永野宏三のデザイン館&童画館  アート日和のできごと

イスラエル国立美術館、ミュンヘン国立応用美術館、国立国会図書館、武蔵野美術大学美術館図書館他に永野宏三の主な作品が収蔵。

リアルな会話と共有。

2011-03-27 07:14:21 | 日記・エッセイ・コラム
今朝の門司の空は久々に雲ひとつなく、すがすがしく青空が拡がっていました。少しですが冷えこみのある空気感も気持ちのよいものです。この二週間、伝わってくる深刻な震災被害の報道で重苦しいバリアーが被っていたような気分になっていたのですが、朝の青空で少し安らぎをもらったような気がします。
昨日Mさんが久しぶりに訪ねてきて、やはり話題は巨大地震と原発のことでした。Mさんもこのところ気が重たかったらしく、仕事に手をつける気にならなかったらしく、悶々としていたそうです。
Mさんの関東に住む大学時代の友人の子供さんを非難ホ-ムステイ先としてMさんの家であずかっているそうです。
バスに乗っていたら、後ろ座席に子供ふたりに大きな旅行バッグ、そして付き添いらしき年長者、たぶんおじいちゃん。三人の会話が聴こえてきて、ふたりの子供の話しはやはり地震被害に合い家が無くなったとのこと。ふたりの子供は門司のおじいちゃんの家へ避難してきたようです。
ふたつの事例で門司にも現実として、間接的ですが震災を共有することになりました。
こんどの巨大地震による津波で街がそして小さなコミュニテイである町、そして人があっと云う間になくなってしまいました。そこで日々の暮しを営まれていた人たちの思いは相当きつく苦しいものであったと思います。決して全てが無くなったとは思いません、家、家族の記憶、大切なものはあたたかく心の中では記録となって消えることないとはないと思います。



思い、話す人。

2011-03-20 10:50:39 | 日記・エッセイ・コラム
タクシーに乗って行き先を告げたとたん運転手さんが話しかけてきた。地震と原発のことである。話しを聞いていると声がだんだんとオクターブが上がってきた。多面的にこの一週間の事象を批判しているのである。最もその鉾先はTV報道と政府、政治家のことである。
運転手さんは報道に出てくる若い女性アナウンサーとゲストの大学教授などのコメンテイター、報道ヘリコプターに憤懣を持っているらしい。女性アナとコメンテイターのやりとりが、直接現場も見ていないのに最もらしく、よくあんなに傍から話せますねと云うのである。報道ヘリは屋根やビル屋上で助けを求めているのにその上をカメラを構えて回遊しているのはおかしいと云う。政治家は日頃テレビで互いが云いたいことばかりの応酬で声を張り上げるのに、こんどの地震、原発では声を発しないと怒るのである。政治家はこんな時こそ義援金を出し合うべきですよねと同意を求めるかのように云うのである。
歳が45歳くらいに見える運転手さんは15分ほどの車中で、見ず知らずのぼくに一方的にまくしたてた。初対面の人には人見知りするぼくは「あ~っ、はぁ、はい、ああ」と、相づちを打つのみで、なんとも答えようもなく運転手さんの話しがだんだん耳には遠くなってきた。目的地に着くとほくは「お世話になりました。じゃあ、では」と代金を払い車を降りた。
たぶん、確かに、運転手さんは怒っていたのである。怒りの鉾先が客観的にTVなどからの情報に自分の思いが膨らんで気持ちがどうしようもなかったのだろうとは推察できるけど、そして、気持ちを同じに共有したかったのだろうか。
TV画面からは始終映像が流れて、情報がワード文字になり瞬時に流れているし、インターネットへの情報問い合わせの誘導も促している。IT革命が叫ばれて15年ほど経つが、複雑な情報空間を持ってきている現代社会ではある。震災被害に合われた人たちは情報がないので不安と訴えている。情報社会は危機に襲われると意外と簡単に座標軸を失い底が不安定になるものかもしれない。運転手さんの話しを聞くぼくとしてはやはり何とも言えず返す言葉はなかった。



