何も知らない藤宮の時子から親切にも家族宛に、一左が無事温泉へ到着したので安心して欲しいという連絡がはいった。
時を同じくして、透の周辺が俄かに慌しく動き始めた。
『宗主が留守の時ぐらいは皆を労ってあげないとね。』などという尤もらしい理由で、修から特別ボーナスと休暇を与えられた使用人たちは喜んで思い思いに出かけていった。
はるだけは母屋に残っていたが、留守居役としては適任者だった。古くから紫峰家に仕えている家系の女だけに、正当な権利を奪われた気の毒な総領さまこそが正しい系統だと考えているらしく、修には忠実そのもの。利口な女で機転も利く。亡くなった修の祖母蕗子から一左に不審なところありと耳打ちされていたようだが、そのことは噯にも出さずにいた。
紫峰家の奥まったところにある祈祷所か礼拝所のような離れにはすでに次郎左を始め皆が顔を揃えていた。建物の入り口にはソラが陣取り、閉じられた外の扉と中の扉との間には中央に雅人を配して悟と晃が控えていた。
奥の間には、上座に次郎左、貴彦、黒田が座し、その前に透が向かい合うようにして座っていた。輝郷は万が一妻から連絡があったときのために自宅にいて、ここに同席はしていなかった。
「雅人がこの建物に結界を張った。悟と晃が何かあったときのために補助に入る。この部屋自体にも黒田が結界を張っている。ここは完全に外とは隔絶されておる。」
次郎左が一つ一つを確認するかのように言った。
「では、前修行を始めるぞ。」
次郎左のその言葉に透は目を見張った。
「前修行…大叔父さま…では今までのは…?」
「あんなものただのお遊びじゃ。奴めにでたらめを教えてやったまでのこと。」
そう言って次郎左はカラカラと笑った。
「冗談はさておき急がねばならぬ。三左もいつまでも気付かぬほど馬鹿ではないぞ。」
次郎左がなにやら合図をすると貴彦も黒田も姿勢を正した。
「それにな。おまえに相伝を行うのは俺ではない…。」
では誰が…と言いかけて透は自分の背後から近づいてくる人の気配にはっとした。
それまで姿の見えなかった修が確かに今自分の後ろにいる。修はそのまま透の脇を通り越し、上座へ進んだ。
上座中央にいた次郎左が席を空け、その場の大人たちは皆修に対して深々と頭を下げた。
修は静かに中央に座し、真っ直ぐに透を見つめた。
「我が紫峰の祖 樹の御霊にお願い奉る。この者に相伝の資格ありと思し召さば、前なる修行の道を授けたまえ。」
次郎左は床板に額をぶつけそうなくらい深く礼をしながら、修に対して言上奉った。
透の動悸が激しくなった。確かにソラは修を樹と呼んでいた。修が樹の生まれ変わりかも知れないことはソラの話からも想像できた。しかし、そのことは誰も知らないはずではないか。
「透…何をしている。樹の御霊に無礼があってはならん。拝礼を…。」
貴彦が低い声で囁いた。
あわてて頭を下げようとするのを修がそっと手を差し伸べて止めた。いつものように穏やかに微笑んだ修は立ち上げって透のほうに数歩進み出で、透の前で再び座した。
「言いたき事、聞きたき事、多々あろうが、今は時間が無い。唯一つ話しておくとすれば、修自身はすでに相伝を終えている。和彦が死ぬ前に修にすべてを託したのだ。まだ二つ三つの幼子であったが…。」
修はまるで他人のことを話すように自分の過去を語った。樹の霊に憑依されているのかとも思ったが、修の澄んだ瞳は正気であることを物語っている。
「すべては修自身から聞くがよい…。黒田…扉の前へ…。」
その言葉が発せられるや否や、黒田は扉の前へ陣取った。扉を挟んで雅人と黒田は背中合わせになった。次郎左は左、貴彦は右の隅へと退き、透と修を中心に三角形を結んだ。
「透…私の霊力とそなたの霊力には少なからず差がある。能力(チカラ)の差を埋めるのではなく、私と波長を合わせるようにすればよい。慌てずにゆっくりと…。」
修の全身から淡い光が立ち上り、それはあっという間に美しく強い光となって透の身体を包み込んだ。透は目を閉じ、その光を感じ取り、波長を合わせようと試みた。ところが修の光の波動と透の波動があった瞬間、いきなり透の身体は弾き飛ばされてしまった。
「透…もう一度。」
何度も何度も透はありったけのチカラを使って修の波長を捕らえようとするが、まるっきりかみ合わない。次郎左の前へ、貴彦の前へ、そして、一番その無様な姿を見せたくない黒田の前へと受身をする間もなく弾き飛ばされる。
繰り返すたびに転げまわされ、透はあちらこちらぶつけて打ち身だらけになっていった。何度挑んでもうまくいかない。ああかこうかと試しては見るが、一向に修と波長が合わない。修行を始めてからもうどのくらいたったのだろう。痛みと疲れで、目が回りそうになってきた。
「もう一度…。」
いつもは優しい修も今ばかりは鬼のように厳しく容赦ない。透は休むことも許されず、ただ繰り返し繰り返し修の放つ光に挑んでいくしかなかった。
