永野宏三のデザイン館&童画館  アート日和のできごと

イスラエル国立美術館、ミュンヘン国立応用美術館、国立国会図書館、武蔵野美術大学美術館図書館他に永野宏三の主な作品が収蔵。

唄声。

2011-04-30 05:45:04 | 日記・エッセイ・コラム
Fさんから誘われて少年少女合唱団のコンサートを聴きに小倉の芸術劇場に行きました。4年前にも聴いたことがあります。見事に整い通る声。聴いていて日頃は相当の練習をしているのがわかります。
オズの魔法使いを上演したミュージカルの部も最高でした。何だかここのところ社会に不穏な空気がただよっていてすっきりしていなかったのですが、子どもたちの唄う様に癒されました。
コンサート後、久しぶりに小倉の夜を歩いてみたのですが、通りは人が少ないようです。元気な小倉になってほしいですね。
久しぶりに立ち寄った中華料理屋の焼きビーフンとギョーザを楽しみました。味は変わっていずグッドでした。



ガロ。

2011-04-26 19:26:49 | 日記・エッセイ・コラム
何十年とずうっと目の前から消えていた本が出てきました。本といってもマンガ本ですが、ぼくにとっては貴重な本になります。本棚の奥から、うむっ、見覚えのある表紙束が、表紙につながって金色のベタにくっきり墨色で『ガロ』のタイトルロゴです。ロゴは温かみのあるヒューマニズムあふれるデザインです。絵は白土三平さんの肉筆によるカムイ伝です。油彩かポスターカラーで描かれています。ブログに本の写真を載せたいのですが、作者絵著作権のことがあるので、束タイトル部分のみを。

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伝説の青林堂の発行です。編集長はこれまた伝説の長井勝一さんです。朝ドラ『ゲゲゲの女房』でも出てきたインテリジェンスな編集長です。
「わあっ!」。思わず叫んでしまいました。1970年2月号・ガロです。白土三平・カムイ伝58回、滝田ゆう、つげ義春、つげ忠男、林静一さんらの作品が掲載されています。林静一さんの作品『赤色エレジー』はタイトルからして、当時の時代が感じられます。この四畳半アパート感覚がフォークミュジックでも唄われました。
70年の発行ですから、大阪万博が開催された年の本です。事件といっていいのか、最後の文士という名が似合う三島由紀夫さんが自害されたのもこの年です。
他の号は人に回して戻ってこなかったり、人にあげたりでぼくのところにはこれくらいしか残っていません。ほかに『日本文芸社発行・カスタムコミック』も本棚の奥から出てきました。いまのアニメ時代とは違い、このころがマンガの発酵熟成期だったのではないでしょうか。70年。ガロはあまりにも文学的すぎます。ガロは漂泊する時代に読者のこころをしっかりわしづかみ満たしてくれる漂泊するマンガでもありました。



