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コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

ダニエルも恐い

2013-12-01 23:10:00 | レンタルDVD映画
先に、アジア最凶俳優の筆頭に韓国のチェ・ミンシュクを上げました。筆頭にしたのは早過ぎました。チェ・ミンシュクに勝るとも劣らない逸材が、オーストラリアから出たからです。「Snowtown(2011) 」のダニエル・ヘンシュオール(Daniel Henshall)です。TUTAYAの準新作コーナーにあります。

11人のホモセクシャルや少年愛者を拷問して殺した、殺人グループの実話に基づいた作品です。主犯のジョン(ダニエル・ヘンシュオール)は、彼らを「子どもを狙うクズ」「殺してしまえ」としますが、小学校の校庭で遊ぶ子どもらを眺めながら、ポケットに突っ込んだ手で自慰したりするような、被害者のほとんどは無害で弱々しい性的マイノリティに過ぎなかったようです。

ジョンを絶対的なリーダーとする、4人のホモ狩りグループは、周辺に女性や女装した中年の「オカマ」をも抱えた、疑似家族共同体をつくっています。貧乏白人ながら、家を持ち、家庭があり、半端仕事をしているか、政府の援助で暮らしている下層階級です。単独犯や相棒と犯行を繰り返す、いわゆる連続殺人鬼(シリアルキラー)とはかなり違います。

色白ポッチャリのダニエル・ヘンシュオール

ホモフォビアによるヘイトクライムかといえば、ジョンを除けば、なんとか識字能力がある程度、レイシストといえるほどの知性もなさそうです。だらしなくソファに足を投げ出して座り、くだらぬTV番組を観るくらいしか、時間つぶしを知りません。ジョンにしても政治的、文化的な言説の持ち合わせなどなく、威圧的に注視して黙らせるだけです。

この見つめるジョンが恐い。怒鳴ったり、怒った表情すらほとんど見せず、顧客に保険の説明をはじめようとするセールスマンのように、いつもにこやかで紳士的です。女性や子どもには優しく接し、冗談や悪戯好きで快活に笑い、誰からも好かれます。ただ、ハンサムといえる顔に強く光る黒い瞳が、ひたと注がれるとき、ほとんど瞬きしません。静かに強く見つめます。

犯行グループの男たちだけで過ごしているときは、ホモジーニアスなホモ集団のようにも見えます。それを象徴するような食事シーンが頻繁に挿入されます。狩りを始める前、狩りを終えた後、狩りと狩りの間、自宅で安食堂で、彼らはよく食事をともにします。ポテト、ニンジン、グリーンピースを付け合わせに、グレービーソースがけの肉といったワンプレートディナーです。

誰もが黙々と、ナイフとフォークと口を動かしています。味を楽しむというより空腹を満たす食事です。ときおり誰かれに向けた手短な言葉を挟みながら、手際よく切り分けて口へ運び、手早く咀嚼して呑み込むジョンの様子が、途中から拷問して悶死に至るまでの手順をなぞっているように思えてきます。あるいはジョンが噛み唾液にくるみ舌に載せているのは、じつは人肉ではないかと。

もちろん、そんなことはないのですが、ジョンにとっては、「変態」である、多様な性癖を持つ、つまり興味関心の幅が広い彼らを、ただの一片の肉に「均質化」すること、それが究極の目的だった。そう思えてきます。年若い新入りを仲間にしたとき、ジョンはいっしょにバリカンを使い坊主刈りになって、屈託なく笑い合います。差別集団というより原初的で、種族的に思えます。

人間はたやすく暴力に屈する。行使される者だけではなく、行使する者にとっても、それは同じことではないかとだんだんに思えてきます。ジョンたちは、仕事のように、兵士のように、仲間の「オカマ」から町に住むホモたちの住所を聞き出し、狩りの計画を立て、誘い出し、重い道具の入ったバッグを用意し、待ち構え、隠蔽工作のために録音します。

衝動的ではなく、怒りに高ぶるのでも、悦びに震えるのでもなく、男たちは淡々と手順に従い暴力を進行させていきます。暴力に淫するところはなく、職人が仕事をするように、兵士が行軍するように、日々の中心を占めています。狩りをしていないときは、ただ狩りと狩りの間なのです。

