永野宏三のデザイン館&童画館  アート日和のできごと

イスラエル国立美術館、ミュンヘン国立応用美術館、国立国会図書館、武蔵野美術大学美術館図書館他に永野宏三の主な作品が収蔵。

門司はどんより空の猛暑

2015-07-28 14:58:41 | 日記・エッセイ・コラム
この二,三日から猛烈な暑さの門司です。たしか、門司は梅雨明け宣言は出ていないとおもうのですが、すごい湿気の上の暑さです。空はスッキリとせず、どんよりとした曇り空です。
一週間前くらいから蝉の鳴き声がはじまったのですが、すっきり夏空ではないので耳にはうっとおしく響きます。夏空が待ちどうしい門司です。

夏色の門司の空。

2015-07-09 10:13:35 | 日記・エッセイ・コラム
門司にやっと夏らしい空が広がってきました。
この何日は憂うつでうっとしい天気が続いていましたが、七夕明けと同時にスカッとした気分です。玄関に七夕飾りを付けたご利益でしょうか。
まだ、梅雨明け宣言は出ていませんが。今日の空を見ていると、このまま梅雨明けに移行するような気がします。

門司港の市内電車に路線が二本あった頃。

2015-07-03 13:09:11 | 日記
ブログ前号に続いて、大正15年に作成された門司市街図に市内電車の路線が二本あったことが記されていた。
もうずいぶん昔のことになるが、東本町から小倉砂津に向けて西鉄電車が走っていたころのことが懐かしく思い出される。
そのズウーッとその昔、大正15年頃に東本町から清見町を抜けて田野浦方面大久保を終点とする市内電車が走っていたようだ。
門司港がかつて繁栄していた頃、狭い土地に官庁、港湾、鉄道、商社などが集結していて人口密度がかなりの高さで、居住地域は山手向こうまで広がっていったことは想像できる。
郊外から都心まで人を運ぶ市内電車が走っていた当時の町の様子を地図から俯瞰して想像してみると、歴史的に幻想都市としての性格を持たざるをえないモジコウの姿が見えてくるのである。

門司港に運河があった頃。

2015-07-02 12:52:16 | 日記・エッセイ・コラム
大正15年に発行された門司港の地図を見た。
現在の労災病院近くの倉庫街のある船溜りから、浜町を経て老松公園に突き当たり、関門トンネルを繋ぐ国道3号線を栄町に下り、右に折れ観光はね橋のある船溜り向かい弧を描いて川がある。川の名は堀川とあり、現在の老松町あたりは新川町となっている。
なぜ鎮西端という名が残っているのか不思議に思っていた。たぶん海に向かって川が流れていたというのは想像していたのだが、古地図を見て納得した。
近代国際港である門司港。たぶん海峡沿いの桟橋には何艘もの船が停泊していたであろう。二つの船溜りを繋ぐ河は港湾の築港時に大量の荷揚げと旧税関あたりへのスムーズな運送手段が必要になり人口の運河がつくられたようである。
新川町の地名の由来は新しくつくられた運河からきているのだろうか。堀川という名の由来も人工的に掘って出来た川だからなのだろう。
いまこの路線は国道や町の幹線を走行する車の流れる道路になっている。門司港は過去に思いを馳せることのできる町なのである。