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コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

虐殺器官

2010-09-22 11:35:00 | 新刊本
傑作とか、おもしろかった、ではすまされない、何か片づかない気にさせる、そんな小説にたまに出くわします。



『虐殺器官』(伊藤計劃 早川文庫)

表紙カバーの著者名の下に、Project Itou と表記されています。難しい字だが、伊藤計画(いとうけいかく)と読みます。

911同時多発テロ以降、オーウェルの「1986年」以上の超個人情報管理社会となった近未来。そのためかテロ事件は激減したが、なぜか世界各地で大量虐殺が相次ぐ。そして、虐殺の国には必ず、謎のアメリカ人ジョン・ポールの足跡が残されていた。アメリカ情報軍の暗殺隊のクラヴィス・シェパード大尉は、ジョン・ポールの暗殺を命じられるが・・・。

こんな風に、要約したいところだが、「911同時多発テロ以降」という括りかたへの異議がこのSF小説の重要なポイント。「911以降」から本書が着想されたのは間違いないが、これまで世界各地で起こった、起こっている、多くの虐殺事件に比べれば、911は小事件に過ぎず、メディアが黙殺していることから、多くの虐殺事件について、私たちが知らないだけなのだ。そう、君たちは、世界で何が起きているか、何も知らない。「ハーメルンの笛吹」に踊らされる子どものように。だが、虐殺の指導者や張本人を暗殺することを任務とする、そのクラヴィス大尉にも、なぜ虐殺が起きるのか、幾度も繰り返されるのか、その原因や理由はわからない。読者はクラヴィス大尉とともに、「虐殺器官」という言葉を手がかりに、夕暮れの血河のような謎に足を浸していく。

これも、いまいちだな。それと、「ハーメルンの笛吹」といってしまったら、かなりのネタバレになってしまう。これから読もうと思っている人には、ごめんなさいと謝ります。しかし、言い訳するつもりではなく、「虐殺器官」という秀逸な造語には、多様な解釈が可能で、「ハーメルンの笛吹」という比喩は、入口のドアのノブを指したに過ぎません。ドアを開けて、中に入っても、真犯人が椅子に座っているわけではなく、霧が晴れるように謎が解かれるわけでもありません。かといって、わけがわからないまま、終わってしまうというのでもない。SF的な道具立てを駆使して、現在の延長として近未来イメージを提出した小説です。この小説の戦慄すべき、蓋然性と予見性について、理解の外という現代人は少ないでしょう。

たとえば、手作り核爆弾テロによって、サラエボが巨大なすりばち状の大穴を残して地上から消えたが、このテロ事件によって、核戦争が必ずしも地球滅亡には至らず、管理された戦争の有効な一手段として、核爆弾は「使える」と確認され、広島長崎はすでに忘れ去られている。

あるいは、ナイルパーチの養殖によって死滅したビクトリア湖に、淡水で生きるように遺伝子改造された鯨やイルカを養殖して、生活の隅々に利用されているロボットの人工筋肉をつくっている。近未来の人類も、そのグロテスクな人工筋肉素材の生産と加工について知らされていない。

銃撃アクションはもちろん、おなじみの謀略も悲恋もあり、展開はスピーディ。しかし、その文体は、静謐な哀しみをたたえ、虐殺現場の描写すら詩情を感じさせます。Mさん、「深い意味」という穴は、私たちの外側ではなく、やはり私たちの内に、掘られているようです。日本人は一人も出てきませんが。

8/25に紹介した、『これからの「正義」の話をしよう-いまを生き延びるための哲学』(マイケル・サンデル 早川書房)

6/4に紹介した、『天才アームストロングのたった一つの嘘』(ジェームズ・L・ハルペリン 角川文庫)

この2冊と併読すると、より興趣が増します。

(敬称略)