ヘイトクライムやシリアルキラーといった分類には落とし込めず、かといって、前近代的な捕食本能に帰することもできない。社会的というなら家族的、個人的というなら共同体的、病的というなら実務的、そんな名付けようのない殺人と冷酷の記録です。それを主導した不可解な人物を、けっして戯画化されない悪を、好男子ジョンを、ダニエル・ヘンシュオールは体現しました。

この映画は潔癖なほど、ジョンたちに正当性を与えません。理解は促されるべきという「政治的に正しい」語法をを使いません。「実話に基づく」という限界が、罪と人を分かつとする限定をはずしたのかもしれません。ゴールドコーストとカンガルーの国にも、寒々しい Snowtown があるように、私たちのよき隣人ジョンは、どこにでもありふれた男なのです。

ダニエル・ヘンシュオールに圧倒されて、ほとんど突っ込みどころが見つけられなかったのですが、働きに出る母親が隣近所の男に子守を頼む慣行がよくわかりませんでした。ジョンも子守を快く引き受けて、新入りになる少年と仲良くなるのですが、長男18歳、次男の少年は15歳、その弟は12歳という3兄弟です。

子守を引き受けた男は、母親の代わりに子どもたちに目配りをし、夕食を作って食べさせるのです。上二人は大人と変わりない体格なのに、どうして子守が必要なのか、12歳の末弟にしろ、飯くらいは作れるだろうに。それもどうせ、フライパンで冷凍の野菜を温めて、肉を焼いてソースをかけたくらいの一皿料理なのだから。そこが不思議でなりませんでした。

凶悪」のリリー・フランキーが、チェ・ミンシュクやダニエル・ヘンシュオールの怖さにどこまで迫るのか、期待しています。

(敬称略)

あなたに従います

2013-10-13 04:19:00 | レンタルDVD映画

J・F・ケネディがテキサスで射殺されたときにも乗っていた、排気量8000ccフォード社の高級車「リンカーン」を事務所代わりにするヤクザな弁護士の話です。日本では、リンカーン・コンチネンタルはヤクザ御用達として有名でした。


リンカーン」を観ました。映画がはじまる前に、監督のスティーブン・スピルバーグが述べます。

私の念願の作品「リンカーン」が遂に完成しました。
史上 ”最も愛されたリーダー”の知られざる物語です。
リンカーンの人生には、今の日本と世界中の人々に
知って欲しいメッセージが詰まっています。
国を二分する激しい争いの中で、
情熱的な理想と冷静な知略を持つリーダーが行った
世界の未来を変える決断とは
それでは「リンカーン」をご覧ください。


奴隷解放宣言をして南北戦争を戦い、史上初めて暗殺された大統領の伝記映画、ではありませんでした。あるいは、偉大な大統領の意外な一面を暴いて、正義と不義の間を揺れ動く複雑な人間像を追求した人間ドラマ、でもありません。

この映画のリンカーンは「聖者」です。窓があり、カーテンが揺れ、背の高い男が少年に語りかけている。午後の陽光にシルエットになったリンカーンは、後光が射しているようにみえます。「情熱的な理想と冷静な知略を持つリーダー」とは、人間以上の「聖者」なのです。

「聖者」に導かれたアメリカの歴史教科書的な映画だとすれば、冒頭の南北戦争の戦闘場面の驚くべき残虐さは、教科書的な叙述をはるかに逸脱しています。あるいは、「聖俗」を対置した、キリスト教原理主義国家アメリカらしい歴史叙述なのかもしれません。

それにしても、良識あるインテリ顔をしながら、スピルバーグはじつに残虐描写が巧いというか、血と殺しが好きです。スプラッタやゾンビ映画を撮ったら、さぞや凄い映画ができるでしょう。

日本の山田洋次監督も温和な笑顔が印象的ですが、じつは嘗め回すように女を撮るのが好きです。とくに腰に猥褻視線が向かいます。だが、巧いといえるほど、官能シーンをつくりません。山田洋次がスピルバーグに遙かに及ばないところです。

