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コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

愛の嵐 1

2016-05-11 11:16:00 | レンタルDVD映画
CATVで放映されていた「愛の嵐」を観た。「ベニスに死す」「地獄に堕ちた勇者ども」などと並び、「愛とエロス」の芸術映画として名高い作品だが、初めて。ついでにいえば、「ベニスに」と「地獄に」も未見。耽美主義的な「芸術」映画は性に合わない。

映画は時代の表現だから、たいていの名作や傑作、あるいは先鋭的な問題作でも、昔の映画に感心することはごく少ないもの。が、この「愛の嵐」はいまでもかなりの問題作だと思った。問題視されるだろうと問題を抱えているという二重の意味で。

映画の舞台は1957年(昭和32)のウィーン。映画の製作年は1973年(昭和48)。米伊合作のイタリア映画でリリアーナ・カヴァーニなる女性監督作品。公開当時、ナチスを賛美していると欧米では上映禁止運動が起きたそうだ。

簡単にあらすじにふれると、第二次世界大戦から13年後、強制収容所の生存者ルチア(シャーロット・ランブリング)は、彼女を虐待したした男(ダーク・ボガード)と再び出会い、かつてのサドマゾ関係に堕ちていくという話。

戦時中、ナチス親衛隊将校だった男マクシミリアン(マックス)は、ウィーンの二流ホテルで夜間のフロント係になっていた。ルチアは著名なオペラ指揮者の裕福な夫人として投宿したホテルで、二人は再会する。

この映画を語るとき、かならず言及される有名なシーンがある。この映画が露呈し、孕む問題のほとんどをこのマックスの回想シーンに見出すことができる。

強制収容所を管理する親衛隊の将校クラブ。ユダヤ人少女ルチアは親衛隊の将校帽をかぶり、上半身裸にサスペンダー、粗末でだぶだぶのズボンに裸足、なのに貴婦人のようにひじ上まで覆う黒手袋をつけ、男たちの間を気怠く歌い踊っていく。

Danny A Kaysi The Night Porter Film 1974- Marlene Dietrich wenn ich mir was wunschen durfte


ルチアが歌う歌は、マレーネ・デートリッヒの「望みは何かと訊かれたら」(Marlene Dietrich - Wenn Ich Mir Was Wünschen Dürfte)

(敬称略)


今夜はヒロシとニーナです

2016-03-20 17:15:00 | レンタルDVD映画


ビデオレンタル新作の『コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)』を観ました。

監督はイギリスのガイ・リッチー。といえば、平成12年(2000)、10歳も年上だった当時42歳のマドンナと結婚したことで一躍有名になった人。有名人大好きの売名野郎でマドンナの金目当ての二流映画監督だろうどうせと踏んだのですが、ところがどっこい。ロック、ストック & ;トゥー・スモーキング・バレルズ Lock, Stock and Two Smoking Barrels (1998) とスナッチ Snatch (2000) を観たら、これはこれはの傑物でした。

この2作品であのジェイソン・ステイサムを売り出し、スナッチに客演したブラッド・ピットの可笑しさときたら、彼の代表作の一つにしたいくらいでした。

今回、はじめてガイ・リッチーのウィキペディアを読んだら、「映画オタク」なのは作品からわかっていたものの、異色の出自と経歴に驚いた。こんな人物と結婚するマドンナは、やはり只者ではなかったのだなと納得しました。

ガイ・リッチーは、その後も、ロバート・ダウニーJrとジュード・ロウの魅力をさらに引き出したシャーロック・ホームズ Sherlock Holmesをヒットシリーズに育て上げ、往年の人気TVドラマ「ナポレオン・ソロ」をリメイクした、この『コードネーム U.N.C.L.E.』に起用されたわけです。

米ソ冷戦下の60年代が舞台です。68年生まれのガイ・リッチーには19世紀のシャーロック・ホームズほどではなくとも、同時代性はないはずですが、やはり自由闊達な作品になっています。テリー・ギリアムの「未来世紀ブラジル」を挙げるまでもなく、近未来SFはたいてい息苦しいディストピアになるのに、ガイ・リッチーのように過去に題材をとると奔放に描けるのはどうしてなのか。たいていの過去も未来と同じくじつは未知とはいえ、未来に閉塞し、過去に跳躍する想像力も映画の謎のひとつです。ともかく、カンヌや米アカデミー賞には関係しないが、いまもっとも楽しい映画を撮ってくれる監督の一人です。