次回へ
時を同じくして、透の周辺が俄かに慌しく動き始めた。
『宗主が留守の時ぐらいは皆を労ってあげないとね。』などという尤もらしい理由で、修から特別ボーナスと休暇を与えられた使用人たちは喜んで思い思いに出かけていった。
はるだけは母屋に残っていたが、留守居役としては適任者だった。古くから紫峰家に仕えている家系の女だけに、正当な権利を奪われた気の毒な総領さまこそが正しい系統だと考えているらしく、修には忠実そのもの。利口な女で機転も利く。亡くなった修の祖母蕗子から一左に不審なところありと耳打ちされていたようだが、そのことは噯にも出さずにいた。
紫峰家の奥まったところにある祈祷所か礼拝所のような離れにはすでに次郎左を始め皆が顔を揃えていた。建物の入り口にはソラが陣取り、閉じられた外の扉と中の扉との間には中央に雅人を配して悟と晃が控えていた。
奥の間には、上座に次郎左、貴彦、黒田が座し、その前に透が向かい合うようにして座っていた。輝郷は万が一妻から連絡があったときのために自宅にいて、ここに同席はしていなかった。
「雅人がこの建物に結界を張った。悟と晃が何かあったときのために補助に入る。この部屋自体にも黒田が結界を張っている。ここは完全に外とは隔絶されておる。」
次郎左が一つ一つを確認するかのように言った。
「では、前修行を始めるぞ。」
次郎左のその言葉に透は目を見張った。
「前修行…大叔父さま…では今までのは…?」
「あんなものただのお遊びじゃ。奴めにでたらめを教えてやったまでのこと。」
そう言って次郎左はカラカラと笑った。
「冗談はさておき急がねばならぬ。三左もいつまでも気付かぬほど馬鹿ではないぞ。」
次郎左がなにやら合図をすると貴彦も黒田も姿勢を正した。
「それにな。おまえに相伝を行うのは俺ではない…。」
では誰が…と言いかけて透は自分の背後から近づいてくる人の気配にはっとした。
それまで姿の見えなかった修が確かに今自分の後ろにいる。修はそのまま透の脇を通り越し、上座へ進んだ。
上座中央にいた次郎左が席を空け、その場の大人たちは皆修に対して深々と頭を下げた。
修は静かに中央に座し、真っ直ぐに透を見つめた。
「我が紫峰の祖 樹の御霊にお願い奉る。この者に相伝の資格ありと思し召さば、前なる修行の道を授けたまえ。」
次郎左は床板に額をぶつけそうなくらい深く礼をしながら、修に対して言上奉った。
透の動悸が激しくなった。確かにソラは修を樹と呼んでいた。修が樹の生まれ変わりかも知れないことはソラの話からも想像できた。しかし、そのことは誰も知らないはずではないか。
「透…何をしている。樹の御霊に無礼があってはならん。拝礼を…。」
貴彦が低い声で囁いた。
あわてて頭を下げようとするのを修がそっと手を差し伸べて止めた。いつものように穏やかに微笑んだ修は立ち上げって透のほうに数歩進み出で、透の前で再び座した。
「言いたき事、聞きたき事、多々あろうが、今は時間が無い。唯一つ話しておくとすれば、修自身はすでに相伝を終えている。和彦が死ぬ前に修にすべてを託したのだ。まだ二つ三つの幼子であったが…。」
修はまるで他人のことを話すように自分の過去を語った。樹の霊に憑依されているのかとも思ったが、修の澄んだ瞳は正気であることを物語っている。
「すべては修自身から聞くがよい…。黒田…扉の前へ…。」
その言葉が発せられるや否や、黒田は扉の前へ陣取った。扉を挟んで雅人と黒田は背中合わせになった。次郎左は左、貴彦は右の隅へと退き、透と修を中心に三角形を結んだ。
「透…私の霊力とそなたの霊力には少なからず差がある。能力(チカラ)の差を埋めるのではなく、私と波長を合わせるようにすればよい。慌てずにゆっくりと…。」
修の全身から淡い光が立ち上り、それはあっという間に美しく強い光となって透の身体を包み込んだ。透は目を閉じ、その光を感じ取り、波長を合わせようと試みた。ところが修の光の波動と透の波動があった瞬間、いきなり透の身体は弾き飛ばされてしまった。
「透…もう一度。」
何度も何度も透はありったけのチカラを使って修の波長を捕らえようとするが、まるっきりかみ合わない。次郎左の前へ、貴彦の前へ、そして、一番その無様な姿を見せたくない黒田の前へと受身をする間もなく弾き飛ばされる。
繰り返すたびに転げまわされ、透はあちらこちらぶつけて打ち身だらけになっていった。何度挑んでもうまくいかない。ああかこうかと試しては見るが、一向に修と波長が合わない。修行を始めてからもうどのくらいたったのだろう。痛みと疲れで、目が回りそうになってきた。
「もう一度…。」
いつもは優しい修も今ばかりは鬼のように厳しく容赦ない。透は休むことも許されず、ただ繰り返し繰り返し修の放つ光に挑んでいくしかなかった。
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