歴史教科書的な映画というのは、事件や人物の描き方ではなく、そのテーマにあります。この映画の主人公は、リンカーンではありません。主人公をタイトルにするならば、「アメリカ合衆国憲法修正第13条」となります。テーマは、「憲法改正」なのです。

アメリカ合衆国憲法修正第13条
第1節 奴隷制もしくは自発的でない隷属は、アメリカ合衆国内およびその法が及ぶ如何なる場所でも、存在してはならない。


リンカーン大統領が「奴隷解放宣言」をしただけでは、黒人奴隷は解放されません。共和党の合衆国憲法改正案を議会で可決させねばならず、それには、憲法改正に反対する「保守的」な民主党議員を切り崩さなくてはなりません。

民主と共和のリベラルと保守が今日とは逆ですが、共和党の「冷静な知略を持つリーダー」であるリンカーンは、民主党議員に役職を約束して一本釣りをしたり、次の選挙で強力な対抗馬を立てるぞと脅したり、買収こそしませんが、「知略」を尽くして多数派工作します。

「知略」というより「謀略」に近いのは、敗色が濃い南軍政府が、講和の特使を向かわせているのを議会に隠していることです。62万人も戦死している悲惨な戦争を一日も早く終わらせることには、誰もが賛成です。しかし、そのためには、奴隷解放に反対する南部の講和条件に妥協せねばなりません。

日本でなら、とりあえず、憲法改正の議決を延期するでしょう。あるいは、自民党が憲法改正草案をつくりながら、時期尚早と安倍首相が集団的自衛権解釈に傾いているように、漸進的な修正案をまとめるでしょう。

南軍の講和特使が向かっていると議会に知れたら、民主党はもちろん、身内の共和党議員も少なからず、議決の延期に傾くはずです。タイミングを失えば、憲法改正は無期延期となりかねません。そうはさせじと強引に議決に持ち込み、可決してしまうのがリンカーンの企てでした。

合衆国憲法修正第13条を可決するまでのリンカーンと議会との攻防23日を描いたのが、映画「リンカーン」です。その舞台となった大統領執務室や議会の外では、毎日、国民が殺されています。国民の血と命がどんどん失われている傍らで、憲法改正という政治手続きが進められている。

そこでは、「悲惨な戦争を止めるのが先だ」という声は出てきません。政治目的と戦争という手段を転倒させることはありません。「聖俗」どころの話ではありません。



換言すれば、憲法を改正するために、国民の血と命が求められた、捧げられたともいえます。憲法を改正することは、それくらい重大な結果を生じさせることだということです。教科書なら、合衆国憲法が改正された結果、奴隷制が禁止されたとなりますが、それに先立つ南北戦争62万人の死が、すでにして結果なのです。

理想を実現するために、多くの犠牲が伴ったのだともいえません。合衆国憲法修正第13条の可決によって奴隷制は禁止されても、1964年の公民権法可決まで、黒人に対する人種差別制度や政策は続きました。

教科書的映画といえば、小学校や中学校の教科書を思い浮かべますが、「リンカーン」は大学の歴史教科書ではないかと思えます。日本はまだ憲法を変えたことがないので、大学教科書レベルの「憲法改正映画」を観せられても、じつはよくわからないところがあります。安倍自民党の「憲法改正」に反対しているのは、じつは野党ではなく、アメリカという事情もありますからね。

そのアメリカは、シリア空爆を止めたように、血で血を洗う現代の「南北戦争」から手を引こうとしています。そして、オバマケアという、「情熱的な理想」のために、「国を二分」した結果、政府機能を一部停止させても、「冷静な知略」を駆使して戦うリーダーがいます。


自民党も民主党も、「ねじれ国会」による立ち往生から、政権を投げ出す結果となりました。オバマ大統領は、行政機能の一部停止に及ぶ下院共和党の「ねじれ議会」を乗り越え、任期を続けそうです。

オバマがリンカーンを意識していることはよく知られています。リンカーンは南北戦争を終わらせ、オバマはシリア空爆を止めました。オバマケアをめぐる共和党との攻防も、オバマ大統領が勝利を手中にしそうですが、そうなると、リンカーンとの符号が合いすぎる気がしてきます。オバマ大統領の美しい娘が、近々赴任する新駐日米大使と同じく、「悲劇の娘」としてグラビアを飾る姿など見たくないものです。