今夜は、同映画の挿入歌を2曲。

Peppino Gagliardi - Che vuole questa musica stasera (1967)


The Man from U.N.C.L.E. - Feeling Good by Nina Simone (Official Trailer Music 2)

(敬称略)

映画バードマン

2016-01-03 14:08:00 | レンタルDVD映画


バードマン」の主人公リーガンは、酷評されれば公演が打ち切りになるほどの影響力を持つ劇評家のタビサに、「俺はこの芝居に命を懸けている。ひきかえ、あんたはリスクを負わない!」と食ってかかる。

発音もタイプするのもめんどうな、イニャリトゥという名前の映画監督と相性がよくないことは、以前に「バベル」で述べている。今回、読み返してみて、「何もそこまで」というほど貶していた。本人が読む恐れがなければ言いたい放題、匿名と言語の壁にあぐらをかいているように思えていささか反省した。

柄にもなく反省したのは、もちろん、「バードマン」が傑作だったからだ。リーガンの後ろに控えながら、ときに傍らを歩き、あるいは追い抜いて振り返り、ぶれずになめらかに移動する一人称のカメラワークはほとんど心地よいほどだ。高名な純文学作家レイモンド・カーヴァー原作のやおい短編小説の舞台化にすったもんだする製作側の内幕をわかりやすく構成した脚本も特筆ものだ。

そう、わかりやすい映画なのだ。なのに、内面の葛藤と幻想がからむ、高尚めかした芸術映画なのか、という不安を観客に抱かせる売り方には問題がある。 まず、『バードマン 無知がもたらす予期せぬ奇跡』なる文芸めいた副題はよけいだろう。派手なビジュアルで訴求したかったのはわかるにしろ、ヒーロー映画「バードマン」のCG場面を使った予告編も、あらすじを読めばすぐに「夢落ち」とわかるので、観る前に興ざめする。観たときには何の意外性もなくてがっかりした。

ちっとも難しくはなく、内面を扱った辛気くさい映画でもない。主人公リーガンは、劇評家のタビサに、「あんたの文章は批評なんかじゃない。ただ、次々にラベルを貼っているだけだ」と罵るが、芸術や芸術家、映画スターやセレブというラベルの周辺で右往左往する人間を描いた「ブラックコメディ」なのだ。コメディ劇として笑えるところはひとつもなかったが。

リーガン・トムソンにはじゅうぶん感情移入できた。かつては「バードマン」なるヒーロー映画でハリウッドの大スター、いまは落ち目の初老の俳優がブロードウェイに「無謀な挑戦」をするストーリーは、私たち観客の日常生活とはほとんど無縁にもかかわらず、没入できた。なぜだろうか?

もちろん、映画づくりが巧みだからだが、ヒーロー映画の「無謀な挑戦」という道具立てとヒーローならざる「覆面の中の人」については、観客にもおなじみなことだからだ。荒唐無稽な筋立てや道具立て、その演出や演技、俳優のゴシップ情報などを込みで批評的に楽しむことをヒーロー映画は暗黙のルールとしている。そうした観客の批評性を拡大・拡散したのが、「バードマン」でも言及されているネットなのだ。

一見、演劇界を風刺した内幕ものにみえるが、正味は、ヒーロー映画における「覆面の中の人」の内幕を描いたものだ。落ち目の映画スターが再起しようとあがく内面を扱った人間ドラマにみえて、じつは内面の虚実を描こうとしている。「バードマン」はリーガンのもうひとつの自我なのだが、それだけにとどまらない。

リーガンにとって、まとわりつく「バードマン」は映画の夢そのものなのである。鳥のように空を飛ぶことは演劇には難しいが映画ならたやすくできる。暗くて狭い劇場の楽屋や舞台、猥雑なブロードウェイの街角から、バードマンのように青空へ飛翔する夢想は、リーガンの映画への憧憬そのものだ。

