英国首相をつとめたハロルド・ウイルソンに、回顧録を書かせようと若い新聞記者が邸宅を訪ねました。門扉で待っているとほどなく、ひじの抜けたウグイスのウンコ色のカーデイガンに、くたびれたズボンのよぼついた老人が漏斗(じょうご)を携えて出てきました。庭師か使用人だろうと手短かに案内を頼むと、通された書斎に現れたのはさきほどの老人。なんとウイルソン元首相当人だったという話が伊丹十三のエッセイにありました。

ピアノ調律師の何兵は、自営業らしい大きめな柄と明るい配色のくだけた感じのベストです。よくトランプのダイヤのような菱形の連鎖柄はよくみかけますね。郭興中は、スパイ組織の冷徹非情な局長らしく、田舎教師のような地味な暗色ばかりでした。たぶん、ブルジョアのバリッとしたスリーピーススーツのベストに対して、ニットのベストは非ブルショア、無産階級を表現したのかもしれません。



宗主国の英国でも、窮屈さを逃れたり遊び心を生かせる男の衣服はニットのベストくらいかもしれません。植民地人の中国人男性にとっては、英国紳士を真似るちょっとしたおしゃれアイテムだったのかもしれません。ただし、この映画のベストはファッションにとどまらぬ、逆転した関係性が暗喩される、重要な意味が込められています。

100もの通信傍受を復活させて701部隊の救世主になった何兵に、感謝の印として張学寧が派手な柄のベストを贈るのです。ちょっと高価そうな洒落たニットのベストが女から男へ手渡されます。何兵は張学寧が好きですし、おしゃれにも関心があるので、このプレゼントを手放しで喜びます。そう、男と女が入れ替わっているのです。

この映画はスパイ映画である前に、まず恋愛映画なのです。男女の恋愛がロマンチックにからむのではありません。007が典型ですが、そういう映画ではたいてい女は添え物です。ジェームズ・ボンドの場合、恋愛というより、つまみ喰いですね。その他のスパイ映画でも、女に惚れたがゆえに危地に陥るとか、女を救うために敵地に乗り込むとか、男の活躍を際立たせるために足手まといな女が登場するケースが多いものです。

張学寧は例外でした。後に暗号名「老鬼」を継ぐほど任務第一のプロフェッショナルです。ジェームズ・ボンドの身体能力とジョージ・スマイリーの頭脳を合わせたようなスーパースパイです。したがって、結婚して家庭に入ることなど眼中にありません。また、明るく洒脱な何兵を憎からず思っていますが、自分以上に冷徹な局長・郭興中への敬愛が勝っています。

国家のために非情な世界で闘う強い女と盲人という障害を持ちながら温かい心とユーモアで人生を楽しもうとする男。癒やし癒やされる男女関係が逆転しています。張学寧は何兵だけでなく、じつは局長の郭興中からも愛され、男二人の切ないまなざしを受けています。そのまなざしには、まず敬愛が込められているのです。だから、恋人に、妻になってくれと男はいえません。



清楚にして妖艶な張学寧ですが、本身は冷徹なスパイなのです。男二人はそのことに恩恵を受けてもいます。局長・郭興中にとっては、もちろん有能な部下として、何兵にとっては、面倒見のよい姉のような存在かもしれません。

そうですね。男女入れ替わりにこだわらなければ、男にとって理想的な姉や妹といってもよいかもしれません。張学寧の周迅(ジョウ・シュン)の凜々しさ、美しさ、可憐さ、そして厳しさはそれほどのものです。

もちろん、トニー・レオンが主役です。でも、主演は周迅(ジョウ・シュン)です。危険な任務に赴いた張学寧の身を案じながら、何兵と郭興中は701部隊で無事の帰りを待ちわびるしかないのです。面影の微笑を信じて。

男二人が悩殺される張学寧(周迅-ジョウ・シュン)のファッションも無敵に素敵です。鶴田浩二の「赤と黒のブルース」の<赤と黒とのドレスの渦に~♪>の一節を思わせる真っ赤なロングドレス、一転してツイードのジャケットにパンタロンの清楚な秘書のようないでたち。もちろんチャイナドレスの柳腰も。おまけにメタルフレームのメガネかけてと百変化。

いずれの場合も、いわゆる「舐めるように」は撮りません。さらっと流します。ついでに、局長がほんのちらりと見せるハンフリー・ボガードばりのトレンチコート姿もありました。そうそう、張学寧のヘアスタイルは、時代がかったパーマをかけてウエイブをつけたサザエさん頭です。