I Will Follow Him  映画「天使にラブ・ソングを」より


修道女が歌う ”Sister Act (原題) ”ですから”him ”はキリストか神です。したがって、”I will follow him ”は、「彼(あなた)に従います」でしょうか。

I will follow him
Follow him wherever he may go
And near him I always will be
For nothing can keep me away
He is my destiny

I will follow him
Ever since he touched
my heart I knew
There isn't an ocean too deep
A mountain so high it can keep
keep me away

Away from his love

I love him
I love him
I love him
And where he goes
I'll follow
I'll follow
I'll follow

I will follow him.
Follow him where ever he may go
There isn't an ocean too deep
A mountain so high it can keep
keep me away

You did it
You did it

I will follow him
(Follow him)

Follow him where ever he may go
There isn't an ocean too deep
A mountain so high it can keep
keep us away

Away from his love

I love him
I'll follow
True love
(He'll always be my true love)
Forever
(From now until forever)

I love him
I love him
I love him

And where he goes
I'll follow
I'll follow
I'll follow

He'll always be
my true love
my true love
my true love

from now until
forever
forever
forever

There isn't an ocean too deep
A mountain so high it can keep
keep me away

Away from his love ・・・

リッキー・ネルソンも”I Will Follow you ”を歌っていますが、”Sister Act ”の元歌は、ペギー・マーチのラブソングです。こちらのほうが、歌詞としても歌としても、私は好きです。しかし、彼女はなぜ、バスの運転手がするような白手袋をはめて歌っているのでしょうか?

Little peggy march (1963 original Live) - I will follow him


おまけです。

Andre Rieu - I Will Follow Him


(敬称略)

埼京線にこの人が乗ってきたら恐い

2013-09-18 02:38:00 | レンタルDVD映画
アジア最高の男優は誰かといえば、香港のジャッキー・チェンをはじめ、台湾、韓国、中国、タイ、インド、イランなど、いろいろな国の個性豊かな男優の名が上がるでしょう。日本なら、ハリウッド映画出演の多さから、渡辺謙、真田広之あたりが代表的な男優ということになるでしょう。

しかし、私見ですが、東アジアはもちろん、アジアのみならず、世界の映画俳優のなかでも、突出した個性派俳優が韓国にいます。最高は論議が分かれるでしょうが、最凶もしくは最恐は彼でしょう。韓国のチェ・ミンシク(崔岷植)です。



はじめて彼を知ったのは、「オールドボーイ」(2003年)」でした。カンヌ映画祭で上映されるや、クエンティン・タランティーノ審査委員長が絶賛し、審査員特別グランプリを受賞しました。

たしかブラッド・ピッドがアメリカでのリメイク権を買い取ったと報じられましたが、その後音沙汰を聞きません。リメイク権を放置するのは賢明なことで、「オールドボーイ」は、チェ・ミンシクの異様な存在感を抜きには成り立たない映画です。

先日、チェ・ミンシクの最近作、「悪魔を見た」(2010年)を観ました。これまでに覚えている限りの男優の顔や名前を思い浮かべては考えた後、チェ・ミンシクを最凶もしくは最恐の項目の筆頭に上げることにしました。この人の恐さに比肩する人はいまのところ思い当たりません。

異様な存在感といえば、「ポンヌフの恋人」(1999) のドニ・ラヴァンや「白昼の通り魔」(1966)の佐藤慶などを思い出します。ただし、ドニ・ラヴァンのパンク顔や矮躯、若き日の佐藤慶の蛇目や冷笑唇といった、容姿のアドバンテージはチェ・ミンシクにはありません。

チェ・ミンシクは上の写真をご覧の通り、小太りでドングリ眼のタヌキ顔という平凡な容姿に過ぎません。


ドニ・ラヴァン


佐藤慶

にもかかわらず、あるいは、だからこそ、唐突に、恣意に、殺人を繰り返すギョンチョルに圧倒されます。卑小な中年男が冷酷な捕食者へ変貌する、その瞬間をほとんど眼光と太い声だけで表現します。異様から異形の眼へ、人間から人間以前の声に、チェ・ミンシクは自在に変わります。

