永野宏三のデザイン館&童画館  アート日和のできごと

イスラエル国立美術館、ミュンヘン国立応用美術館、国立国会図書館、武蔵野美術大学美術館図書館他に永野宏三の主な作品が収蔵。

絵のような文。

2009-04-20 13:20:54 | 日記・エッセイ・コラム
小倉の松本清張記念館で開催されている“1909年生まれの作家たち”に紹介されている作家のひとり、「中島敦」さんのことが気になり、会場に改めて二度めの展覧に行く。きっかけはささいなことで、一月に見たその展覧会で、出展されている中島敦さんの自画像が気になったのである。その文学者が描く絵が凄くナィーブで情感がみずみずしく、メルヘンな世界を感じたのである。この1枚の絵で中島さんはどんな人だったのだろうと思ったのだ。同じく出展されている他の作家たちの自画像もあったのだが、感性に訴えかける中島さんの絵は特に僕の内面的な部分に響いてきた。展示されている資料に「山月記」というのがあった。機会にいろいろ調べてみた。ある資料にその文の事が紹介してあった。最後の方の文のイメージが凄くビジュアルな世界なので驚いた。まるで絵を見ているような文なのである。「一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、概に白く光を失った月を仰いで・・」。僕はこの小節にアンリ・ルソーの「眠るジプシー女」の絵を思った。静寂な空間の月夜。土の上に横たわる女の側に寄り添うように立つライオンの絵。虎とライオンの違いこそあれ、中島さんの世界はまるでルソーの絵のような世界なのである。年譜を読むと、中島さんは明治四十二年に生れ、昭和十七年に亡くなっている。短い生涯である。その時代にシュールでモダンな、このような表現があつたことに驚く。体が弱かったからか、感性がストイックな人に思える。だから自画像も見るほうに中島さんの感性がひたひたと伝わってくる。僕はいっぺんにファンになってしまった。


手と糸が織りなす刺しゅうの絵画。

2009-04-17 17:15:32 | 日記・エッセイ・コラム
先日から案内を頂いていた戸塚刺しゅうクラブ北九州支部会員のみなさんの展覧会を井筒屋で観る。表現された糸の世界を現実に見て驚く。手技でここまでできるのかと思う。微妙に淡い色で丹念に織られた作品は立体感もあり絵画的である。高度な技術である。観るものを圧倒する。しかも作家の方々がグルーブのみなさんと和気あいあいに楽しまれているのがうらやましい。僕も絵を描くが、作家が絵を描く時はどちらかと言うと孤独な作業である。描いた後は次ぎの行動が大事で、どうその作品を発表なりで世間に問うかである。展示の見せ方で、絵が二次的に動き出すし、会場に華が咲くし、人の交流も生れる。北九州には根っ子に素晴しい人たちが世界をつくっている。北九州の文化はすてたものではない。〈戸塚刺しゅう展“私達の街 北九州「安らぎをあなたに」”〉は小倉・井筒屋本館8階催場で、20日(月)まで。入場無料。


アナログな音から伝わってくる時代のエネルギー。

2009-04-16 18:55:34 | 日記・エッセイ・コラム
FMを聞きながら仕事をしていたら、ビートルズのホワイトアルバムの曲が流れていた。一気に70年代前後に戻ってしまった。ビートルズのその時代と言えば、グループが頂点に達していて、活動も音楽だけでなく、メンバーの行動ひとつひとつがカリスマ性を持つて、レコードを通して聴く側に音楽にメッセージを発信していた。“レット・イット・ビー”と“ホワイトアルバム”はその最もたるもので、その時、18の僕もからだの隅々まで、感覚的に音のメッセージが染みわたっていた。ドキュメント映画“レット・イット・ビー”は、3回くらい映画館にかよった。その頃はビデオなどというものは無く。映像的なものは、映画パンフレットかビートルズ関係の写真集くらいなものしかない。それでは満足できないから、何度も映画館に通った。18歳で映画館の入館料はきつかったけれど、それだけの価値があつた。その時代友だちと会って話す事は、ビートルズのメンバーが着ているファッションや容姿・動作にまで、勝手に思想性を持たせ、音と結び付けて、ビートルズ論みたいなことを子供ながらに真剣に話していた。今にしてみればイカレタ子供だつたに違いない。今でもラジオなどでビートルズの音が流れてくると、今でもその時のエネルギーみたいなものが体中に甦ってくる。


街の勢い。

2009-04-15 17:47:31 | 日記・エッセイ・コラム
今日の新聞に小倉駅北口のコンベンション施設がガラーンとしていると書かれていた。新聞記者の目で書かかれたものであろうが、そう言われるとたしかにに人の気配が少ない。でも、てきめんに活字になると北九州市民としては寂しい。いつごろから小倉都心は人が減ってきたのだろうか。17、8年前まではほどほどに活気があったような気がする。企業が福岡に流出しているから人が減るのだろう。そんな中、以前これも新聞に取り上げられていたが、中堅ゼネコンの若築建設が九州支社を福岡から若松へ移転させたと報道があった。若築建設は創業が若松であり、心意気でそうされたのだろうか。街はどんなに箱物などで形をつくっても、人の関りの無い街はあまり楽しくない。人が住んでいる街の歴史やその街の文化なりを知ることから、この街なるものを人がつくるのではないかと思う。


ショウワ。

2009-04-13 18:55:44 | 日記・エッセイ・コラム
木村伊兵衛さんの写真集「木村伊兵衛の昭和」を古本で手に入れる。木村さんの写真は時代の風俗や庶民の生活をリアリズムに表現される。買った本は戦前から昭和48年まで撮影された日本の風景だ。主に東京の街角が撮られているが、今の時代にもリアルに見るものに迫ってくる。まちかどでギターとハーモニカを吹いているロングヘアの若者の写真は、たぶんフォークソングが流行った時代のものだろう。かなり昔のもので傷痍軍人が街角で白い着物の軍隊帽で物乞いしている写真もある。傷痍軍人と言えば、28年前くらいまで、小倉の井筒屋と紫川の間に小さな公園があって、その辺りの地下道があった。今でいう勝山通りを地下で繋ぎ、井筒屋の地下食品売り場に繋いでいたが、その地下道に傷痍軍人のかっこをしていた人がアコーディオンを弾いていた。その頃は小倉の町は活気があり、東映会館では当時若い人がブランドものあさりをしていたいた頃。その時、何で時代遅れの物乞いがと思った。その頃、「飛べない飛行船」というグループがその小さな公園で演奏していた。そのグループは小倉初、全国ターゲットのバンドとして、ローカルFMなどでもてはやされていた。