永野宏三のデザイン館&童画館  アート日和のできごと

イスラエル国立美術館、ミュンヘン国立応用美術館、国立国会図書館、武蔵野美術大学美術館図書館他に永野宏三の主な作品が収蔵。

落ち葉

2014-11-24 09:51:18 | 日記
小倉南区葛原にある通りを歩く。高い背丈の街路樹がえんえんと続く。しっかりと黄色に色ずいた葉が頭上に連続的にはらはらと雪のように落ちてくる。通りには落ち葉の絨毯が続いている。このような光景はあまり日本では見られない。深い秋を実感する。


著作(C)HIRO 2014

ノスタルジーな通り道

2014-11-12 09:55:52 | 日記・エッセイ・コラム
町の素顔はいまに残る。
用事で小倉の赤坂から神幸町に向かう。砂津から行く方が交通の便はいいのだが、3号線から見る赤坂から富野界隈は古い街並が車窓から見える。いちども赤坂からの筋を行ったことがなかったので、日和もいいので歩いてみることにした。
幅3メートルほどの狭い道が神幸町方面にまっすぐ走っている。通りは想像していたとおりに、昭和の名残がある。たぶん昭和30年代のころの木造家屋がかなりのこっている。かつて商店が並んでいたのだろう。路地に入ってみると、掃除が行き届き、木造の出窓とか玄関の横に並べた植木鉢がよく手入れされている、どこの町にあった、いつか見た懐かしい風景である。
車のないころ、通りは人々が行き交い出会っていたであろう。町の匂いが、人の声があふれていたであろう。
いまも残る古い街並の通りは抜け道になっているのだろう、かなりのスピードでせまい道を何台も車がはしる白々しい通路になっている。
時は流れ消えていく懐かしい町、思い出の町から還ってくる在りし日の情景。それはノスタルジーのなかのこころの風景なのかもしれない。


絵を描く源泉

2014-11-07 08:54:30 | 日記・エッセイ・コラム
孫から絵手紙が送ってきた。ぼくとおくさんが散歩しているところを絵にしたらしい。おくさんはそれらしく描いていて表現している。ぼくを描いている表現は毛髪がゆたかに逆立っている。ぼくの髪は絵のようにはゆたかではない。電話で孫にぼくの頭の髪のことをたずねてみると、「おじいが孫悟空になっているところだよ」。なるほどこどもの表現は自由自在に思ったことを素直に描いていると思った。しかも、大胆な構図で画面に迫力がある。
ぼくはというと、このところまったく絵を描いていない。ぼくは絵で表現するということは、じぶんの中にある不透明な部分をさがしてそれを絵にすることだと思っている。いわば自分探しといったとろか。わかっている自分を表現することはあまりおもしろくない。描写は目に見える対象をデッサンすることが基本というが、見えないことをこころの奥底で描写することのほうががわくわくしてきておもしろい。いがいとひとは対象物をかたちとして見て脳に残像させることはできるものだ。じぶんのこころの中でまだ見たことのないイメージのかたちを描くことは想像して描くということだから、これはアートそのものだ。こどもの自由に描く絵は限りなくアートである。


加齢の仕業。

2014-11-06 09:52:16 | 日記・エッセイ・コラム
朝、ねこのブーを外の猫小屋の出してあげようと抱きかかえたとたんの腰に激痛が走る。そのままへたり込みテーブルに寄りかかり痛みに耐える。痛み収まらず病院へ。ドクターから若い時の感覚で物を持ち上げたらいけませんと諭される。
ブーの体重は4.6キロ。肥満猫。猫のせいにしても加齢はからだに警笛鳴らす。腹いせにブーのひげをつまんだら、怒ってフギャーと手をひっかかれた。自分が蒔いた所業にまた情けなくなった。仕打ちはするものではない。


表現するひと。

2014-11-04 09:47:19 | 日記・エッセイ・コラム
11月に入り休日の冷える午前中に、Sさんの作品展を門司駅近くの画廊喫茶こもれびに観に行く。
コンピューターで写真を画像処理したシンプルで個性のあるSさん作品に見応えあり。写真というより絵画アートの趣きあり。
店主のはなしで版画家のHさんがこの夏にとつぜん倒れられたらしい。この何ヶ月かYさんと音沙汰がなくどうされているのかなと思っていた矢先のはなしのショック。