壁を覆うデザイン。

2011-03-16 09:42:05 | 日記・エッセイ・コラム
甚大な被害をもたらした巨大地震。そして福島原発不具合。すごくショックです。
40年前に装置建設されたという福島第一原発1号機。40年前といえば、人類の進歩をうたった1970年大阪万博開催前後あたりです。福島とは立地は違いますが、東海村原発にしては1957年に原子の火というフレーズと共に火を灯しています。1945年の終戦から12年後に原発を建設しているわけです。当時、トランジスタラジオができたころで、真空管程度の時代の原発です。もちろんメンテナンスをしながらでしょうが、当時の原発機器を現在に至るまで使用しているわけですから、かなり恐いものがあります。「地球は青かった」。ソ連ではじめてガガーリンがロケットに乗って大気圏外に出たのもこの年くらいです。
高度成長期からバブル期を経て、現在まで大都会東京のエネルギーを支えるため地方で支えてきた原発。考えるとかなり矛盾しています。
8年前くらいに、どんなところかと九州のとある原子力発電所を見学にいったことがあります。周辺も施設内も妙にそして異様に静かすぎるくらいの環境と、いわゆるエコを強調した施設のデザインに違和感を憶えたことがあります。
報道で露出している建屋という原発を覆う箱型の壁にさざ波らしき模様を白抜きで配置したスカイブルー。そのデザインはやさしさや快適さを強調しているのでしょうか。現代はあらゆる場面でデザインに機能を求めて事を動かすというパブリックコミュニケーション・リレーション的役割で社会を動かそうとしていますが、チョコレートを美味しいとデザインで誘導するパッケージの性格のようにはいきません。視覚的なデザインは異常事態という危機管理まではデザインできません。



今と15年前。

2011-03-14 10:32:45 | 日記・エッセイ・コラム
東北関東大地震にショックを憶えました。TVと新聞の災害映像が刻々と状況を伝えてきて恐怖のみが伝わってきます。
15年前に福岡空港から仙台空港に飛び、のどかで美しい田園風景風景を抜け仙台市内から三陸海岸沿いへと北上し、岩手から秋田へ抜け、青森、そして仙台に戻る旅をしたことがあります。
それぞれの土地と人々に出会いあたたかいおもてなしをいただいたことを憶えています。九州の赤っぽい土とは違い、東北の土は黒かったのが印象的でした。人は皆やさしく親切で楽しい旅の思い出が残っていました。それだけに今回の地震では多くの方が亡くなられそして当地で甚大被害に合われたみなさんのお気持ちを察すると、この三日間は気分が重くなるばかりです。ラジオから刻々と逐一流れてくる安否情報に、ただただ何とか頑張っていただきたいと念ずるものです。そして、自分ひとりの力は小さいですが、ささやかですが自分として被災地のみなさんに何ができるのか考えたいと思います。




門司港。港町の匂い。

2011-03-10 10:13:35 | 日記・エッセイ・コラム
“忘却”の中にあって、記憶の種を蒔こうとすると、忘却はさまざまな形で身を潜めているものです。
時が刻々と過ぎゆく時は、忘却は灰の中にかすみ、記憶の形の輪郭がぼやけて見える時があります。
門司港・港町の匂いは、忘却の中の記憶に今も留まっています。海峡の匂い。船の匂い。ディーゼル・エンジンの匂い。鉄道の匂い。倉庫の匂い。それは、ひょっとしたら風にも流されるような匂いかもしれません。
明治・大正期の国際港湾都市としての性格をもって、日本の近代化過程の側面を物語る港町の姿であり、経済発展のための機能だけを持った都市としての一時代の偽りの姿であったのかもしれません。時代、時代に築かれた港・鉄道・倉庫は、今の時代には遠い時代の思いが匂いとなってかすかに残されていますが、町の様子は少しづつかたちを変えてニュートラルで味気のない希薄で現代的な匂いに変わってきています。
このブログで以前に書き込みしましたが、東港の倉庫街は形を少しづつ崩し、匂いさえ消えつつあります。つい数年前までは保税倉庫からの小麦粉の匂いがあたりの町の特徴を出していました。でも、消しても消せない痕跡。それは忘却の中の記憶の匂いだと思います。


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倉庫内には入ってはいけません。火気厳禁。〈C〉永野宏三・ひろみプロ