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コタツ評論

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それでも、日本人は『戦争』を選んだ

2009-09-22 00:52:00 | 新刊本
日曜日の朝日新聞の「読書」で紹介されていて、読みたくなった。

「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(加藤陽子 朝日出版社)
http://book.asahi.com/news/TKY200908060189.html



「立ち読みページ」というのもあるのか。はじめて知った。
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refISBN=9784255004853

神奈川県鎌倉市に栄光学園という県下屈指の受験エリート校がある。カトリック修道会イエズス会系の中高一貫私立校で、かの養老孟司の出身校である。その歴史研究部の中高生に、気鋭の東大教授が日清日露戦争から太平洋戦争まで、日本の近現代史を講義した。

「歴研」といっても、昔のような唯物史観の学習サークルではないだろうが、生意気盛りの歴史好き中高生たちを瞠目させた講義とはどんなものか。もちろん、岩波歴史講座のような左翼めいたものではなく、いわゆる自由主義史観でもないはずだ。

この本を紹介した小柳学という編集者は、歴史に埋もれた人物に輝きを与えることで現場の空気を伝える、司馬遼太郎の歴史小説を読んだときの感覚に近い、と語っている。

加藤陽子という歴史学者は知らなかったが、最新の近現代史研究の成果を啓いているそうで、中高生向けの語り口ながら、むしろ、これといった歴史観を持てない、あるいはいつまでも歴史観の定まらない大人向きだろう。

講義だから、当然、生徒との間に質疑応答がある。生徒の質問に先生が答えるというより、先生が、「あなたが日本の首相だったらどうする?」「中国の立場だったらどうする?」と問いを投げかけながら講義を進めたようだ。

たぶん、私たち大人の答えは、生徒のそれ以下ではあっても、以上を出せることは少ないだろう、と想像する。

日清戦争が起きた1894年(明治27年)に、松下電器を創業した松下幸之助は生まれ、バブル経済崩壊後の1989年(平成元年)に亡くなっている。つまり、明治生まれの人々が戦前をつくり、戦後をつくった。ついこの間まで、明治人の時代が続いていたともいえる。

「分権化」「民営化」「知識労働者」「非営利企業」など、先駆的なアイディアを提起し続け、企業人の間では、松下幸之助以上に人気が高い経営学者のピーター・ドラッカーも、1909年(明治42年)にウィーンに生まれ、ナチス勃興のドイツから逃れるように出国し、やがてアメリカへ移住、GMの再建などを手がけ、経営マネジメントに大きな影響力を持ち続けて、2005年(平成17年)に没している。

彼ら明治人にとって、近現代史とは同時代史として自明のことであったから、その輝かしい成功にしろ亡国の瀬戸際までいった失敗にしろ、あまり多くを語らなかったように思う。彼らにとっては、自分たちが為すべき仕事ははっきりしていたから、あらためて語る必要はなく、ただ、為すべき仕事に懸命に取り組んだ。私たち後継世代も、積極的に聞く耳を持たなかったと思う。

戦前と戦後を分かたず、近現代史として通史を学ぶには、私たち大人の歴史認識は雑駁かつ手垢にまみれている。団塊の世代はすでに老年期に入ったが、昭和の大人たちは、結局、近現代史の何をも知らないのである。

だから、「属国史観」や「自由主義史観」などに、トリビアリズムの虚仮脅かしに過ぎないものにも、おろおろしてしまう。そのくせ、祖父母や父母に聞こうともしてこなかった。恥ずかしながら、私もそうですがね。

もしかすると「戦前」を経験しているのかもしれない、平成生まれの中高生たちが、司馬遼太郎の歴史小説のように生気あふれる歴史講義を受けているのなら、とても羨ましい気がする。また、本で読むより、講義の熱弁に接するほうが、圧倒的に得るものは大きいはずだ。

彼らの多くは、たぶん、学者にも作家にもならず、自らの教養と見識について多くを語らぬまま、専門職や公務員として、市井に生きていくことだろう。幼い頃から豊かな文化資本を享受した者は、文化を語る必要はなく、ただ味わうことで満足する。