つまり、60歳を過ぎた舞台デビューという「無謀な挑戦」をヒーロー映画の「バードマン」に重ねているが、ヒーローならざるリーガンの自己顕示欲から出たものに過ぎない。それをドラック中毒のリハビリ中の情緒不安定な娘サムや共演する名優のマイク(エドワード・ノートン)から喝破されて、リーガンは押し黙る。

「バードマン」に主題を見出すとすれば、演ずるということかもしれない。俳優にかぎらず、私たちも日常的に何かを誰かを演じていて、演ずることを避けることはできない。「ありのまま」の自分ですら、露出するにはリーガンのように決意と勇気を必要とするではないか。

ただし、プロフェッショナルな演技者であり、演技することに追い詰められているリーガンは、「誰でも演じている」とのんきに構えているわけにはいかない。混乱する一方の現実に対し、虚構はどんどん勢いづいている。すべてを幻覚や幻聴だと抗い、正気を保とうとするリーガンは、ついに実弾入りの拳銃を舞台に持ち込む。リーガンにとって、「命がけ」が現実への足掛かりになっているのだ。

事故で怪我をして降板する準主役と、ブロードウェイの街角でひとり何かのセリフを怒鳴っている売れない俳優の口から、同じ言葉がリーガンに発せられる。「やりすぎてちょっと大仰だったかな? 演技の幅を見せたくて」と。リーガンは前者の準主役に対して、(このクソが!)と心中に罵り、後者は不快げに無視して立ち去る。命に長短はあれど幅はない。できることよりできないことが大切なのだ、そうリーガンがわかりはじめている場面だろう。

素人目には、二人ともそう下手な演技にはみえず、リーガンが圧倒されるほどマイクの演技が凄いとも思えないのだが、繰り返される舞台の同じ場面から、リーガンの演技が変わっていくことはわかる。それは「演技の幅」やバリエーションなどではなく、切羽つまったあげくに、ほとんど藁をつかむように演じられたものだ。にもかかわらず、観客にはウケ、酷評されるはずの舞台は予想外の好評を博す。だが、そこにリーガンはいない。

これでめでたしで終わるかと思うとけっこう引っ張るのだが、最後の場面は特殊メイクではなく、マイケル・キートンとは別人ではないかと思った。いずれにしろ、そこにいるのは顔が売れていない、ただの初老の男に過ぎない。成功も失敗もなく、そして人生は続いていく、というわけだ。上映時間2時間。少しも飽きずに、リーガン・トムソンの人生の一場面につきあうことができた。イニャリトゥ監督、見損なっていてすまなかった。

さて、映画ファンなら、頻出する有名映画スターの名前やその寸評から、映画業界や同じ俳優仲間から、彼や彼女がどう見られ、受け止められているかをうかがい知ることができて、なかなか楽しい。

たとえば、主人公リーガンが、「俺の才能の半分もないくせに、ブリキを着て人気を博している」と内面の声を聴く。これは「アイアンマン」のロバート・ダウニー・JR に間違いなく、リーガンの言葉とは裏腹に彼の驚くべき才能に対して、いかに業界人の敬意が払われているかを示すセリフだろう。速射砲のように喋りまくる小男のヒーローなんて、以前ならありえなかったのだから。

一方、ジョージ・クルーニーについては、「あの男らしい顎」とだけ。それだけかと拍子抜けしたが、やがて、それだけかもと納得させて可笑しかった。メグ・ライアンについては辛辣で、さぞかし彼女は怒っただろうが、たしかに、スター意識の強そうなジョージ・クルーニーやメグ・ライアンは演技重視のイニャリトゥ映画は似合わず、出演しそうもない。この「バードマン」でも、登場人物とその俳優のキャリアが重ねられていることがわかる。

イニャリトゥ映画は、「バベル」で指摘したように現場のドキュメンタリズムを欠いているのではなく、俳優のキャリアというドキュメンタリ性はすでに組み込まれているのだ。ナオミ・ワッツは「マルホランド・ドライブ」の売れない女優を再演しているし、マイケル・キーンはリーガン・トムソンとたぶん同じく、1989年の「バットマン」の主演してから25年、再起を図る落ち目のスター俳優「だった」。