思考の種を蒔き、培養し、収穫した70年代前後。

2011-04-23 17:00:17 | アート・文化
今の時代は何かしら、どこかしこの場面で壁を抜けきらない、もやもやしたような空気が立ち篭めているようなイメージがします。
70年代前後は現在とは社会状況がまったく違う時代でしたけれど、ものごとの掴みどころはパワフルにそして精神的に得るものがありました。
日本独特というか通念というか、あいまいで不確実な社会スタイル(今の時代もこのあいまいさは変わっていませんけど、あいまいさの持つファジーいうかアンバラスなスタイルが、今日のようなグロ-バル化する前までの日本を支えていたのでしょうが)の状況にうねりで新境地を求めていた時代だと思います。あいまいさという虚像と新境地の境目にアートも変化を試みようとした時代でもあったように思います
回顧的になりますけれど70年代前後といえば、わたくしごとですがぼくは17から20歳のころ。今思うと恥ずかしくなるけれど、アートに生きるぞ!と粋がっていて、生活の全てにデザインとアートをコンバイン結び付けたような毎日を消化していました。被れていたんですかね。今でも底にあるものはそんなに変わりませんけれど。この時期は大阪万博もあってアートが商業化された時代でもありました。
このころ北九州の公立美術館は八幡駅前にありました。九州でも先端をいく展覧会がありアートファンから注目されていた存在でした。今は市民会館と併設した市民ギャラリーになっています。また、小倉にあったデパート玉屋では斬新な企画の展覧会をやっていました。このころのデパートは豊富な資金を持っていたのでしょうか、公立美術館にもできない展覧会ばかりでした。たぶんパッケージ企画としての全国巡回展だったと思います。
それまで、ぼくが感化されていたのはカルダーやピカソ、マチス、マグリット、クレーなどのアートでしたが、東京を経由して地方にも情報として入ってきたアメリカのアートに取り憑かれるようになりました。当時アメリカのアートはポップアートの最前線、ちょっと際物的な面もありましたけれど、日常の車やファッション、食べ物などの身近な情報がアートになるという考え方にかなり感化されました。こういうアートの思想がおもしろかったです。ただ田園風景や花瓶などを絵に描くのと違い、大げさにいえばアートやデザインにも思想が必要なんだなという啓示を受けました。現象軸が思考軸になる時代でした。美術手帖、みずえなどが情報源でした。
マスプロダクション・商業的に培養し始めたポップアートはみずみずしく体内にしみこんできました。
マルセル・デュシャンにはじまり、ウォーフォールのヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ジャスパー・ジョーンズ、ジョージ・シーガル、ラウシェンバーグ、デ・クーニング、オルデンバーグのアート。廃車などスクラップを組み合わせるジャンク・アートなどなど。
ジャスパー・ジョーンズの描くアルファベットの羅列、アメリカ星条旗やアメリカ合衆国の地図がアートになるなんて、それまでの固定された価値観が、ガラッとひっくりかえったような気がしました。
このころ読んだマクルハーンの記述『メディアの理解?人間の拡張』にある「印刷や青写真、地図や幾何学がなかったら、近代科学やテクノジーの世界はほとんどありえないだろう」のことばが、ジョーンズの描く星条旗や地図が表しているのだと、ぼくは観念的にですが捉えてひとり悦に入り楽しんでいました。
夜行列車に乗って、有楽町そごうでのウォーフォール展を観にいったりしたのもこの頃です。そうかと思えば、日宣美展にデザインの学習をもとめたり、プッシュピン・スタジオのミルトン・グレイサーとシーモア・クワストのイラストレーションに憧れたり、谷内六郎さんの描く週刊新潮の表紙絵に景仰してみたりもしました。余談ですけど、シーモア・クワストさんのスタジオには38歳のころに不躾にいきなり訪ねたことがあります。
今という現在から顧みるとそれらのことはすべて古典ですが、でも、70年代前後はあらゆるものごとの価値を焦点移動させて変貌させる時代の試みであり、分水嶺の時代でもあった思います。不確定なものの現象が一夜にして創造の開放へと繋ぐ変種する、云わば思考の種を培養して収穫する時代でもあったのだと思います。今でも思うと気持ちが高揚してきます。



大陸からの風。夢想う門司港。

2011-04-19 06:32:32 | アート・文化
明治・大正・昭和・平成。いつの時代も門司港には夢という風が吹いています。
海峡は時には喜びを運び、時には悲しみを押し流します。
きょうも大陸からの風が夢というかたちになって、この町を育んでいます。


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門司港。〈C〉永野宏三・ひろみプロ



“夢のカリフォルニア”。“青い影”。

2011-04-16 06:13:57 | 日記・エッセイ・コラム
一日中、FMラジオをつけっぱなしにしています。手は机の上で動いていますが、耳には結構情報が入ってきます。先月11日の大地震による津波警告情報は、クラシック音楽が流れていて突然に緊急告知に切り替わり14時20分に流れてきました。25分後には恐ろしい現実のものとなり悲しい状況になりました。
FMは時には青春の時代に時を逆回転させてくれることもあります。世界の音楽・日本の音楽という番組で、60年から70年代に風靡した『ママス アンド パパスの“夢のカリフォルニア”』『プロコル ハルム“青い影”』のノスタルジックな音が流れてきました。一気に当時に還ってしまいました。
ママス アンド パパスと云えば60年代のグリニッチ・ヴィレッジ フォーク・サウンドでぼくたちの耳を奪ってしまいました。ビートルズもよかったのですが、精神的にぐっとくる“夢のカリフォルニア”は最高にGOODでした。おなじくプロコル ハルム“青い影”は深夜にレコードを回し聴くと、なかなか心の奥に染み渡ってくるものがありました。“青い影”のタイトルがいいですね。なんかミステリー小説のタイトルを彷佛させるものがありますが、それとは違いナィーヴな音と唄で切々と訴えかけてきます。
グリニッチ・ヴィレッジを訪ねたことがあります。ボブ・ディランなどがNYで音楽を模索していたという伝記ものを読んだりして、特にグリニッチ・ヴィレッジはフォークのメッカであったわけで、ぼくにとっては音を精神的なものとして受取っていました。グリニッチ・ヴィレッジは古いビルが立ち並ぶしっとりしたした街で若い学生らしき若者が多かったです。アーティストが多かったのではないでしょうか。ディランも影響を受けたビートニク詩人・アレンギンズバーグがこの時代いろんな場面でムーブメントをおこしました。
コンピュータから音をつくられたものと違い、当時の音楽は楽器からくる音とアーティストのハーモニーが融合される息づかいというか、そんな音が惹き付けてくれていたような気がします。