いやいや、トニー・レオンにも見せ場がつくられています。盲人ですから、はじめサングラスをしています。中国人がよくかけるアンバランスに大きい、似合っていないサングラスです。途中から目隠しや包帯になりますが、つねに顔の半分が隠れているわけです。

その上、通信傍受が仕事ですから、アクションシーンはなく、ほとんど動かずただ机の前に座ってラジオを聴いているだけです。つまり、見せ場がないのが見せ場なのです。

むしろ、前半では少年のようにつぶらな瞳の男トニー・レオンの目を隠したのみならず、サングラスをとる場面では醜く白濁した目を晒しさえしています。スケールの大きいアクションを見せてくれる場面もありません。

トニー・レオンは剛毅と愛嬌が瞬時に入れ替わるところが魅力なのですが、この映画ではほとんど愛らしいだけの男になっています。もちろん、後半にはトニー・レオンのほんらいの瞳と結末では剛直を見ることができます。

張学寧が最新の角膜移植という治療を何兵に勧めたおかげで、何兵の視力が回復するのです。ここでも女が男に与え、男がそれを受け入れています。それをいえば、そもそも張学寧が何兵の特異な能力を見い出し、その可能性を開く道に導いているので、何兵は張学寧に与えられるまま、ずっと受け身に従っているということになります。さて、男女逆転した関係が、クライマックスではさらに逆転するのか? それは観てのお楽しみです。

フランス語でエスピオナージ(諜報)映画と呼びたいくらい、きわめて完成度の高いスパイ映画です。植民地香港の高い天井の洋館でスパイたちが麻雀に興じる場面など、ヨーロッパやハリウッドのスパイ映画に出てくるチェスやポーカーゲームのような虚実の駆け引きを見せて、とても雰囲気があります。

欧米の作品と比べても勝るとも劣らない魅力の第一は、トニー・レオンとジョウ・シュンという現代最高の俳優が主演をしていることです。監督は、名作「インファナル・アフェア」シリーズのアラン・マック&フェリックス・チョンです。

ちょっと蛇足。中国共産党と中国国民党のサイレント・ウォー(暗闘)を描いて、まるで中共701部隊がアメリカのCIAや英国のMI6のようで、中国政府の「国家礼賛」戦略と鼻白む向きもあるかもしれません。私はむしろ、プロパガンダ以上に、現在の中国の変質と成熟、そして自信をこの映画にみました。

周知のように、中国は台湾を国家として認めていません。当然、中国国民党もまったく認めてきませんでした。ところが、この映画では中国共産党701部隊が闘う主敵は中国国民党の諜報グループの「重慶」なのです。すなわちライバルとして、「重慶」グループも非情ながら国家のために勇猛果敢に闘っているのです。

最近、中共はこれまで敵として扱ってきた元中国国民党兵士にも、ともに抗日を闘ったとして軍人年金を支給することにしました。共産主義の優越性ではなく、chinaの正統性に比重を置きはじめたといえます。トニー・レオンは香港、周迅(ジョウ・シュン)は中国、王学兵(ワン・シュエピン)は台湾の俳優という国共合作映画です。

クライマックスにこの歌が流れます。映画のなかの歌声が誰なのかわからなかったので、とりあえずこれを。

Vincenzo Bellini : Casta Diva from "Norma" - 歌劇《ノルマ》から 第一幕 アリア「清らかな女神よ」


(敬称略)

映画は終わらない

2014-11-03 02:52:00 | レンタルDVD映画
さすがに連休中らしく、好物ジェイソン・ステイサムの新作「ハミングバード」はすべて貸し出し中。一方、ご贔屓チェ・ミンシクが出ている「新しき世界」は全部残っていた。休日の幹線道路の渋滞をとろとろ走るペーパードライバーみたいに、目端が利かないですね。おかげで傑作を観ることができました。

イ・ジョンジェ×チェ・ミンシク×ファン・ジョンミン出演!映画『新しき世界』ティーザー予告解禁!


