超級龍熱

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龍熱の昭和プロレス放談seasonⅡ② 遂に発掘されたジャイアント馬場vsビル・ロビンソン最後のPWFヘビー級戦!

2018-08-23 22:31:25 | 龍熱の昭和プロレス放談
さて「龍熱の昭和プロレス放談seasonⅡ」第2回ですが、今回は1980年10月に愛知県体育館で行われたジャイアント馬場にビル・ロビンソンが挑戦したPWFヘビー級タイトルマッチでいきたいと思います。
アントニオ猪木とプロレス史上に残る名勝負を見せたビル・ロビンソンを新日本から引き抜いた馬場さんは76年7月に蔵前国技館(画像のポスター参照)でロビンソンの挑戦を受けると、アッサリとロビンソンから2ピンフォールを奪い勝利し、ある意味馬場さん得意の“対戦者比較論法”により「猪木が引き分けたロビンソンに2ピンフォールで勝った馬場の方が強い」を高らかにアピールします。ただこのロビンソンから日本人として初めて2ピンフォールを奪ったことで馬場さんは後々ロビンソンに様々な形で“借り”を返していく事となるのですが、それは後述としましょう。
その後、馬場さんとロビンソンは77年9月に小樽で再度PWFヘビー級戦を闘い、ここでは1対1から両者リングアウトの引き分けとなります。そう、ロビンソンも初対決では馬場さんに2ピンフォールを許しましたが、その後馬場さんとの全てのシングルマッチ(チャンピオンカーニバルも含めて)では2ピンフォールを許す事は2度とありませんでした。まさにそれこそ英国最強の男のプライドだったのでしょう。
で、ここからが今回の本題です。実は馬場さんとロビンソンは愛知でもう1度PWFヘビー級王座を懸けて闘っているんですが、私はこれまでこの馬場vsロビンソンの3度目の対戦の映像だけがどうしても入手出来ませんでした。当時確かにTV放送もされましたし、国内の強者コレクター諸氏は所有していたのかも知れませんが、何故か私のネットワークには中々引っ掛からなかったんですね。
ところが!最近私が入手したビル・ロビンソンの海外DVDセットにこの幻の馬場vs ロビンソン戦3度目の対決がアッサリと収録されていたのです!!この馬場vsロビンソン最後のPWF戦ですが、レア映像ながらさすがに古い試合なだけに画質が余り良くない上、何と60分3本勝負の1本目が丸ごと欠落していて、実際の映像はロビンソンがワンハンドバックブリーカーで1本を先取(実況の松永アナの説明で判明)した後の2本目の途中からの収録となっていました(涙)。
この2本目は馬場さん必殺のジャンピングネックブリーカードロップがロビンソンに炸裂し1対1のタイスコアとなり、決勝の3本目はロビンソンが馬場さんの奇襲攻撃である足四の字固めに苦しみながらまたもワンハンドバックブリーカーで馬場さんを追い込み、そのまま場外でロビンソンのワンハンドバックブリーカーと馬場さんのアトミックドロップの応酬から場外両者リングアウトの引き分けとなりました。
私がこの馬場vsロビンソンをどうしても見たかった理由の1つに果たしてロビンソンがファンクスやジャック・ブリスコに次いで馬場さんの巨体をダブルアームスープレックスで投げたのかどうかだったんですが、どうやらそれは馬場さんが“世界の馬場”の誇りから最後までロビンソンにそれを許さなかったようです。
また試合自体も両者の初対決で見られたロビンソンのタックルで1度は倒れた馬場さんが全日常連外人レスラーのファンクスやハーリー・レイスの倍のスピードでロープに走るロビンソンの攻撃に備え必死に起き上がる、といったスリリングな攻防は既に影を潜め、ややマンネリ的な闘いに終始していたのがちょっと寂しく感じたのもまた事実でした。そういう意味では“人間風車”ビル・ロビンソンも、ジャイアント馬場の“王道”に取り込まれてしまったのかも知れませんね。
アントニオ猪木とビル・ロビンソンのNWF世界ヘビー級タイトルマッチは60分3本勝負というプロレス古来の試合形式を縦横無尽に駆使した、言わば3本勝負スタイルの最高傑作でした。その猪木が死闘の末にやっと時間切れで引き分けたロビンソンから日本人として初の2ピンフォールを奪う。この偉業と引き換えに馬場さんはロビンソンに何を与えたのでしょうか?
まずロビンソンは馬場さんからPWFヘビー級王座を強奪したキラー・トーアカマタを必殺のワンハンドバックブリーカーで倒しPWFヘビー級チャンピオンとなります。これは馬場さんが猪木と引き分けたロビンソンに直接負けるわけにはいかないためカマタをワンクッション間に入れた形でのロビンソン栄冠劇でした。ロビンソンはアブドーラ・ザ・ブッチャーにPWF王座を明け渡しますが、それもロビンソンが膝を負傷したため戦闘不能となっての(2ピンフォール負けではない)敗北でトップレスラーのロビンソンには傷がつかない王座転落でした。
さらにロビンソンは今度は全日本の若きエースであるジャンボ鶴田からUNヘビー級王座を奪取すると、ジャンボ相手にタイトル初防衛に成功しUN王座を海外に持ち帰ります。結局フロリダまでロビンソンを追いかけて来たジャンボにUN王座を明け渡しますが、これも試合中にブッチャーが乱入するという“アクセント”が付く形でのロビンソンの王座転落でした。
その後も馬場さんはロビンソンを世界最強タッグの常連外人として毎年来日させるなど、最後までロビンソンに対する厚待遇は変わる事はありませんでした。この馬場さんのロビンソンに対する厚待遇が馬場さんのロビンソンに対する“感謝”の思いだったのか、それとも馬場さんとロビンソンの間に何らかの“約束事”があったからなのか、それも2人が共に鬼籍に入った今となっては知る術はありません。
それでもアントニオ猪木のNWF世界ヘビー級王座に続いて、全日本におけるジャイアント馬場の象徴であるPWFヘビー級王座に3度も挑戦するという偉業を達成したビル・ロビンソンこそが昭和の時代における最強外国人レスラーであった事だけは間違いのない事実なのです。嗚呼、昭和プロレスよ、永遠に‼
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