永野宏三のデザイン館&童画館  アート日和のできごと

イスラエル国立美術館、ミュンヘン国立応用美術館、国立国会図書館、武蔵野美術大学美術館図書館他に永野宏三の主な作品が収蔵。

城下町の小倉。

2008-11-30 18:43:14 | 日記・エッセイ・コラム
紅葉の小倉城を観る。銀杏や桜の鮮やかな紅葉の色を楽しむ。小倉城界隈で前々から気になっていた旧陸軍第十二師団の資料を探す。江戸幕藩体制、明治・大正から昭和の大戦、戦後、進駐軍時代の小倉城は北部九州の要としての歴史痕跡に興味がある。近代小倉はどう見ても軍事都市としての機能がとられている。背景に八幡製鉄が当時の国の経済基盤を成しているしアジアがある。そこから派生して北九州のあらゆる文化に連なって独特のものがあるから興味がそそられる。城を中心として勝山公園あたりにはそれらしき記念碑が残っている。今も残る指令部跡の門で観光をしている中国人の若いアベックが写真を撮り合っこしてはしゃいでいる。彼等はこの門をどういう風に感じているのか気になる。今日はやたらと中国の人達が多い。たぶん観光ツアーなのだろう。小倉城の木々の隙間から黒原の足立山方面を眺めてみると、市庁舎を中心に高層ビルが増えていて、空の空間が狭くなっていることに気づく。小ぢんまりした佇まいの小倉城周辺はしっとりとしていて城下町の名残りを僅かだが偲ばせてくれる。歩きすぎたせいかお腹が空いたので、久しぶりに京町のはるやうどんで、そばといなりを食べる。しめて540円。値段は変っていない。やはり味もしっかりしていて変っていない。汁を残らず最後まで吸う。実に美味しい。小倉の味である。その後、鍛冶町の森鴎外旧居に足を伸ばし、鴎外の小倉時代背景にある十二師団のことを調べる。


思い出の「かかしうどんの牛すじ煮込み」味。

2008-11-29 17:44:46 | 日記・エッセイ・コラム
土曜の午後はゆっくりしているので時間を料理にする。昔、八幡東区・春の町にあるかかしうどんで食べた牛すじ煮込みの味が頭に浮かぶ。又、今日は寒いので暖かさが欲しいのと、思い出の煮込みその味を、自分なりにイメージを描き材料を考え丸和に買い出しに行く。牛すじ・こんにゃく・大根・玉葱・みず菜を求める。まったく費用はそんなにかからない。新鮮なサンマがあったので刺身用に買う。まったくヘルシーだ。うきうきしながら家路につく。さっそく料理にとりかかる。越路吹雪の「サントワー・マミー」をかけながら、野菜とこんにゃく、大根をカットする。鍋に醤油、砂糖、だしを入れて下地をつくる。煮たったところで、わくわくしながら素材を投げ込む。ほどよい時間がたち牛すじに箸を入れるとスーッと通る。このタイミングに七味唐がらしを少々ふりかけ、又煮込む。40分もすると全てがやわらかく味もしみて、いい感じ。さっそく家内に味見を促すが食べない。がっかり。家内は牛すじとかモツ類は一切食べない。不覚である。ひとり寂しく焼酎のお湯割りを片手に、サラ・ヴォーンが唄うビートルズのカバー曲「イエスタディ」を聴きながら牛すじ煮込みを食べる。ばつぐんに美味しい。かかしうどんの味と同じだ。頭に描いた味が出て嬉しくなる。


表情。

2008-11-29 08:15:26 | 日記・エッセイ・コラム
TV中継の党首討論で総理大臣と野党党首の表情を観察していたら、対照的におもしろかった。総理大臣は日頃の表情は見えない。変に浮ついたような表情と言葉で時間を過ごしている。片や党首はどかんと落ち着いた表情でさとすような言葉でゆっく喋っている。激論はない。だから論戦はひとつもおもしろくない。小ぢんまりとした動きのない社会の今の日本だから、政治もほどほどパフオーマンスだけで動いているのか。


光りの海を漂泊する。

2008-11-27 16:51:29 | 日記・エッセイ・コラム
朝から9時間ぶっ通しでパソコンに向っている。途中昼食もとらず、ただひたすら文字組みをしていた。モニターが通す光りの中を漂っているという感覚だ。終いにはほとんど目の意識が無い。脳も命令していない。光りに写しだされる活字を追っているだけだ。頭がボーッとしている。からだがモニターの中に入りこんだような感じだ。昔読んだ漫画で「テレビくん」があったが、テレビくんは親からテレビばかり見ていてはいけないと注意されるが、お構い無しにテレビにのめりこんで、とうとうテレビの中に入り込んでしまって、テレビから抜け出させなくなるといシュールな漫画だ。まったくそんな感覚に落ちいる。これではいけないと思い、仕事を止めて小雨の中を散歩に出る。競輪場あたりは桜や銀杏の葉っぱが道路いっぱいに落ちている。朱色やクロームイエローの葉の中をザックザックと歩くと気持ちがよい。葉の原色が目をやさしく射る。自然界の色は嘘がない。モニターの中の数値の色は硬く感じる。


アイキャッチ。

2008-11-25 16:54:16 | 日記・エッセイ・コラム
友人のTさんとメールで久しぶりに交流する。町歩きのこと。映画のこと。時勢のこと。Tさんは光景を写真など二次的な方法をとらずに、人間の目で捉えているような気がする。Tさんは対象物をTさんのわらかい目のエッジで観察しているような気がする。だから言葉を受ける方の心にスーッとやさしく入ってくる。わかりやすく言葉で語りかけてくれる。だから安心して聞ける。
今の時代はなんでも、やたらとぐさっとくるような映像や言葉で投げかけてくるから、こちらも感受の方法はエッジをかたくしてしまう。人の目はいつから、俯瞰する目を無くしてしまったのだろう。