異様な人物像の造形に成功した例としては、最近では「ザ・マスター」のフレディ・クエル(ホアキン・フェニックス)に感心しました。ただし、フレディには難解な精神病理がつきまといますが、ギョンチョルはわずかにも「キチガイ」ではありません。



また、ホアキン・フェニックスの憑依的な熱演だけでなく、やはりメークアップやライティングのおかげで、かなり助けられていると思えます。こんな人間は見たことがないという意味でフレディは神に近く、じつは使徒であるフレディこそが教祖にとって教祖なのではと思わせ、実際に教祖になるのではないかと含意を込めて映画は終わります。

チェ・ミンシクのギョンチョルには、フレディのような存在論的な苦悩はもちろん、一瞬の屈託すらないかのようです。ただただ悪行に駆り立てられています。フレディの悶え苦しむ瞳には自己憐憫の色がさしますが、ギョンチョルの黒い瞳はときおり憂愁を湛えても、そうした自らへ向かう感情はありません。

いやはや、こんな風にああでもないこうでもないと消去法を重ねて、いくらチェ・ミンシクは凄い凄いといっていても、らちがあきません。

チェ・ミンシクの「悪魔を見た」を観る前に、注意点をひとつだけ上げて、もう終わりにしましょう。できれば、この映画を観るのは避けるべきです。チェ・ミンシクという俳優を知ることは危険です。たかが、映画となめてはいけません。恐れるべき映画などありませんが、恐るべき俳優はいるのです。

もしかすると、あなたは韓国や韓国民に対する差別感情を呼び起こされるかもしれません。 多少なりとも韓国や韓国民を嫌悪する感情があると自覚する人は、けっして観るべきではありません。作り物の映画で俳優が仕事で演じているだけなのに、韓国男はこんな風に残虐で悪魔的なのだ、そんな恐怖感を抱く恐れがあります。映画と現実の見境がなくなるのです。

それほどにチェ・ミンシクは凄いのです(やっぱり、凄いに戻ってしまったか)。

「オールドボーイ」の成功以来、チェ・ミンシクには、ハリウッドをはじめ世界の映画界からオファーが殺到したはずです。しかし、渡辺謙や真田広之、浅野忠信のように、彼は国際俳優を目ざしませんでした。三國連太郎がそうしなかったように。

それどころか、チェ・ミンシクは日本の記者の竹島質問に一喝を浴びせたり、「韓流」に加わるのも拒否したようです。その意地と意気やよし!です。私がプロデューサーや監督なら、三拝九拝してもチェ・ミンシクに出演を請うがなあ。

(敬称略)

珍しいものを見た

2013-09-07 15:17:00 | レンタルDVD映画
町工場のオヤジが引退した。72歳。ふつうは家族や社員くらいしか知ることのない、いや周囲の人々ですら、これほどまとめてオヤジの口から引退の弁を聴く機会はなかっただろう。私は町工場が集積した大田区蒲田で小学生時代を過ごしたので、町工場と町工場のオヤジや工員たちは昔なじみである。町工場のオヤジは、たいていこんな人だった。

かあちゃんの弁当を持って家を出て、日がな一日、暗い工場の蛍光灯の下で仕事をして、土日も休まない。新聞は読みラジオは聴くけれど、暇がないから映画やTVドラマは観たことがなく、むずかしい工作やちょっとした工夫が巧くいったときだけが楽しみ。そんな町工場の職人的なオヤジの地味な引退の挨拶が、朝日新聞の3面のすべてを占めて報じられ、世界を駆け巡った。

宮崎駿監督「公式引退の辞」全文
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1309/06/news063.html

宮崎監督引退会見ライブ(1~7)「今回は本気です」
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130906/ent13090614240011-n1.htm



「公式引退の辞」には参った。誰が読んでもわかる文章である。だが、めったに読める文章ではない。Karaさんからレーガン大統領が「グレート・コミュニケーター」と呼ばれていたと教えられたのを思い出した。たぶん、(レーガン大統領にはこれといった知性や教養はないだろう)(がしかし)という逆接を前提に、彼は国民大多数の心に言葉を届ける才能と技術に優れていたと私は理解した。宮崎駿の場合、レーガン大統領とはその前提が違うはずだ。たぶん、(宮崎駿の知性と教養を疑う人はいないだろう)(にもかかわらず)という逆説を前提に、彼は世界の少年少女だけでなく、大人たちの心にも「勇気と優しさ」のイメージを届ける才能と技術に優れていたと。

