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コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

アウトレイジ ビヨンドのビフォーアフターについて 01

2013-04-18 13:48:00 | レンタルDVD映画
関口宏が司会するTBS「サンデーモーニング」に、張本勲がメインのコメンテーターをつとめるスポーツニュースのコーナーがある。「喝っ」「天晴れ!」というやつだ。先週の僅差というか、ほとんど負けていた亀田興毅の防衛戦について、評論家の寺島実郎がこんなことをいっていた。「興業としての評価は別にして、ボクシングとしてはどんなものか。パンチを当てるだけで、切れるようなプロのパンチをまだ見せてもらっていない」と亀田批判である。


不甲斐ない試合に土下座して観客に詫びる亀田興毅

肥えているのにいつもダブルの背広を着ている寺島が、減量がつきものであるボクシングのファンとは意外だった。「21世紀のアジアは大中華圏」を唱えて、「中国のゾルゲ(@オフィス・マツナガ)」と揶揄されるスケールの大きな外交評論に定評ある人だ。肥満体型+着ぶくれファッションという非常識と、「大中華圏構想」という超常識が見合っているように思えるのは困るが、TV局の興業優先を批判したこの発言は、「天晴れ!」に値するものだった。

外交問題といえば、この番組の先週を見のがしてしまったのだが、松井・長嶋のW国民栄誉賞について、張本はどんなコメントをしたのか気になる。松井のおまけに長嶋に与えて、「師弟受賞」とは失礼だし、長嶋に与えるなら、在日韓国人への差別をはね返して、たぶんイチローさえ及ばぬ、3000本安打という前人未踏の大記録を打ち立てた張本が先だろう。

政府内閣の人気とりなら、竹島や慰安婦問題をめぐって、反韓や反在日運動が問題となっているいまこそ、張本に国民栄誉賞を与えるべきだった。在日中国人をルーツとする王貞治に続き張本勲が授賞すれば、どれほど在日社会や国際社会にアピールするか。政治利用の絶好の機会をみずから潰してしまった、前回とあまり変わらぬ安倍政権の政治センスの乏しさには、張本に代わって、「大喝っ」を出したいところだ。

閑話休題、それはさておき、「世界チャンピオンになりながら、まだプロのパンチを見せてもらっていない」という寺島の控えめな亀田批判に、「我が意を得たり」と膝を叩いたのは、北野武の新作「アウトレイジ ビヨンド」を観たからだった。前作「アウトレイジ」に引き続きヒットしたらしいのは慶ばしいのだが、作品としては、捻りすぎた首が戻らず、傾いたまま肩に付いてしまった。いったい、これは映画なのだろうか、とさえ思ったものだ。



寺島のおかげで、亀田興毅と北野武に似ている点が多いことにも気づいた。6度目の防衛を果たした「WBAバンタム級世界チャンピオン」と海外映画祭で数々の受賞歴を誇る「世界の北野」。亀田は大阪西成区、北野は東京足立区の貧困家庭出身。亀田は選手・コーチ未経験である素人の父親の指導でボクシングを学び、北野も漫才のかたわら俳優経験を重ねて独学で監督術を身につけている。二人とも、メディアへの露出は抜群だが、試合や作品に対する安定した評価を得ていない。たんにボクサーや映画監督・お笑い芸人というだけでなく、トリックスター的なキャラクターとして、どちらも人気を博している。

もちろん、ボクサー・亀田興毅、映画監督・北野武、いずれも虚像ではなく、優れた資質を見せたり、よい映画シーンを撮っている。しかし、亀田興毅が海老原博幸大場政夫と同じ世界チャンピオンか、北野武が今村昌平や深作欣二と同じく映画監督かといえば、どこかなにか違うという気がする。寺島にならい、北野武から、「まだ世界レベルの映画を見せてもらっていない」といえば、すぐさま、カンヌ映画祭をはじめとする輝かしい受賞歴をお前は知らないのかと云われるだろう。だが、それをいえば亀田興毅にしても、31戦30勝(17KO)という圧倒的な戦績を誇り、WBAバンタム級チャンピオンを6度も防衛している。

問題は試合や作品の中味であり、タイトルがすべてではない。観客にとっては、ショットに興奮できるかどうか、それがすべてだろう。私見としては、北野作品のうち、「その男、凶暴につき」以外をさほど優れた作品とは思っていない。この北野武監督デビュー作は、それ以後の作品と異なり、早世した野沢尚が脚本を書いている。これ以外の北野作品は、すべて脚本・北野武となるのだが、実際には脚本はなく、監督北野武の口立てによって俳優にセリフが伝えられている。最新作の「アウトレイジ ビヨンド」も同様である。