映画の配役そのままに、代表作ができたマイケル・キーンとさらに輝かしいキャリアを積み上げたエドワード・ノートンにおめでとうをいいたい。イニャリトゥ映画の次の主演は、ロバート・ダウニー・JR かもしれない。

(敬称略)







セッション その1

2015-09-22 01:41:00 | レンタルDVD映画
久しぶりに大六のTUTAYAへ。「おお」「これは」というのはなかったが、手ぶらで帰りたくなくてみつくろったなかの一本が、「セッション」。これは公開前から話題になったので知っていた。



ジャズ批評家で演奏家でもある菊地成孔氏が、「このクソ映画め!」と16,000字に及ぶ酷評を映画公開前にブログに掲載したところ、これに映画評論家の町山智宏氏が、「公開を潰す気か!」とやはりブログで噛みつき、論争になったので記憶していたのだ(御用とお急ぎでない方は、こちらへ)。

私の印象では、菊池氏が「ジャズ愛」を町山氏が「映画愛」を迸らせて痛み分け。菊池氏に分があるところもあったが、町山氏が菊池文への読解不足を潔く認め謝ったために、両者とも読者に株を上げた格好で、珍しく後味のわるくない応酬だった。

菊池氏が、これは映画ではなく、(荒唐無稽な)「マンガ」である! と罵るや、すぐさまマンガファンから、「マンガをバカにするな!」と批判が殺到し、「マンガファンの皆様、ごめんなさい」と謝ったのも微笑ましかった。

さて、観終わって、菊池氏が批判した、「音楽愛がない」と「この映画の音楽教育とジャズは無縁」に同意同感した。町山氏の反論として、菊池氏の批判点のほとんどは監督が意図したところ、には肯くが、ラストで音楽による昇華があった、には不同意だった。

アメリカの音楽教育機関の最高峰とされるシェーファー音楽院のフレッチャー教授(J・K・シモンズ 名演!)は、チャーリー・パーカーが演奏でヘマをしたとき、ドラムスのジョー・ジョーンズがシンバルを投げたというエピソードを度々紹介して、「もし、ジョー・ジョーンズがグッジョブ(上出来 or 気にするな)と流していたら、後のバードは生まれなかった。それこそ、私からいわせれば、究極の悲劇だ」と自らの苛烈な指導を正当化する。甘い顔をするから、ジャズは死んでしまった。米語でもっとも身の毛のよだつ(horrible)言葉は、”Good job!”だと嘆くのだ。

フレッチャー教授はいわゆる鬼軍曹役。スタンリー・キューブリック監督の「フルメタル・ジャケット」のハートマン軍曹や「愛と青春の旅立ち」でリチャード・ギアをいじめ抜くフォーリ-軍曹が、罵倒で新兵を震え上がらせ、誹謗中傷によって人間的な感受性を鈍磨させ、かわりに兵士の闘争心と入れ替えるように、フレッチャー教授もパワハラを駆使して、若きジャズマンの卵たちの演奏と人格を支配しようとする。戦場や軍隊なら、一人前の兵士になることが生き残る道であり、なにより戦争に勝利する手段といえるが、フレッチャー教授のその先は違う。

つぎのサッチモやチャーリー・パーカーを育てたいと夢見るように語りながら、ニーマンから「つぎのチャーリー・パーカーを挫折させているのでは?」と問い返されると、「天才は何があっても挫折しない」と教授は嘯くのだ。じっさいにはサディスティックな支配が目的であり、若き才能を潰すために情熱を傾けているとしか思えない。

ショーン・コネリーがサリンジャーとおぼしき伝説の隠遁小説家を演じた「小説家を見つけたら」にも、天才的な小説の才能を示す高校生を盗作疑惑で葬り去ろうとしたクロフォード教授(F・マーリー・エイブラハム)と同列の人物像といえる。

芸術家になり損ねて教育者になった鬱屈を晴らしたいがために、人一倍の努力を重ねて、ほとんど一流の教育者になりながら、重大な欠陥を抱えていて、若き才能を自殺に追い込むほど抑圧的に振る舞わずにはいられない。そんな教師像に、アメリカ人はよほど心当たりが多いのだろうか? 