監督は、当ブログでも紹介した「悪魔を見た」の脚本で知られるパク・フンジョン。「悪魔-」は凄まじい残酷暴力犯罪映画でしたが、ヤクザ映画「新しき世界」では残酷描写は直接的ではなく(それでもじゅうぶんに恐ろしかったが)、格闘アクションシーンが見どころ。

敵味方の怒号と絶叫が飛びかう白刃とバットの大乱戦場面から一転、敵がひしめくエレベーター内にただ一人引きずり込まれ、ドアが静かに閉まり惨殺が暗示されて場面転換するかと思いきや。そこからまた死闘がはじまるエレベーター上からの俯瞰撮影の見事なアイディア。エレベーターの狭さではなく広さを強調するかのような縦横無尽の反撃に唸りました。

でも、最大の見どころは最強の俳優陣です。抑えた受けの演技にまわったカン捜査課長のチェ・ミンシク、情と理に引き裂かれる潜入捜査官ジャソンの苦悩を端正に演じるイ・ジョンジェ、その兄貴分で組織のNO3チョン・チョンのファン・ジョンミン。そのライバルでNO.4イ・ジュングのパク・ソンウン。

いずれもすばらしかったが、とくに印象深いのは、下品な愛嬌と突発的な暴力性を同居させて圧倒的に魅力を発するファン・ジョンミン、ほとんど劇画的なまでに酷薄ダンディのパク・ソンウンでしょう。韓国の男優には、日本の男優に珍しくなったセクシャルな男ぶりがあります。(昔は、日本の映画界にも、青木義郎や高城丈二とかいたのだが)。

その他にも、カン課長とコンビを組むコ捜査局長のチュ・ジンモの俳優以前の醜男ぶりやNO.3とNO.4を闘わせて漁夫の利を得ようとするNO.2スギ理事のチェ・イルファが小沢一郎そっくりだったり、脇役の男顔集めにも収穫がありました。

ヤクザ組織に潜入して幹部に登りつめた潜入捜査官のジャソンが華僑だったり、上海マフィアとのビジネスでのし上がったチョン・チョンが呼び寄せる暗殺グループの「延辺の物乞い」が中国延辺の朝鮮族だったり、現在の韓国と中国との関係も重要な薬味になっています。

そして、大団円を迎えた後、回想のエピソードがはさまれます。クレジットが載ればエンドロールなのですが、載りません。そこで映画は折り返したのです。また冒頭に戻る。この無限ループこそ、映画を観る醍醐味ですが、それに成功する作品は稀なのです。

ファン・ジョンミン、「僕のせいで青少年観覧が不可になったのでは...」


(敬称略)

floating clouds

2014-10-06 22:13:00 | レンタルDVD映画


台風18号のおかげで仕事が休みになり、CATVで放映されていた「浮雲」を途中から観た。若い頃にも、TVで放映されていたのを観かけて止めた覚えがある。「東京物語」もそうだが、テンポが遅くて、「ねえ」とか「ほら」とか、日常会話がくり返されるだけで論理的な対話やドラマツルギーもない退屈な映画だと思っていた。たぶん、黒澤明もそう思っていたから、「七人の侍」や「用心棒」など、土砂降り雨中の乱戦などアクション満載の劇的な映画をつくり、少年時代の私も熱狂したわけだ。

中高年といわれる境遇になって観て、今回はまったく退屈しなかったどころか、眼を奪われるところが多かった。なにより、高峰秀子の演技のリアルさ。そのユニークな造型に驚いた。日本映画随一の名女優といわれるのもなるほどと思った。美女というほどではない、鈴を鳴らすようなにはほど遠い鼻濁音の声、セリフ回しに抑揚がなく一聴では棒読みかと思う。嫉妬し、恨み言を云い、めそめそとし、自らを皮肉くる、にもかかわらず、高峰秀子のゆき子は美しく、愛らしい。

ゆき子の亡骸にとりすがって泣き崩れる富岡の姿に、少なからぬ映画ファンはフェデリコ・フェリーニの名作を想いだすだろう。「浮雲」のゆき子と富岡は、「」のジェルソミーナとザンパノである。「道」は1957年日本公開だから、先につくった成瀬巳喜男監督が影響されたということはないはず。ただ、自分勝手(ザンパノ)や優柔不断(富岡)な男に、赤心(まごころ)を尽くして、不幸のままに死ぬ女の物語が普遍なのだろう。女が死んだ後、はじめてそれを思い知るという男の姿とともに。

それはやはり一種のファンタジーだろう。天使のように純粋無垢なジェルソミーナは永遠に生きるのに(彼女の歌は歌い継がれていく)、ザンパノは慚愧を抱えて生き続けるしかなく、やがて落魄して死ぬはずだ。つまり、そこで「命ある者」はザンパノであって、ジェルソミーナではない。ゆき子はそうではない。好きになった男にすがりつきながら、意のままにならぬ男にからみ、うんざりさせる、ありふれた女だ。その無垢や貞淑はジェルソミーナのような少女の処女性によるものではなく、成熟した女がその性愛をとおして獲得したものだ。ジェルソミーナのジュリエッタ・マシーナより、ゆき子の高峰秀子は、ずっと生身の複雑な女性像を演じたわけだ。