深作欣二が監督を降りたおかげで、主演のビートたけしに話題づくりとして監督のお鉢が回ってきた。「その男、凶暴につき」にはそんな経緯があったから、野沢尚脚本だけでなく、カメラや照明、スタッフのほとんどはすでに決まっていて、撮影プランもおおかたできていただろう。少なくとも、いわば中途採用の監督として映画づくりに参加したビートたけしに裁量できる範囲は、きわめて少なかったはずだ。もちろん、ビートたけしにお飾りの監督に甘んじる気はなかった。撮影現場は混乱しただろうが、だからこそ映画としては緊張感に溢れて優れたものになったと思えるのだ。

ほとんどの作品が脚本なしの口立てという映画監督は珍しいはずだが、映画づくりの素人だった北野武が、結局、脚本が書けないがために口立てにしたということはじゅうぶんにあり得る。ならばなぜ、たとえば原案・北野武としてべつに脚本家を立てるとか、あるいは共同脚本にしないのか。「アウトレイジ ビヨンド」では、主演・監督・脚本にくわえ、編集まで自ら手がけている。なぜそこまで、映画のすべてに携わろうとするのか。言い換えるなら、なぜそこまで、すべてが許されるのか。そこらあたりに、映画監督・北野武の「裸の王様」ぶりと、裸と知りつつ気づかないふりを続ける、北野武という空洞がうかがえる気がするのだ。
                               -この項続く-

(敬称略)

初恋のきた道

2013-04-14 18:35:00 | レンタルDVD映画


早起きしたら、CATVで「初恋のきた道」を放映していた。評判は聞いていたが、観る機会を逃していた。ほかに予定があったのだが、すぐに魅入られた。

この映画を観て、デイ(チャン・ツィイー 章子怡)の可憐に涙しなかったとしたら、あなたはもう人の心を失っているかもしれない。恋するルオの姿を追うデイの眼差し、含羞い、微笑み。雄弁な沈黙に満たされた、切ない表情や隠しきれない仕草の一つ一つを目撃するのだから、涙線がゆるむのは止められない。

細身ながら、意外にしっかりした下半身、すこしガニ股すら可愛い歩き姿。井戸で水を汲み、天秤棒で家まで運び、風呂を沸かし、炊事をして、布を織る。野山を駆け抜け、雪中をとぼとぼ歩き、花々や実りを愛で、落とした簪(かんざし)を必死に探し、町に続く道に佇む。ルオが村へやってきた道。

毎朝、学校へ通い、校舎の外からルオの声を聴く。生徒たちに自作の文章を朗読する響きのよい声、「人と生まれたなら志あれ」。ルオの笑顔に光る歯や高い肩、刈り上げた襟足の白さ、澄んだ瞳を想いながら、デイは聴き入る。動のうちに、静のうちにも躍動して止まらないデイの生命力。

いつしか、頬をつたう大人げない印を忘れてしまうのは、ただただ、少女のささやかな幸せを願ってしまうからだ。どうか、ひと目だけでもデイがルオを見ることができますように。そのとき、ルオがデイの視線に気づきますように。そして、ルオがデイに微笑みかけてくれるように、私たちは祈る。

驚くべきことに、これほど長い間、私たちは恋するデイの面差しや姿態を追っているのに、一瞬間も媚態を発見することはできない。あるいは、デイが恋慕の思いを口にすることは、言葉にすることはほとんどといってよいほどない。40年後、ルオに先立たれ、葬儀のために帰郷した息子に、漏らすまでは。

「身体にわるいからあまり泣くな」と息子に心配されて、老婆になったデイは、「だって、父さんがいないんだもの」と泣き崩れる。愛にかかわる言葉はたったこれだけ。中国の貧しい僻村に生まれ、祖母に育てられ、たぶん生涯村を出ることのない女の精いっぱいの言葉。小さな村の小さな女の小さな一生。