やわらかく語りかける言葉の本2冊

2010-09-06 00:22:00 | 新刊本



たぶん、類書はないんじゃないかと思える貴重な2冊。『ラブシーンの言葉』は、週刊誌連載をまとめたものとはいえ、セックスとエロのかかわる多様な描写をスクラップした労作。写真アルバムの一枚一枚に、一言感想や解説を添え書きするように、収集された小説・詩歌・惹句などに、荒川洋治の批評眼が光った、しかしやわらかい一言が付されて、セックスとエロにかかわる「文章読本」の趣もあり。かつて、「中間小説」は性欲を描写したが、やがて、「官能小説」は性器を描写するようになり、現在では、描写すらしなくなったという指摘に納得。やがて、「平成の言葉」について、史料的な価値を持つこと間違いなし。ただし、書名は中味を表さず。もっと、直截でよかったのでは。週刊朝日連載時の「ウォッチ性愛本」もまるでいただけないが。人生には、あいさつがついてまわる。『あいさつは一仕事』は、あいさつのカタログだが、収録されているのは、丸谷才一が実際にしたあいさつだけというユニークさ。新郎新婦はまったく知らないが、父親との縁で出席したときの結婚披露宴のスピーチはどう話すか、といった役に立つノウハウも披露されているが、もちろん、それはごく一部。文芸批評の大御所が、弔辞を述べたり、文学賞受賞者をお祝いしたり、その褒め称えの芸がすごい。たとえば、「大野晋は本居宣長より偉い学者だった」「井上ひさしは、黙阿弥以上」など。もちろん、「ヨイショ」などではなく、批評芸だから、丸谷才一による人物批評としても読めるし、丸谷才一とはどういう人かという人物批評としても読める。

『ラブシーンの言葉』(荒川洋治 新潮社)

ポルノ小説、投稿読者手記、ちょっとアヤしい通販カタログ。睦みあうからだとからだが奏でる愛の音楽を、たっぷりつめこんだ官能のことば。はしたなくて、恥ずかしくて、だから愉しい最新二百余点のサンプルを、現役現代詩作家が熟読玩味。絶頂感の高みへ読者を誘う創意あふれる表現に、にんまりしたり、びっくりしたり。人生の歓びをおおらかに肯定する官能文学ウォッチング。

『あいさつは一仕事』(丸谷 才一 朝日新聞社)

結婚披露宴でのスピーチ、親兄弟が亡くなったときの挨拶、定年の会でのねぎらいの言葉、友人への弔辞……挨拶を頼まれたときにいちばん大事なことは? ぶっつけ本番でしゃべるのはよしましょう。何も用意しないでうまい話ができるのは、吉田茂元首相や古今亭志ん生とかそういうえらい人だけ。われわれ普通の人にとって上手なスピーチのコツは、いったい何だろう。会場をシーンとさせ、爆笑させる名人芸50の見本帖。

(敬称略)

まさよし、元気か?

2010-08-25 00:25:00 | 新刊本
売れているらしい。NHKで放映されて話題を呼んだのがきっかけらしい。「これが、ハーバード大学史上最多の履修者数を誇る名講義」と帯にある。『これからの「正義」の話をしよう-いまを生き延びるための哲学』(マイケル・サンデル 早川書房)を買ってしまった。

ハーバード大学の議論といえば、当ブログでも、<2010/6/4 おもしろうてやがておそろしきhttp://moon.ap.teacup.com/applet/chijin/201006/archiveで、かなりがっかりしたわけだが、今度はどうだろうという期待があった。学部学生向けだから、たしかに読みやすい(しかし、いい歳をして、大学の学部レベルの本しか読めない俺って、かなり情けなくね。ついに専門性とは無縁か)。



原題は、<Justice  Whats the Right Thing to do?>。そういえば、スパイク・リー監督に、『ドゥ・ザ・ライト・シング』(Do the right thing 1989)という映画があった。My Favorite Things の場合は、「私のお気に入り(の事や物)」なので、複数形のSがつくわけだが、この本も映画も Thing と単数形だ。定冠詞のtheが付いているから、正しい行い、という意味か。