ゆき子の死に顔に富岡が口紅をさす場面で、若い映画ファンならクリント・イーストウッド監督作品の「ミリオンダラー・ベイビー」を思い起こすかもしれない。フランキーがマギーに施す場面では、モノクロ調のなかで口紅を塗った唇だけが赤く輝いていた。こちらは成瀬巳喜男からの引用かもしれないが、口紅と唇の意味はかなり違う。

フランキーは口紅など塗らない女性プロボクサーだったマギーへの哀悼を込めた。もちろん、セコンドやジムのボスとしてではなく、父親のような娘への愛情からだ。富岡の場合は、もっとセクシャルで肉感的な意味合いが強いだろう。ゆき子は念入りに口紅を塗り、手早く化粧を施し、あれこれ着ていく服に悩み、だが、せいいっぱいの笑顔で、男の胸に飛び込んでいく女だ。口紅を塗った唇と、口紅が剥がれた唇のいずれも知っているのが富岡だ。

そんな聖俗を備えたゆき子を高峰秀子以上に演じられる女優が、日本にかぎらず世界を見回しても、はたしているだろうかと思えるのである。もちろん、いるだろう。ただ、私には思い当たらない。

『浮雲』(うきぐも)は、昭和30年(1955年)公開の成瀬巳喜男監督作である。邦画ランキングやオールタイムベストテンでは、小津安二郎の「東京物語」や溝口健二の「祇園の姉妹」などと並び、必ず上位に入る日本映画史上の名作・傑作といわれている。

たぶん、成瀬巳喜男は林芙美子原作を読み、不倫をとおした恋愛映画としてつくったはずだ。それも腐れ縁をひきずる中年男ともはや若くはない女に焦点を合わせて。映画の半分から後は、ぐちぐちいうゆき子とそれをいなしかわしながら、なんとか穏便に別れようとする富岡の会話だけに終始する。もはや、不倫であるがゆえに切迫して昂ぶるようなことはなく、不倫は後景に退いている。しかし、映画の見所は、この半分から後、高峰秀子(ゆき子)と森雅之(富岡)の会話の掛け合いにあり、息づまる演技戦にある。その上で、映画の構図としては、不義密通が重層的に描かれているのに気づくだろう。

戦時中の1943年、農林省のタイピストのゆき子は、当時のフランス領インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)へ渡り、そこで農林省技師の富岡に出会う。妻ある男との恋愛という不義密通が起きるその前に、なぜ二人がそこで出会えたのか。なぜ、日本の男女二人が当時の仏印に滞在したのか。あるいは、手をつないで不倫という障害を飛び越えられたのか。その背景にべつの不義密通の構図を見い出すことは容易なことだ。時代は大日本帝国隆盛のとき、日本軍はフランス領インドシナに「進駐」していた。侵略ではない。

ナチスドイツに敗戦したフランスは親独のビシー政権に代わり、当然、日独伊の枢軸国側に与して、植民地インドシナに日本軍が進駐することを容認した。日本にとっては南方進出(これは侵略)の拠点のひとつであり、フランスにとっては植民地の権益を守るためだった。ゆき子と同様に、1942年から1943年にかけて、原作者林芙美子は陸軍報道部報道班員の一人としてシンガポール・ジャワ・ボルネオに滞在した、原作小説「浮雲」は林芙美子の戦争協力と、自身が現地で起こした不倫事件を含めた体験が下敷きになっているといわれる。

戦後、落魄した身を木賃アパートに置く富岡を訪ねてきたゆき子に、「ぼくらのロマンスも敗戦で終わったのさ」(終戦と云ったか、敗戦と云ったか、うろ覚え)と富岡は云う。アジア解放を謳いながらフランス植民地インドシナを守るために進駐した大日本帝国の政略と、かつてはその大日本帝国のアジア解放の大義を信じ、南方進出のお先棒を担ぎながら、敗戦後は暮らしに追われるまま、その口を拭っている富岡。かつて信じたことを裏切り、いま裏切ったことを信じない、それはそのまま、富岡のゆき子への愛と重なる。

不義にして富み且つ貴きは浮雲の如し(論語)

もちろん、そんな構図など、成瀬巳喜男の眼中になかったろう。構図など意識しなくとも、同時代であり、記憶ですらなかったのかもしれない。

浮雲のように、ふわふわとうつろいやすくたよりない、男女の性愛をとおして(ベッドシーンどころか抱擁シーンすらめったにないが、性愛をイメージさせるゆき子の仕草や小道具はふんだんに登場する。旅館で着込んだ滑稽などてら姿のゆき子が可愛い)、