野辺の花のように、可憐な小品佳作、そんな素朴な印象を間違っているとはいわないが、じつに巧妙をきわめた映画でもある。

驚くべきことに、18歳にしてはまだ幼く少女と見えるデイが、チャン・ツィイーという女優とチャン・イーモウ(張芸謀)監督の完璧な造形であることだ。素人を起用したとは思えないが、素人に近い新人、あるいは達者な子役に、みごとに自然な演技をさせた。デイに没入しながら、そんな作為へ思いもよぎる。だが、そうではなかったことが後半に明らかになる。

ルオが町に去って村に戻れず、二人は2年間離ればなれ、会うことができない。ようやく再会の日、雪が降るなか、ルオが来る道に佇むデイ。マフラーを深く巻いて眼だけをのぞかせている。この瞳が、化粧をほどこしているというばかりでなく、憂いを帯びた女性の瞳なのである。

設定では、デイ18歳のときにルオと出会い、再会を待つ場面では20歳か21歳になっているはず。2年の時間が過ぎて、デイは成熟した女性となって、いきなり私たちの前に現れる。調べてみないとうかつなことはいえないが、うかつにいってしまえば、すでに成熟した女性であるチャン・ツィイーが、15、6歳に見える少女を完璧に演じてみせたのではないか。

そうだとすれば、この瞳だけのシーンは、老婆になったデイの現在に橋渡しするわけだ。つまり、少女が少女を演じては、この映画は成り立たない。少女の初恋だけでなく、恋愛と夫婦愛までを結ぶために、一瞬の瞳が必要だった。中国語のタイトルは、「我的父親母親」、英語では、The Road Home。

チャン・ツィイーばかり注目されるのは仕方がないが、老婆になったデイを演じたチャオ・ユエリン(趙玉蓮)も、勝るとも劣らぬ演技をみせている。ふつうとは逆に、大人の主演俳優に似た子役を探すのではなく、チャン・ツィイーに似た老女優をキャスティングしたのだろうが、顔つきや体つきだけでなく、前のめりにせかせかと歩き、頑固なまでの律儀さを寡黙に包んで、デイの老後の姿としてさもあらんと思わせる。

たぶん夫ルオに対すると同じように息子を心配しながら、しかし云うべきことはきちんと云う。自らの考えや信念を貫く、この老女デイの場面はごくわずかだが、少女デイに遡るかのように、優れたリアリティを全体に及ぼしている。さらに、老女デイの場面のおかげで、読み書きができない可憐な美少女を処女のうちに娶る物語に、もしや浅ましいファンタジーを見い出してはいないか、という男の疑念を振り払う救いにもなっている。

もちろん、デイがルオに惹かれたのは、学校や教育へ夢を抱いたからでもあった。文化や文明へ憧れを抱いたからでもあった。デイのルオへのひたむきな想いは、ルオを通してかいま見える、村の子どもたちの未来に寄せる希望、その非言語的な表現でもあった。ルオを支えることで、村の未来を実現するために働くデイ。

だが、デイが放つ千変万化の表情、身につけてきた姿勢や所作は、山野の厳しく美しい自然のなかで、家事や労働を営むうちに、培われ養われた、近代以前、教育以前の姿形や心映えでもあった。いまは失われたか、失われつつある、かけがえのない美しいもの。少女デイから、老女デイにつながり続いているもの。

デイとルオが暮らした村は、今も昔も貧しい僻村だが、現在をモノクロに過去をカラーで撮影された意図は、若く輝いていたデイとルオの青春を追憶するだけには、したがってとどまるものではない。脚本には書かれていないが、映像は中国が喪失した青春と故郷を追悼しているかにに思える。中国政府がよく上映を許したものだ。

チャン・ツィイーの可憐な美しさだけでなく、中国の山村の自然風景の色彩が鮮やか。井戸の水の揺らぎ、かまどの土肌の沈む照り、泡立つ鉄鍋と白い湯気、ネギ油を塗った餅やキノコ餃子などの料理、ほの暗い部屋の隅々、裁縫する指爪、機織りのきしみ、数々の暮らしの情景にも心動かされる。

そして、目も醒めるようなデイの赤い綿入れ。

(敬称略)

米アカデミー賞はCIAが受賞

2013-02-27 01:38:00 | レンタルDVD映画
今年の米アカデミー賞の作品賞は「アルゴ」が射止めました。

アルゴ
http://eiga.com/movie/57493/

イランのアメリカ大使館人質事件におけるCIA救出作戦を描くサスペンスドラマです。まるで映画のような型破りの救出劇は、1979年以来、長年秘匿されてきたそうですが、最新2011年のCIA大作戦を映画化した作品もノミネートされました。パキスタンに潜伏していたビン・ラディン追跡と殺害計画に活躍したCIA女性情報分析官を追う、「ゼロ・ダーク・サーティ」がそれです。ちなみにタイトルは、「0時30分」のことだそうです。