映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』は、イタリア系米国人のピザ屋のおやじ(ダニー・アイエロ) が、「ブルックリンの黒人のガキどもは、俺の店のピザを食って大きくなったんだ、コノヤロ」と街を愛するがゆえに、「黒人の不良ガキども」に、「Do the right thing!」と怒鳴る場面が印象に残った。

ハーバードの学部生に、30年間「正義」について講義してきたサンデル先生なら、このピザ屋のおやじの「正義」をどのように分析するか。もう一度、スパイク・リーの監督デビュー作である『ドゥ・ザ・ライト・シング』を観直したくなった。

ベンサムやJ・S・ミルの最大多数の幸福をめざす功利主義を批判し、カントやロールズ、ノージックのリベラリズムの欠陥を指摘し、アリストテレスに遡り、その道徳的市民論に再評価をくわえるという構成。現代アメリカから豊富なトピックを縦横に駆使して、正義の行方を見据えようとしている。

サンデル先生の立場は、「物語る存在、位置ある自己」を「私たちの本性」とする、いわば、「共同体主義物語派」(コタツの命名)。市民道徳の再構築を呼びかけて講義は終了する。なるほど、ピザ屋のおやじの「ドゥ・ザ・ライト・シング」の怒鳴り声は、紹介されたどの思想にも当てはまり、どの思想にも、ぴったりとは重ならない。

とりあえず、明日は休みのことだし、連日の猛暑によって、我が家では、「洗濯の自由」だけは充分に保証されている。洗濯物を干しながら、母親の面倒も看ないというほど共同体が空虚化しているのに、ボランティアに励めといわれてもなあ、という問題について考えてみよう(この項続く)。

(敬称略)

証拠

2010-04-20 01:24:00 | 新刊本


『日本産業社会の「神話」-経済自虐史観をただす』(小池和男 日本経済新聞出版社)

帯文
「日本は集団主義の国」「日本人は会社人間」「長時間労働が競争力を強化」「成長は政府のお陰」-。日本を惑わす迷信を、労働経済学の第一人者が一刀両断。

目次
第1章 激しい個人間競争
第2章 日本の働く人は会社が好きか
    -意識調査の国際比較
第3章 「年功賃金」は日本の社会文化の産物か
    -戦前の日本の軍のサラリー
第4章 日本は長く働くことで競争力を保ってきたか
第5章 日本は企業別組合か
第6章 政府のお陰か
    -綿紡績業の展開


小池和男という人はよく知らないが、「はじめに」を読むと、最初の著作は、『日本の賃金交渉』(産業別レベルにおける賃金決定機構 東京大学出版会 1962)であり、その第1章は日本の繊維産業の賃金交渉を分析したものらしい。ほかにも、ゼロ戦や三井三池の労働争議についての論文もあるそうだから、とても古い人だ。今年78歳。自らを「老残」といいながら、本書では、日本の仕事や職場について、はじめて恣意にまかせて語ったような、失礼ながら「遺言」のような解放感がある。

 この本は、いままでのわたくしの本とは、やや違いがある。これまでわたくしは、すくなくとも本人の主観では、かなり証拠を集めたとおもわないかぎり、書かないように努めてきた。とりわけ職場で事情をよく知る人の話を聞き、それを一次資料として本を書いてきた。だが、すでに体力が衰え、職場への訪問を控えざるを得ない。しかもなお、年来わたくしが世にいいたいことが心にのこっている。それを書いた。つまり、やや証拠が足りないにもかかわらず、なおいいたい議論を集めている。そして証拠とはとてもいえないけれど、さまざまな国の職場での個人的な見聞も活用している。-(はじめに)。