花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき(林芙美子)

いのち、女のいのち、そのものを、儚さを、愛惜を込めて描き切りたかったのだろう。

眼を奪われるのは、昭和の風物だ。車が通るなら一車線がやっとの未舗装の道々に立つ木の電信柱。厚くペンキが塗られた郵便ポスト。障子紙を貼って目隠しした木賃アパートのガラス窓。旅館のどてら姿と火鉢。男はソフト帽をかぶり、女は着物姿が少なくない。もちろん、ゆき子と富岡の成瀬巳喜男の時代を私は生きたわけではない。しかし、今は失われた懐かしい昭和の風景が映されているとわかる。直接には知らないはずなのに、記憶とは不思議なものだ。

(敬称略)

週末はレバニラ炒めを

2014-09-11 23:20:00 | レンタルDVD映画



昨夜、CATVのチャンネルNEKOで園子温の「地獄でなぜ悪い」を放映していた。期待せずに観はじめて、ついに最後までつきあった。うん、わるくなかった。いや、よかったかも。むしろ、すばらしかった、といって過言ではないだろう。歯切れが悪い? だってさ、あらすじが紹介できないほど、でたらめな作品なんだから。あらすじが成立しない。つまり、荒唐無稽がテーマといえばテーマ。

観るべきポイントは、まず日本のお父さん俳優になりつつある國村隼の怪演。クリストフ・ヴァルツを「オーストリアの國村隼」と呼んできたが、國村隼を「日本のクリストフ・ヴァルツ」と称さねばならなくなってきたかと最近の彼には落胆していた。それは杞憂であったようで、「日本のタランティーノ」園子温のおかげで、かつての饒舌でスタイリッシュで非リアリな國村隼が帰ってきた。

タランティーノにつらなるのは、園子温ではなくて「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」を撮った三池崇史だろうという声が多いだろうが、「地獄でなぜ悪い」は明らかに、タランティーノ脚本の「フロム・ダスク・ティル・ドーン」を想いださせる。

そして、園子温とタランティーノが本質的に似かよっているのは、その daily conversation の頭が足らん感なのだ。この二人は、そのまま土方のおっさんやトラック運転手、焼き肉屋の店員、キャバクラのおねえちゃん、などと話せるのである。よい意味で、というのも変だが、一見してみれば、頭が足りなそうだし、その作品を凝視しても、やはり頭が足りないと思えるのだ。映像に頭が足りない爽快感が横溢している。「そんな考え込まずに、思い込まずに、観たまんまを楽しめよ、映画なんて、そんなもんだろ?」というニヤニヤ笑いを作品にしているのだ。

次のポイントは、よおく観なさいよ。二階堂ふみの腰のくびれだ。日本の女優というより、日本の女に腰がくびれたのは少ない。いい女というのは、この際だから教えておくが、腰がくびれて、足首がキュッと締まって、口角のクィッと上がっている女だ。なかでも腰のくびれは稀少である。ま、知ってる人は知っているが。

タランティーノ作品のほとんどが、「映画の映画」であり、「映画へのオマージュ」をテーマとしているように、「地獄でなぜ悪い」も「映画のための映画」である。いま、(映画のための)と打ち込んだら、打ち損ねて、<映画炒め>と出た。これは合縁奇縁かも。メタ映画とか、オマージュとか、気取ることはない。ようするに、「映画炒め」なのだ、「地獄でなぜ悪い」も。ヤクザの殴り込みをそのまま映画に撮ろうというんだから。

監督と撮影スタッフは、8ミリ映画を自主制作してきたアマチュア仲間。高校時代から10年たっても、ビデオカメラに機材を変えただけで、「平成のブルース・リー」主演のアクション映画をつくることを夢見ている。ほら、どの映画を「映画炒め」したか、もうわかったね。「桐島、部活やめるってよ」の映画部こそ、「地獄でなぜ悪い」のファック・ボンバーズなんだよ。神木隆之介君の10年後、28歳を長谷川博己が演っているわけだ。

「桐島」がゾンビ、「地獄」がブルース・リーという世代の違いはあれど、明らかに見立て、返歌、変奏である。日本では、オマージュなんて気恥ずかしい野暮な言葉は使わないのだ。オマージュなんてソバージュくらいが似合いだな。あとね、最後に警察が出動するのは、ただのお約束だからね。刺身のつまの大根の千切り。とにかく観てよ。元気が出るよお。こんなでたらめな映画は日本でなきゃできないって優越感にひたれるぜ。いまのところ、今年のベスト1だ。最近は、あまり映画を観てないんだが。

(敬称略)