私自身は、宮崎駿やジブリファンではない。「風の谷のナウシカ」と「となりのトトロ」しかみていないから、観客ですらない。しかし、「風の谷のナウシカ」には心底びっくりした。作品にではなく、Kにだった。アニメ嫌いの私をこの映画に強引に誘ったのは、一回り年下のKという男だった。Kは、食い詰めて私の所属する会社の事務所に寝泊まりしていたのだが、自衛官上がりで街宣右翼、ときどきヤクザの下働きをしている殺伐と物騒側の人間だった。知性や教養はもちろん、情操もきわめて乏しいと思えた坊主頭に悪相のKが、「風の谷のナウシカ」のクライマックスで人目も憚らず「おうおう」と泣き出したのだから、とても映画どころではなかった。

宮崎駿の「風の谷のナウシカ」によって、私は60年代生まれ以降が根深いアニメ世代であることを知り、その当時はそんな言葉など知らなかったが、宮崎駿が「グレート・コミュニケーター」であることを知ったのだと思う。

以下は、引退会見の宮崎の言葉から拾った。

だから(創作を)続けられたらいいと思いますが、今までの仕事の延長線上にはない。僕の長編アニメーションの時代ははっきり終わった。今後、やろうと思っても、それは年寄りの迷い言だと

僕は児童文学の多くの作品に影響をうけてこの世界に入った。子供たちに「この世は生きるに値するんだ」ということを伝えることが、仕事の根幹になければならないと思ってきました。それは今も変わっていません

それから僕は、文化人になりたくないんです。僕は町工場のおやじ。それを貫きたいと思っています。文化人ではありません

『風立ちぬ』の構想は、震災や原発事故によっては影響されていません。はじめからあったものです。時代に追いつかれて、追い抜かれたという感じを映画を作りながら感じました

鈴木:僕が宮崎作品に関わったのは『ナウシカ』から。そこから約30年間、ずっと走り続けてきて、過去の作品を振り返ったことはなかった。それが仕事を現役で続けるということだと思っていた。どういうスタイルで映画を作るのか、なるだけそういうことは封じる。作品が世間にどういう影響を与えたのか、考えないようにしていました

宮崎:まったく僕も考えていませんでした。採算分岐点(損益分岐点)にたどり着いたらよかった、と。それで終わりです

あがってくるカットを自分でいじくっていく課程で、映画への自分の理解が深まっていくことも事実。あまり生産性には寄与しない方式でしたけれども…。とぼとぼとスタジオにやってくる日々。50年、そういう仕事でした

監督になってよかったと思うことは一度もない。でも、アニメーターになってよかったと思うことはある。うまく風が描けたとか、水の処理がうまくいった、光の表現がうまくいったとか…そういうことで2、3日、短くても2、3時間は幸せになれる

僕は、監督や演出をやろうという人間じゃなかった。僕は監督をやっている間も、アニメーターとしてやってきた

そこから長い下降期に入った。バブル崩壊とジブリのイメージは重なっているんです。その後、『もののけ姫』などずるずる作ったりしてきました

僕は18の時から修行を始めたが、監督になる前「アニメーションというのは世界の秘密をのぞき見ることだ。風や人の動きや表情やまなざしや体の筋肉の中に世界の秘密がある。そう思える仕事だ」と分かった。そのとたん、自分の仕事がやるに値する仕事だと思った

自分のメッセージを込めて映画は作れない。自分の意識で(作品は)捕まえられない。最後に未完で終われたら、こんなに楽なことはないんです。僕は叫んでおりません

実際、机に向かえるのは1日7時間が限度。打ち合わせだとか、そういうことは仕事ではないんです。机に向かってこそ仕事

長い間ありがとうございました。(会見について)2度とこういうことはないと思います

(敬称略)