なるほど、主観は証拠足り得ない。ただし、誰の主観でも、証拠足り得ない、わけではない。なるほど、あの人がいうなら、傾聴に値する。その人がいうのだから、裏づけはあるのだろう。そういうことは、ある。逆に、同じことをいっても、人によっては、まるで傾聴に値しない、どうせ、聞きかじりの知ったかぶりに過ぎないだろう、と判断される。そういうことも、ある。小池和男という人は、たぶん半世紀以上になろうとする研究者生活を賭けて、「わたくしの主観」を「証拠」のひとつと認めてくれないだろうか、といっている。

労働経済学という学問分野や小池和男の業績に不案内な読者にとっては、無理な注文である。しかし、困ることはない。本書を一読すれば、「証拠」が吟味されていることがただちにわかる。読了せずとも、第1章第2章を読めば、仕事への満足度や人事査定に関する調査データがきわめて少ないことが繰り返し述べられている。たしかに人事査定資料などは、どこの会社にとっても極秘だろうし、ましてや他国の企業のそれと比較するなど、調査設計から困難を極めるのは想像に難くない。仕事への取り組みや会社への忠誠心など、労働者の意識調査であっても、比較対照するには多国間に及ぶ大規模な調査事業が必要となる。

つまり、信頼に値するデータ(証拠)はきわめて少ないらしい。したがって、「日本は集団主義の国」「日本人は会社人間」「長時間労働が競争力を強化」「成長は政府のお陰」には、当然、「証拠」がないのである。また、そんな日本の反対として、よく引き合いに出される、アメリカの企業についても、そんな「証拠」はないのである。「証拠」がないということが、すなわち、「集団主義」「会社人間」「長時間労働による競争力」「政府のお陰」などが、「神話」や「迷信」にすぎないことの証拠となるわけだ。そして、きわめて数少ない、信頼に値する日米の調査資料という「証拠」に基づけば、むしろ、それら通念や通説を裏切る分析が成り立つという。

「日本企業はアメリカ企業より、むしろ個人間競争は激しい」「日本人はアメリカ人より、会社に醒めている」「長時間労働ではなく、創意と工夫が競争力を強化した」「経済成長は政府や官僚のお陰ではなく、民間企業の活力と技術革新によるものだ」と小池和男は結論する。ありもしない集団主義を克服しよう、あるいは、ありもしない集団主義を踏襲しよう、そうした誤解に基づいて、経済政策や企業方針が立てられることによる甚大な損害は、今日の格差社会の到来をみても明らかだろう。また、日本の労働者・会社員が、自らの仕事や会社について、はっきり「ハピーでない」と回答しながら、よい働きぶりをするのはなぜなのか。残された疑問や課題も大きい。

データ分析を主とするため、率直にいって読みづらいところもある。たとえば、第6章から読みはじめてもよいだろう。かつて紡績業は、現在の自動車や家電製品以上の輸出産業であった。国策会社がすべて潰れた後に、東洋紡のような民間会社が、低価格製品で追い上げる中国やインドの紡績業に、品質向上を対抗して生き残った技術革新の背景は、これらの「神話」や「迷信」に反する事実があった、などは、いま就職活動の真っ最中である大学3年生にぜひ読んでほしいものだ。また、労働組合丸抱え候補が少なくない民主党政権の問題を考えるには、第5章は必読だろう。

なるべく読みやすくしようとする工夫から、集団主義は「日本文化」という思い込みを否定するために、新古今集の撰者たちが選考に合議制をとらなかった例を挙げたり、日英のプロサッカーの席次を解説したり、自らの趣味に走った「証拠」を提示しているのも、好奇心旺盛な「老残」の日常を伺わせ、微笑ましく楽しい。

(敬称略)

 



また買ったけれどまだ読んでない本々

2009-11-04 21:09:00 | 新刊本
Nさんの香典返しに貰った図書カードで、『1968 上下』(小熊英二 新曜社)ではなく、以下を買ってしまった。

『それでも日本人は「戦争」を選んだ』(加藤 陽子 朝日出版社)
http://moon.ap.teacup.com/applet/chijin/msgsearch?0str=%82%A0&skey=%89%C1%93%A1%97z%8Eq&x=0&y=0&inside=1
http://book.asahi.com/news/TKY200908060189.html