ゼロ・ダーク・サーティ予告編



憎しみと恐怖に満ちた世界に決着をつける、孤高のヒロインの闘い
http://eiga.com/movie/77732/critic/

ところが、このCIA映画に「嘘をつけ!」と異議申し立てをする御仁が現れました。ただ者ではありません。CIAを使う立場の米元国務次官補代理というエリートにして、映画「パトリオット・ゲーム」でハリソン・フォード演じる主人公ジャック・ライアンのモデルにもなった人物だそうです。

「ゼロ・ダーク・サーティ」のウソ
http://getnews.jp/archives/291688

ハリウッドがCIAの別働隊だとはいまさらな話ですが、「ビン・ラディンを殺していない」が常識とは知りませんでした。こちらの話も映画化してほしいものです。

ついでに、イスラエルのモサドエージェントとナチ戦犯の追跡をめぐる似たような話の映画作品をご紹介。イスラエル映画のリメイクだから二番煎じなのでしょうが、なかなかわるくない作品でした。

ペイド・バック
http://nylife09.blog28.fc2.com/blog-entry-814.html

原題は「DEBT」(負い目、負債の意)。東独にひそむナチ戦犯の拉致計画にくわわる女性モサドエージェントに、クラッシックでノーブルな美貌のジェシカ・チャステイン。「ゼロ・ダーク・サーティ」でビン・ラディンを追いつめるCIA女性情報分析官も、やはりジェシカ・チャステイン。このあたり、「ゼロ・ダーク・サーティ」の急ごしらえのお手軽さがうかがわれるところかもしれません。

(敬称略)

桐島、部活やめるってよ

2013-02-25 00:58:00 | レンタルDVD映画


桐島、部活やめるってよ(公式サイト)
http://www.kirishima-movie.com/index.html
yahoo映画紹介
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tyca/id342041/

「アベンジャーズ」の日本公開キャッチフレーズが論議を呼んだことがある。「日本よ、これが映画だ!」と高飛車だったからだ。たしかに、「アベンジャーズ」は傑作だった。だが、「桐島、部活やめるってよ」なら、胸をはってこう云える。「世界よ、これが日本映画だ!」と。ついでに、「ハリウッドよ、さすがにこれはリメイクできまい」ともつけくわえておこうか。まぎれもない傑作。ときめきながら場面に見入るなんて、ずいぶん久しぶりの経験だ。観るときはひとりに限る。惚けた顔になっていること間違いないからだ。

部活映画である。ただし、「帰宅部」もある。たぶん、この学校は都市部の公立高校だ。運動部の代表はバレーボール部である。キャプテンで運動部全体のスター選手のような桐島がブカツをやめることが発端になる。文化部の代表は映画部だ。グラウンドや体育館を占有する運動部をよそに学校の片隅でしこしこ8mm映写機を回して、ゾンビ映画を撮っているオタクたちだ。吹奏楽部も出てくる。部長は帰宅部の一人に思いを寄せ、彼らが桐島を待ちながらバスケットに興じる様子を見下ろせる、校舎の屋上でいつもサックスの練習をしている。映画部の監督は、クラスメートの女子バトミントン部員に惹かれるが、彼女は帰宅部のちゃらい男子との交際を隠している。

つまり、青春映画である。ただし、これまでの青春映画を否定する青春映画だ。たとえば、加山雄三の若大将シリーズを観たことはあるだろうか。スポーツが得意で、友だちが多く、キャンパスでいちばんの美女を恋人にして、ライバルとの競争に勝ち抜いていく、そんな青春映画を観たことはあるだろう。主人公が教師だろうと不良だろうとさえないオタクだろうと、このパターンに変わりはない。正確にいえば青春スター映画である。しかし、「桐島、部活やめるってよ」とみんなが噂している当の桐島は不在のまま。加山雄三は現れず、青春スターは出てこない。加山雄三の若大将には、田中邦衛の青大将という引き立て役がいたように、重要だが脇役やちょい役、声援を送るだけのその他大勢がそこにいるだけ。

