徒然なるままに…なんてね。

思いつくまま、気の向くままの備忘録。
ほとんど…小説…だったりも…します。

二十歳…秋色…。

2008-10-05 21:40:40 | 短篇
 二十歳…その夏の終わりに…ほんの数日だけの臨時のバイトをした…。
馴染みの店の主に誘われて商品の棚卸しを手伝うことになったのだ…。
いつもこの店で眺めている商品を、売る側として見るのはなかなか新鮮だった…。

 スキャナーもPOSもない時代…広い店の中の商品をリストと照らし合わせながら調べていくのは根気の要る作業だったが…まんざら嫌いな仕事ではない…。
黙々と働くことが…わりと性に合っているのかもしれない…。

 昼休み…昼食のために外へ出たものの…店の周辺にはあまり馴染みがない…。
駅前にあるバイト先は、普段、電車からバスに乗り換えるための時間潰しに寄るところ…毎日10分から20分ほどのお付き合い…。

 そんな状態だから、この店の他には行きつけの食堂や喫茶店もないし、何処にどんなものがあるのかもほとんど知らない…。
どうしようかと…しばし…思案…。

 ひとつだけ…思い出した店があった…。
バイト先と駅を挟んで反対側の枯葉色の新しいビル…そこに写真スタジオに併設された小さな喫茶店がある…。
以前…一度だけ…そこで食事をしたことがあった…。
そして…ほんの一瞬だけ…心惹かれたささやかな記憶も…。

あの人は…居るだろうか…?

 思いつくと足は自然にそちらへ向かった…。
坂に立つこのビル…短い階段を昇ると…其処がこのビルの1階…。
カウンターと幾つかのテーブルだけの小さな店…。

カウンターの向こうから…いらっしゃいませ…と…笑顔の声…。

アンティークドールのように瞳の美しい人…。
仕事柄…濃いめに化粧はしているけれど嫌味じゃなくて可愛らしい…。
自分より年上だということは分かるけど…どのくらいと言われても答えられない…。

ちょっとどきどきしながら…席につく…。

 注文をとりにきたその人に…メニューを見る余裕も無くて…以前に注文したのと同じドリアを頼んだ…。
初めて此処に来た時…ドリアという名前が珍しくて…試しに食してみたのだ…。

 今ほど外食事情が豊かでない時代…ドリアはバイト代1時間分余に相当した…。
学食で食べれば…カレーなら半額以下…。
けれど…それを高いとは思わなかった…。

 懐に余裕があったわけではない…。
見栄を張ったわけでもない…。
なんだか…理由もなく…満足できたから…。

 二日目も…そして三日目も…。
その小さな店に行っては…同じものを注文した…。

 四日目に…その人は…まるでよく知っている人にでも出会ったような…とびっきりの笑顔を見せてくれた…。
食事をしている最中に…ふと眼が合った刹那の出来事だった…。

引きつったような笑みを返して…すぐに俯いた…。
胸が高鳴った…。

けれど…。 

 その日が…このバイトの最終日だった…。
良く働いてくれたから…と…店長が思い掛けなく時給をアップしてくれた…。
貧乏学生にとって…それはとても有り難い心遣いだった…。

 それからも毎日のように元バイト先には顔を出していたけれど…あの店に行く機会はついぞなかった…。
通っている大学は10も先の駅…昼飯時にちょっと寄れる距離ではない…。
昼時になれば学食に行って、分相応に安い日替わり定食などを食した…。

 それから…4年…5年かもしれない…。
近くまで出向いたついでに…ふらっとあの店のあったビルに立ち寄った…。
久しぶりに…ドリアでも喰おうか…と…そんな軽い気持ちで…。

そのビルは…もともと駅前にしては閑散とした建物だったが…相変わらず活気があるようには見えない…。

 ビルの中はすっかり様変わりしていて、空きスペースや知らない店ばかりが並んでいる…。
探すまでもなく写真スタジオはそのまま残っていた…。
けれど…あの店はもう何処にもなくて…スタジオの延長スペースと化していた…。

無論…あの人の笑顔も…其処にはない…。

 短い階段を降りながら…溜息をついた…。
横目に見上げる秋色のビルが…少しばかり…沈んで見えた…。