なぜ、「戦争」と括弧に入っているのか。楽しみですね。

『金正日は日本人だった』(佐藤 守 講談社)

著者の佐藤守は、「元自衛隊南西航空混成団指令空将」という肩書きである。軍事オタクや謀略ファンのトンデモ本ではなさそうだが、フィリピンルバング島から帰国した小野田少尉のような皇軍の残置諜者・金策が北朝鮮を建国したという推論らしい。

大日本帝国と北朝鮮が相似形であることは、かねてから指摘されてきた。いずれも、欧米という「国際社会」からみればトンデモ国家だが、小国ながら自存自衛を貫いている点では、列強を向こうに回して「互角」に渡り合っているという見方もできる。

かつての日本を北朝鮮のような「テロ国家」にまで引きずり下ろすのか、北朝鮮を大東亜共栄圏の余波にまで引き上げるのか、といえば、もちろん、後者が本書の狙いだろう。

ネットでは、中国の後進性や覇権主義を嫌悪し、韓国の唯我独尊ぶりを侮蔑する言辞が流行しているが、かつての日本も似たようなものだったと俺は思う。それはものの本に拠らずとも、老人たちから話を聞けばわかることだ。

彼らは、「日本も同じ道を通ってきた」と異口同音に語っている。機械部品の代わりに石炭ガラを梱包して「輸出」する商社はあったし、「日本製は、安物ですぐ壊れる商品」の代名詞だったし、アメリカのハイウェイでオーバーヒートして、ボンネットから白煙を上げて立ち往生しているのは日本車ばかりだった。そんな「貧しい」時代を老人たちは知っているからだ。

各産業ごとに、なんとか協会や協議会、振興会や組合など、今日無数の官僚天下り検査機関、資格団体ができた背景のひとつには、日本産業界の後進性をカバーして、「国際社会」に伍していける業界への規制と指導を目的としたものだ(日本製が高品質の代名詞となったいまでも、これらの天下り組織が残っているのが問題なのである)。

したがって、官僚とは、規制とは、業界指導とは、日本の産業界の劣悪な一部を排除し、「国際社会」並みに底上げする努力であって、優秀な官僚によって日本経済が発展したわけではないのだ。むしろ、優秀な企業や企業家は、大蔵省の金融政策によってつねに資本不足に苦しみ、通産省の行政指導によって闊達な資本主義から疎外されて泣きを見てきた。日本の輸出産業とそれを支える技術集約は、日本の企業や会社員が自力でつくりあげてきたものだ。

政治家やマスコミ、学者たちが、「日本の優秀な官僚」と必ずつけ加えるのは、ある種の仲間意識と外交辞令に過ぎない。ときどき、それを本気にして、政治家の無能と対比させる人がいるが、ただの世間知らずである。かつて、アメリカの有力シンクタンクが、日本の官僚がつくった経済政策や産業政策がいかに無益無効だったか、という詳細なレポートを発表して話題になったことがあった。大蔵通産官僚の「保護主義」に歯噛みしたアメリカのシンクタンクだから、かなり割り引く必要はあるが、その後の結果と照らし合わせれば、たしかに説得力に富んでいた。

ま、そんなことはことさら本を読まずとも、日本史上最強最大のシンクタンクであった大本営が、どのような無謀な作戦を立案計画し、その強行によってどれほど多くの前途有為な若者が犬死に等しい最後を迎えたかを考えれば、すぐにわかることだろう。日本の「無謀な戦争」と比べて、北朝鮮の「無謀な戦争」は、はるかに長く保っていて、その犠牲者も比較すればはるかに少ない。やはり、日本帝国主義の興亡から、多くを学んだのだろう。

(敬称略)