だから、群像劇である。ただし、「仁義なき戦い」のように広島暴力団の興亡といった骨太の戦後史に血肉の彩りをあたえるための群像ではない。「桐島、部活やめるってよ」と噂する人々が桐島の記憶や人となりを語りだすわけでもなく、ただ、学校に出てこない、電話に出ない、メールを返さない、とやきもきするだけ。筋らしい筋もない。同じ高校に通い桐島を知っていることが共通しているだけで、彼らは何も共有していない。映画部などは、「桐島、桐島って、お前らいったい何なんだ!」と怒鳴るくらい、桐島さえ関係していない。最初から最後までバラバラに思い考え、行き当たりばったりに動く。これまでの集団映画や群像劇とは違い、誰にも何ものにも群がることがない。

ごちゃごちゃするばかりでわかりにくいかもしれない。すまない。しかし、この映画はとてもわかりやすい映画だ。この高校生たちのなかに、きっとあなたがいるからだ。この映画の主人公はわたしだ。そう思わせてくれる。そして、他の人々もそれぞれが主人公なのだ。そうも感じさせてくれる。そう、桐島なんて、最初からいないし、これからも出てこない。この学校だけでもたくさんの男子や女子がいるが、声をかけ、話を交わす人はわずかだ。身体がふれあい、ふれあわず、心がかよい、かよわず、彼らは彼らの世界で生きている。わたしたちがこちらの世界で生きているように。わたし以外のわたしを感じさせてくれる、そんな経験をしたといえる奇跡的な映画である。こんな映画は日本でしかつくれないだろう。ガラパゴス万歳!

大島渚死す

2013-01-20 02:10:00 | レンタルDVD映画


享年80。闘病17年。まだ元気な頃、「最前線で闘い続けた映画監督がいたということは、記憶されるだろう」と自らを語っていた。何に向けて「闘い続け」たのかよくわからないが、たしかに、文芸的な日本映画はもちろん、いわゆるハリウッド映画やヨーロッパの芸術映画も、大島の眼中にはなかったようだ。

小津や溝口、成瀬、黒沢など、日本映画の巨匠たちの系譜に大島渚は属さない。これは大島作品をひとつでも観れば、誰でもわかることだ。邦画らしい題材の「阿部定事件」も大島渚が撮れば、<愛のコリーダ>になるように。大島渚は日本映画の系譜に属さないかのようにみえる。では、ハリウッド映画を撮るとどうなるか。

たとえば、<戦場のメリークリスマス>の「メリークリスマス ミスターローレンス!」で有名な場面について、「あれは秀逸でしたね」と尋ねれば、たぶん大島渚はあの冷徹な眼光で応えるだろう。「何ですか、あの陳腐な場面は!」となじっても、「クソシーンをクソシーンとして撮ったというわけですか?」と冷笑しても、眼鏡が光るだけだろう。いずれにしろ、感動的なクライマックスシーンになるはずが、そうはならなかった。できなかったのか、しなかったのか。たしかに思えることは、たぶん大島渚にとって、それは重要な問題ではなかったのだろうと思えることだ。

大島渚はヨーロッパ映画を撮ったこともある。当時のヨーロッパ女優を代表するシャーロット・ランプリングが、雄のチンパンジーと不倫する<マックス、モン・アムール>である。

大島作品は、「スキャンダラスなテーマ」や「時代のタブーに挑戦」などが特徴といわれる。その「最前線」に立つ批評性については高く評価されたが、それ以外について、たとえば、大島映画はなぜ映画的な感動やカタルシスを欠いているのか、などが語られたことはない。クライマックスに向けて劇的な効果を上げるとか、綿密な構成と編集によってシーンの完成度を高めることなどに、大島はほとんど関心を払わないような映画づくりを続けた。彼の「最前線」とは、映画そのものを解体することに挑戦する「闘い」だったようにも思える。

「映画はおもしろければいい」とか「映画をつくりたいからつくる」、あるいは「映画を愛している」や「映画は夢工場」といった映画を物神化するような作家性は、大島にとって論外だったろう。映画以前に、人間と社会があり、映画以後にも人間と社会がある。消費や鑑賞の枠を踏みはずす運動としての映画を大島は観客に強いていた。そのあたりがとりあえずの大島渚理解かもしれない。そんなことを考え肯いていると、「大島渚をどう理解するかなんてことはね、君、最前線の闘いとは、何の関係もないんだよ!」と唇を振るわせて怒鳴る声が聴こえた。合掌。

(2013/01/20 敬称略)