松下電器を起業した松下幸之助は、やがて軍需産業に携わり、戦後は進駐軍からパージを受ける。そして、朝鮮戦争後から高度成長期を迎えた日本は、「三種の神器」の消費ブームを経て、家電業界は飛躍的な発展を遂げ、松下幸之助が唱えた「水道哲学」は実現したかのように思えた。

科学文明を渇仰し、豊かな消費文化を求めた、幸之助のような明治人たちの末裔が私たちである。したがって、もしかすると昭和という時代はなかったのかもしれず、昭和という時代に文化はなかったとも思える。私たちの文化資本とは、せいぜいが消費文化の一分野としてのマンガやアニメくらいに過ぎない。

結局、明治人たちは、私たちは、「戦争」を選んだのだ。先の大戦への悔恨は、明治人たちが亡くなるにつれて、日々薄れていった。それから幾たびも、戦争は起きた。日本以外でだが。しかし、日本でも、「いまや、我々の希望は戦争だけである」と直言する若者も出ている。戦争を待望するほどの彼らの閉塞感を批判することはできない。

戦争を回避する、柔らかな知性と教養は、学ぶというより身につくものだと思う。もちろん、そんな人はごくごく少数だろう。しかし、その人たちの在りかたが、静かに流れる水のように、人々の足下を浸して、わずかずつであってもたしかな影響を及ぼしていくと思う。

豊かな文化資本を享受した平成の中高生たちが、「それでも、日本人は『戦争』を選ばなかった」時代をつくってくれたら、と願う。戦争は全員ではじめるものだが、戦争を止めようとするのは、いつの時代もごく一部の人たちだろう。戦争に反対する戦争(闘争)の以前に、黙って平和の価値を提示できる人たちだ。

戦争に平和を対置するのではなく、戦争に向かう平和を、向かわない平和に変えていく歩みを、日々実践する人たちだ。温かな笑顔で挨拶するように。老人に座席を譲るように。公園のゴミに気づいて拾うように。歴史にはけっして記されることのないこのような人たちは、自分だけが読む自分史を持つ人たちだ。

つまり、私のようにブログなどは持たない人だな。お後がよろしいようで。

(敬称略)







書評を読む絶望的な愉悦

2009-09-15 01:23:00 | 新刊本

あの「低俗」きわまる日刊ゲンダイ紙上で、「知性と教養」あふれると評判をとった匿名書評をまとめた「狐の書評」の続編。

『もっと、狐の書評』(山村 修 ちくま文庫)

はじめて知ったが、著者は大学図書館司書が本業のアマチュア書評家だった。短文の書評コーナーのため、あらすじや紹介には立ち入らず、ほとんど感想のみで、その本や文章の素晴らしさを伝える。その前提として、新刊や読者ウケをほとんど無視して、古書から少女マンガまで、自分が読みたい本のみを取りあげて譲らない。

杉本秀太郎 『平家物語』
金関寿夫/秋野亥左牟 『おれは歌だ おれはここを歩く』
那珂太郎 『木洩れ日抄』
倉田卓次 『続々々 裁判官の書斎』
霜山徳爾 『素足の心理療法』
佐藤研/小林稔訳 『新約聖書 福音書』

本書に採録された150編の一部である。私もほとんど読んだことがない本や筆者ばかりだ。多少本を読む習慣のある人にとっては、未知を思い知らされるという絶望的な悦びを味わえるだろう。もうそう多くの本を読むことも、丁寧に読み込むこともできない。だが、たとえ私が読まなくても、読まれるべき本はたくさんあり、どこかの誰かが読んでくれている。そんな愉快もある。

「狐の書評」には、「狐の書評」を読む独立した愉しみがある。書評の役割は、本や著者の紹介にはない。あたかも読んだ気にさせることにある。それは、その本の扉を開かせることに等しく、本を書く人、読む人へ、新鮮な敬意を抱かせる。読まない本や著者とも繋がれる気がする。いわば本読みの共和国を、一瞬現前させるのだ。そんな書評の書き手は、そんじょそこらにはいない。

(敬称略)



6,800円は持ち合わせていなかった

2009-09-02 19:50:00 | 新刊本
久しぶりに、新刊書店をのぞいたら、100万部を越えるベストセラーとなった村上春樹の『1Q84』(新潮社)が平台に山積みになっていた(平台に山積み? 何か変だな)。やはり、ノーベル文学賞候補の盛名と最近の「壁と卵」スピーチの影響かな? 