鍵泥棒のメソッド

2013-06-30 00:36:00 | レンタルDVD映画


ウディ・アレン監督・脚本の「ミッドナイト・イン・パリ」は、1920年代の絢爛たるパリを舞台に、ヘミングウェイやフィッツジェラルド、ピカソ、ダリ、コール・ポーターなどが登場して、ウディ・アレン監督作品としては珍しくヒットしたそうだ。アカデミー賞の作品賞、監督賞、脚本賞だけでなく、美術賞にもノミネートされたのは、当時のパリの街角やカフェ、ホテルの部屋、パーティの模様を豪華に再現したからだろう。たしかに、「ミッドナイト・イン・パリ」の美術はすごかった。

ひきかえ現代物の邦画を観ていていつもがっかりするのは、美術や衣装がなきに等しい場合が少なくないことだ。いったん室内にキャメラが入ると、アダルトビデオもTVドラマも映画作品も、ほとんど区別できない殺伐な空間を見せられる。フィルムに固着する価値のない、島忠ホームズやIDC大塚の売り場で見るような安物のソファやダイニングセットやリトグラフが映される。美意識や伏線はもちろん、そこには何らの主張や訴求もない。

日本のインテリアの貧しさの反映といえばそれまでだが、スクリーンから人物以外のモノや道具が語りかけてくることはほとんどないわけだ。かと思えば、やたらけばけばしく飾られたパンクでロックでキッチュな若者の原色の部屋とか、あるいは笠智衆や乙羽信子でも顔を出しそうな縁側に籐椅子に茶の間といった昭和レトロの部屋など、ありえない饒舌さだったりする。

その点、「あまちゃん」に登場する、1980年代にアイドルに憧れた春子(小泉今日子)の部屋はじつにリアルに作られていて感心した。この「鍵泥棒のメソッド」も、売れない俳優の桜井武史(堺雅人)のボロアパートの乱雑な部屋が重要な場面となるだけに、よく作り込まれていた。日本アカデミー賞の脚本賞を受賞したほど上出来なコメディとして認められているが、ここでは美術を賞賛したい


売れない俳優の桜井武史の部屋
くわしくはこちらのサイトへ。やっぱり、この映画の美術は話題になっていたんだな。


スーパーのレジ係の井上綾子(森口瑤子)が中学生の息子と住む、所狭しと逸品が置かれた団地の部屋も、とても効果的に見せていた。一瞬、パンするだけだが、パウル・クレーの絵が架かっていた。最後のクレジットの協力協賛に、日本パウル・クレー協会とあったから、たぶん本物だろう。さすがにジミー・ヘンドリックスのギターはレプリカだろうが。美術監督は金勝浩一という人だ。

衣装も優れていた。またしても「あまちゃん」で恐縮だが、吉田副駅長を演じている荒川良々のヤクザの親分工藤純一が、コートからネクタイまで渋いグレーで統一した凝ったなりをしていた。それまで黒のスーツでキメていた「殺し屋」のコンドウ(香川照之)が売れない役者の桜井武史と入れ替わり、間抜けなダンガリーシャツにジーパンで、とぼとぼボロアパートに歩くところも可笑しい。

そして、白眉は黒いハイヒールである。終わり近くの場面で、堅物編集長の水嶋香苗(広末涼子)が車を降りるとき。一瞬、形よく伸びた膝下から細い足首と黒のピンヒールが登場する。かなり高価な品ではないかと思える素敵なハイヒールだった。広末涼子が美しい細い脚を持っていることにはじめて気がついた。

正直いって、堺雅人や広末涼子や森口瑤子を、一度もよい俳優だと思ったことはなかった。ひいきの香川照之にしても、市川中車を継いでから、ひいきを降りていた。梨園の、名門の、という旧弊と袂を分かち、「スーパー歌舞伎」を独創して「歌舞伎界の反逆児」といわれた猿之助の耄碌を晒しているとしか思えないからだ。

しかし、この映画の彼らは、とてもよかった。ウディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」より、ずっと上出来で洒落た作品に出演できた幸福な俳優たちといえるだろう。おまけの、猫飼いのメンヘラ女の胸キュンに笑った後、しかしどちらのカップルも、うまくいきそうでいかなそうなと気づかされて、工藤純一(荒川良々)のようにニヤリとしてしまった。大人の映画である。

(敬称略)