永野宏三のデザイン館&童画館  アート日和のできごと

イスラエル国立美術館、ミュンヘン国立応用美術館、国立国会図書館、武蔵野美術大学美術館図書館他に永野宏三の主な作品が収蔵。

猛暑とおばあちゃんペース。

2011-07-30 09:51:14 | 日記・エッセイ・コラム
朝はあいかわらず冷え込みがありますが、日中はかなり暑く蝉の声もせわしくなって、積乱雲もようやく張り出して夏空らしくなってきましたが、関東・東北、朝鮮半島では大雨の被害が深刻なようです。どうしたのでしょうか、ことしは天地に異変が重なって重苦しさを感じます。尋常ではないですね。鎮魂を願うばかりです。
きのう炎天下の通りを歩いていたら、歩道の脇に高齢者のおばあちゃんが座りこんでいました。歩道の上はかなり暑く木陰にいるわけでもなく、日傘もさしていません。「だいじょうぶですか」と声をかけると「だいじょぶ」と、はっきりした声がかえってきました。話しを聞くとお孫さんと待ち合わせいるらしく待てど時間がかかっているそうで、おばあちゃんの方法でからだが消耗しないようにと座っているそうです。「携帯で連絡とりましょうか」とすすめましたが、「いや結構です。ご心配をおかけします」と遠慮されました。木陰に行くようにすすめ、しばらく付き合っていると小学生らしいお孫が汗だくでやってきました。おばあちゃんは熱中症の症状は出ていない様子でほっとしました。おばあちゃんは自分のペースでやっているようです。暑さ対策は自分ペースがいいのかもしれません。



あの頃、いつか見た風景。

2011-07-24 20:29:59 | アート・文化
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あめんぼう。〈C〉著作者:永野宏三・ひろみプロ


何でもありの今の時代でありますが、:それは、あやふやで現実感が乏しいデジタルな社会構造が成せる疑似的な仮想空間の空ろで曖昧なファジーの時代でもあるのかなと思います。
あの頃は何にも無かったけれど、花鳥風月な世界に生きていました。



夏の中身。

2011-07-21 05:29:00 | 日記・エッセイ・コラム
台風のせいもあるかもしれませんが、このところ天候がおかしいですね。今朝は冷え込んでしまってタオルケットでは寒く、早く目が醒めてしまいました。
おかしいといえば、ことしは梅雨が明けて夏になっもて積乱雲をあまり見ません。天気がいい時はすかっと抜けた青空だけで、陽射しだけがからだに降ってきます。そして蝉の音もそんなにうるさくなく、本格的な夏という季節をそんなに感じません。深夜とか朝方には鈴虫らしき音が聞えます。
先日の休みに孫をプールに連れて行ったのですが、プールで遊ばせた途中、休憩で上がらせたのですが、水の外よりプールの中が温かいと云って、すぐにプールに戻ってしまいました。
三月の大地震以降、日本はいろんな場面でおかしくなったような気がします。なんか骨の芯が抜けてふやけたような感じで力が入って無いようなイメージです。天候もそのせいではないとは思いますが、放射冷却状態になっているのでしょうか。
こんな中ホークスと大相撲、そして女子サッカーだけが元気と明るさを蒔いているようです。



幻想都市、MOJIKO。

2011-07-17 10:03:21 | アート・文化
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MOJIKO 〈C〉著作権者:永野宏三・ひろみプロ

全国的に門司港と云えばひとつの地名に思われているふしがありますが、行政区のひとつである門司であり、実際には門司港と云う地名はありません。門司港という名称を使っているのは鉄道駅の『“門司港”駅』だけであります。
明治以来、国策として国際港を築港してきた港を門司港と云い、この港に直結した基点の駅が門司港駅となり、それが街のイメージを形成してきたのでしょう。
門司に住んでいる住民からすると、この区を大別して門司港地区と大里地区に分けて認識しています。
門司区には三つの駅が存在していて大里地区には門司駅があり、日常生活には便利なところです。
大里地区の海岸線沿いには古いレンガ建ての建物が今も残ります。砂糖工場や酒造工場・鉄鋼工場、かつては製粉工場・ビール工場など幾つもの製造関係の工場がありました。これらは戦前に日本の大商社であり大財閥の鈴木商店が興したものだと云われています。
町の古老から聞いた話ですが、北九州市に新幹線の駅をつくる時に、この大里にある門司駅をホームにすると云う計画があったそうです。門司駅の地下に新幹線駅をつくり、現在の駅前にひろがる商店街あたりを東京の銀座のような街にすると云う壮大な計画が立てられたそうです。
話しは門司港に戻りますが、門司港の街はエネルギー・交通の変革と、そして先の大戦といつの時代もいろんな場面で翻弄されてきた街と云えると思います。
いつの時代もですが、時代は夢を見て時代を動かし時代をつくる。かつての門司港もそうであったように、大正から昭和初期にかけてのGNPが東京よりも門司港が高かったそうです。人がどっと集り、さぁ~っと退いていく。当時、全国各地から夢を見て集ってきた人々が門司港、そして門司という幻想都市を一時代につくったのかもしれません。




いつか見た町の風景。港駅・門司港。

2011-07-12 09:29:58 | アート・文化
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港駅・門司港。〈C〉著作権者:永野宏三・ひろみプロ


鹿児島本線は門司港と鹿児島を結ぶ九州を縦断する本線です。
門司港のふたつ手前に門司があります。この駅は本州下関に行く分岐点になります。先日、電車に乗ろうとしたら中年女性のグループがワイワイいいながら門司のホームに降りようとしていました。内ひとりの女性が「ここは門司港レトロじゃなさそうよ」と、他の女性を引き止めていました。たぶん小倉で新幹線から在来線に乗継ぎ、門司港に観光に行く途中なのでしょう。発車寸前でしたが、あわてて元に戻っていました。
小倉から門司、そして門司港終着に乗るとなぜかどこか遠い見知らぬ町に来たような感じになったり、また、故郷の町に帰ったような感じになります。終着という駅がそんなメタファーな気持ちにさせるのでしょうか。終着5番線ホームはいつか見たこころの風景であります。唄にありましたね、「♪上野はおいらのこころの駅だ~」。あの唄の持つ中身というかイメージとは、駅の世界がぜんぜん違いますが、なにかしら、門司港は懐が広く母のような駅の存在なのであります。それは、ひと昔の時代、大陸に繋がっていた港が育んだ駅だからでしょうか。
門司港の駅舎から一歩出て、港や山手の景色にぐるっと視界を持ってみると、なぜかひとつの独立した国ではないかと思ったりします。小倉とか福岡の都市なんかとくらべると、門司港はどちらかといえば町全体が箱庭のような小さい町なので、その入口にある駅がそんな気持ちにさせるのでしょうか。車で道路幹線を走ってこの町に入ってもそんな感じには決してならないのです。