「私はいついかなるときも、壁にぶつかって潰れる卵の側に立つ」。
「マニフェスト」とは、こういう言葉を指す。「国民の目線に立った政治」などという、少し考えてみればテキトー極まる言葉ではないのだよ。自民民主公明のみなさん(テキトー極まる? かなり変だな)。

このところの1980年代つながりとしては、ちょっと読んでみたい気もするが、こちらのお目当ては、小熊英二の『1968』(新曜社)。『<民主>と<愛国>』以上の分厚さにたじろぐ。分厚いのはむしろ歓迎なのだが、値段が高いのではと心配したのだ。案の定、なんと6,800円! 上下2巻で13,600円! 100円特価本なら、136冊買える! 残念だが、今日は手が出ない。

『<民主>と<愛国>』ではほとんど無視された、68年を最盛期とする学生運動、新左翼から全共闘への軌跡を丹念に「読み込んだ」小熊が、どう歴史的な総括をするのか期待は大きい。

『<民主>と<愛国>』が話題を呼んだとき、「1968」年の先輩たちに勧めたところ、「民主も愛国も嫌いだな」と一笑に付されてしまった。民青と右翼を連想したのかもしれない。民主と愛国に違和感を抱き、どちらにも帰属意識を持たないというのではなく、むしろ、彼らはまさしく戦後民主主義の子であり、同時に自らの反米愛国的な感情を否定しなかった。それは、『<民主>と<愛国>』が解明した戦後の日本人の造型のひとつだったのだが。

(敬称略)

暑苦しい夜は御本といえば龍角散

2009-07-26 00:55:00 | 新刊本


落語論-寄席で見つけた落語の真髄』(堀井 憲一郎 講談社現代新書)

フルハイビジョン47型のデジタル映像で花火を見ても、ちっともおもしろくないように、落語は寄席で見なければ落語ではないという。TV落語とは、TV花火なのか。それなら私はほとんど落語を見たことがないことになる。やはり、談志を別格のように絶賛している。反省した。「こんだ寄席で談志を聴いてみようか」。

私見ながら、養老孟司や佐藤優など現代にライター数あるうちで、堀井憲一郎は最優秀の一人。この『落語論』にも、「観客論」が立てられているのは秀逸。そうなんだ、あらゆる批評や評論に、観客論、聴衆論、読者論は欠かせないのだが、試みる人はきわめて稀だ。



マルクスは生きている』(不破 哲三 平凡社新書)

未読だが、ぱらぱら拾い読みしたところでは、不破さんには、この分野のライターとして活躍したほうが、政治家としてより大きな影響力を期待できると思う。よい意味でプロフェッショナルな物書きなのに、ちょっと驚いた。政治家の余技なんてものじゃない。



『江戸の閨房術』(渡辺 信一郎 新潮選書)

当時、世界最先端といわれた江戸時代のセックス教本を解説している。フェラチオからGスポット、潮吹きなど、江戸期にすでに知られていたのに感心。「世界に冠たるスケベ」という自慢はもっとしていいと思う。



時間の本質をさぐる』(松田 卓也 二間瀬 敏史 講談社現代新書)

<宇宙論的展開>と副題があるように、物理学的な時間論。半分まで読んだが、さっぱりわからぬ。わからないまま読了した場合、はたして読んだといえるだろうか。いえるのである。私など、書評を読んだだけの本についても、平気で議論できる物知りとして知られている(恥知らずという人も一部にいるが)。ようするに、読者論(らしきもの)をすればいいのだ。

(敬称略)


オリガ・モリソヴナの反語法 3

2009-01-15 18:00:07 | 新刊本
読了。小説を読む楽しさを満喫させてくれました。感謝。
この本を10冊ほど買い込んで、友人知人にプレゼントしたい気になっています。口添えはしない。「いいから、読んでみて」と差し出すだけ。この本を読んでおもしろくなければ、その人は小説という読書ジャンルと相性がよくないと考えるしかない。それほどの作品だと思う。『カラマーゾフの兄弟』新訳で話題の亀山郁夫などは、もっと舞い上がっていて、某雑誌のアンケートに答えて、『オリガ・モリソヴナの反語法』を2002年のベスト1小説に数え上げ、「女ドストエフスキーの誕生」とまで書いたそうです。