日本映画ではこういう教師像はほとんど見当たらない。わけもなく意地悪だったりして、主人公の足を引っ張る教師は登場するが、二流三流の教師としてはじめから小者に扱われ、健気に努力する主人公を潰すほどの悪役にはならない。むしろ、日本映画お得意の「修行映画」の教師役である師匠や先輩たちは、未熟な上にやる気にも乏しい主人公をときに叱咤しつつも、たいていは優しく見守り世話を焼く母親役だ。

素人向けの落語教室の生徒になる人たちを描いた「しゃべれどもしゃべれども」や地味な辞書の編纂の仕事を扱った「舟を編む」、最近のコミカルに林業現場を案内する「WOOD JOB!~神去なあなあ日常~」などの佳作にみられるように、師匠や兄弟子といっしょに働きながら学ぶ、日本の「修行映画」にハズレはあまりない。

音楽教育のフレッチャー教授や文学教育のクロフォード教授があるいは厳父的な師なのかといえば、それとも違う気がする。「小説家を見つけたら」では、天才的作家性をもつ高校生の師は、ショーン・コネリー演ずる偏屈な伝説的作家としてべつにいるのだ。フレッチャーやクロフォードが新兵教育のハートマン軍曹やフォーリ-軍曹と選ぶところない残酷な人物像として描かれるのは、教育機関という名の圧殺装置の擬人化なのかもしれない。

アメリカの自主性を重んじた自由な教育とは、ハイスクールまでの初中等教育に限られるようだ。プロを養成するロースクールやビジネススクールなどの大学院、この映画の音楽院など高等教育機関では、奇形的なほど権威主義な教授によるパワハラな教育指導が横行している。事実はともかく、そうした抑圧的な存在として少なからぬ映画作品では描かれてきた。

アメリカの本家であるイギリスでも、英文学を生み出した功績の第一は名門パブリックスクールにあり、というブラックなジョークがある。卒業生の多くをオックスブリッジに進学させ、イギリスの指導層や知識人層を育ててきたパブリックスクールは、名門の師弟に質実剛健な寮生活をおくらせ、級友や上級生と勉学やスポーツを通じて切磋琢磨させるエリート教育のモデルとして知られる。多くの英作家を輩出してきたが、その代表的な文学作品の多くが、パブリックスクールへの呪詛に満ちているからだ。

換言すれば、抑圧的な教育機関であればこそ、映画の悪役として存在感を示し、文学少年には呪詛の対象として畏怖されるわけで、そうしたサドマゾゲームとして互いの合意の上に成り立っているとも考えられる。学生にとってはゲームの賞品は成功者になることであり、教授にとっては偉大な芸術家や世界的なエリートを育成するのが使命であり、天才を育てるのが究極の夢になるわけだ。はじめフレッチャー教授から目をかけられたと舞い上がったニーマンは恋人に、「練習のジャマになる」と冷酷に別れを告げるミニ・フレッチャーにすぐさまなるのだ。(この項続く)

(敬称略)

韓国に過ぎたるものあり

2015-01-27 00:35:00 | レンタルDVD映画


LUCY ルーシー」を観た。
映画をコミック化するいつものリュック・ベンソン節だが、今回はナショジオ風人類進化史をコラージュして新味を出しているのね。愉快痛快だったのは、当ブログご贔屓チェ・ミンシュクのコリアンマフィアボス。スカーレット・ヨハンソン、モーガン・フリーマンを圧倒して、登場するや場面をぜんぶさらっていた。さすが、当代屈指の悪役俳優。朗々たるセリフ回しで鳴るモーガン・フリーマンを向こうに回し、負けない野太い声がいいやね。おまけに、上海、パリ、ボストンとスカヨハを追って転戦しながら、韓国語以外の言葉は一言も口にしない。たぶん、「愛国者」チェ・ミンシュクが、「韓国人役を演じるのだから当然スミダ」とつっぱったせいだろう。そうに決まってる。たしかに、あの胴間声に似合うのは韓国語しかないよな。もうね、次回「バットマン」シリーズの悪役は、チェ・ミンシュクに決まり。全編、韓国語でバットマンを怒鳴り恫喝する韓国財閥当主にしてタヌキ大王。それじゃ、ジブリか。



(敬称略)