巻末の注や参考文献、池澤夏樹と米原万里の対談、亀山郁夫の解説まで読んでみて、これまでの感想を大きく訂正する必要はないと思いました。ただ、担当編集者にかなり抑えつけられたのでは、という想像はただの邪推だったようです。編集者とのやりとりが明らかにされているわけではなく、連載がすんなり単行本にまとめられたという経緯が対談で語られているだけですが、これほどの原稿を毎回渡されて喜ばない編集者いないはず。きっと最終回を読んだときは欣喜雀躍しただろうと思った次第です。

私も亀山郁夫の解説とほぼ同じ感想です。もちろん、不案内な私には、「女ドストエフスキーの誕生」や「最初で最後のラーゲリ小説」という指摘の当否については何も言えません。ただ、この小説を読めば誰もが感じるだろうミステリー小説としてのスケールの大きさ(国家的な陰謀が絡んでいたとかではなく、なぜその人はそうなのかという深度のことですが)。または、謎解きに増すメロドラマとしてのカタルシスについて。私も強く同意同感したわけです。とくに私もエレオノーラとボリス・ミハイロフスキー大佐の間の真実が明かされたときは、目眩がしました。

私なりにいえば、亀山郁夫がいうようにロシア語に翻訳して、「最初で最後のラーゲリ小説」としてロシアの読者に読ませたいという願いより、まず「ベルサイユのバラ」を成功させた宝塚で舞台化してほしいと思いました。誰よりも、日本の婦女子の紅涙を絞ってほしい。実現すれば、数十年に渡るロングランになるはずです。クラッシックバレエや民族ダンスなどの舞踊、プラハ・ソビエト学校の国際色豊かな子どもたちの歌々、とびっきりの美少女に「どハンサム」を鍛えるオリガ・モリソヴナの機知に富む叱声。実に宝塚向きではありませんか。

米原万里は、当初、この題材をノンフィクションとして構想したそうです。舞踊教師オリガ・モリソヴナもその反語法も実在しました。ソ連崩壊後に公開された史料の渉猟から、オリガの反語法の謎が浮かび上がってくる小説の筋立ては、そのまま米原の取材活動をなぞっています。自伝的小説であり、ベリアは実名で登場してその犯罪を暴かれるし、引用されたラーゲリの体験手記の筆者にインタビューもし、スターリニズム下で流転する登場人物の多くに実在のモデルがいるようです。

亀山がいうように、もしこの題材をノンフィクションにしたなら、スターリニズム圧制下に過酷な運命を強いられても、なお人間は人間であるという「反語法」を描くことはできなかったでしょう。「反語法(二枚舌@亀山郁夫)」とは逆説(パラドクス)のような純論理ではなく、何より発語であり行為だからです。人間は人間であるという順接を繋ぐ「反語法」の全体性の記述は、小説でしか成し得ない。亀山の解説をそう読みました。

したがって、日本には日本の「反語法」があるはずです。その担い手は、米原万里のように女性の中から出てくるのではないかと考え、唐突ですが、「宝塚過激に」といったのです。「オリガ・モリソヴナの反語法」とはたんなる言葉遊びなどではありません。ポジをネガに、ネガをポジに、現実を反転させて見せる先鋭的な表現であり、自らと周囲を変えていく力を持ちます。国家や権力を所与のものとは考えない女性こそ、「反語法」の遣い手にふさわしいと思えるのです。

オリガ・モリソヴナはすでにいっています。
「僕の考えではだって? 七面鳥だって考えるけれど、結局はスープの出汁になってしまうんだよ」

米原万里は何冊もエッセイ集を出していますが、小説はこの一冊しか書かなかったようです。しかし、この作品だけで後世までその名を記憶されるでしょう。私も、『オリガ・モリソヴナの反語法 』を読んだ幸福をけっして忘れないと思います。

(敬称略)