永野宏三のデザイン館&童画館  アート日和のできごと

イスラエル国立美術館、ミュンヘン国立応用美術館、国立国会図書館、武蔵野美術大学美術館図書館他に永野宏三の主な作品が収蔵。

緑鮮やかに。

2009-05-31 08:16:01 | 日記・エッセイ・コラム
室町西小倉駅から九州厚生年金会館まで向う。あらためて小倉城周辺の景色を観察してみると、以前とは随分と街の様子が一変していることにきずく。またどこの都市にもある中心部の再開発と同じように街が新しくなって綺麗になっている。清潔で安全な街ということだろう。でも、東京や福岡の都心部の街の風景と同じで小倉らしさというか、情緒面ではあまり個性は感じない。国の施策で均一に全国ユニバーサルで同じに安全な街づくりということだろう。いわば街のデザインという点では無個性に写る。小倉城の堀を歩いていると石垣の上に新緑が目にここちよい。この風景は昔と同じままで、ほっとする。西小倉駅近くには歴史のあるお寺があり、情緒ある佇まいを見せてくれるところもある。小倉城から大手町あたりは旧陸軍の用地だったところで、町に歴史があるところだ。以前はこの周辺にもっとも小倉らしさを感じることができた。たえず変化して活性するのが街なのだろうが、小倉らしさという町の情けがなくなっていくのは寂しい感じがする。

想っても街のビジョンとかわされる



目。

2009-05-28 09:45:53 | 日記・エッセイ・コラム
久しぶりにOさんから電話がある。どんよりとして停滞ぎみの社会状況のことを話していた。気分的にどこも同じような感じを受ける。デジタル社会になって情報手段ががらりと変り、あらゆるコンテンツの価値観が変化して社会を動かす起動が迷い、中途半端に彷徨い始めているのだろう。社会が気分的にダークになっているのはそのせいのような気がする。
福岡のある人材派遣会社から、一時的でもいいからデザイナーを採用してくれないかというダイレクトメールが送られてきた。人材のリストを見るとほとんどが、24から40歳までの女性デザイナーである。経歴は短くて4年。長くて10年くらいだ。それそれ得意項目をアピールが書いてある。ほとんどが、DTP作業やWEB作成である。クリエイティブなアピールはない。デザイン作業そのものがシステマチックになってきているからだろうと思われる。専門学校や大学で勉強しても、時代からしてデジタルデザインの即戦力として教えこまれているのだろう。デザインはものを考えて新しい価値観を生むことなのだが、プロ意識がDTPやWEBパソコン操作のみの狭い範囲になってきているのだろう。
社会の構造がもやもやと彷徨っている。

饒舌な麻と鳩の目つきがよく似てる



絵具は幻視する。

2009-05-27 14:18:34 | 日記・エッセイ・コラム
僕は絵を描く。日常はデザインの仕事をしている。デザインは平面の上に理想のカタチを視覚的な技法で設計して、見る人にテーマとその目的を伝えるグラフィックデザインである。
絵を描く行為は、日常の生活で目に見える風景とは違う、もうひとつの世界を見たいために絵を描いている。言わばアナザ・ワールドだ。
いつも絵を描くときには、僕はどこからやってきて、これから先どこに行くのだろうと、未知の世界を探しながら描いている心象風景だ。人はいつか死を迎え黄泉の世界へ旅しなければならない。
今の社会は、大不況とか、新型インフルエンザとか、海の向この国での核実験やミサイル発射とか、不透明な年金問題とか、とっかえひっかえ不安なことばかり伝えてくる。どうして現世はこうも騒々しいのだろう。絶えず社会は毎日が不安でないと人は生きていけないのだろうか。
絵は自分の想う世界を描いて、その世界を旅することができる。郷愁の世界にも行けるし、見た事もない経験したこともない明日の世界へにも自在に行ける。アナザー・ワールドは自分にある。

黄泉の国ここまで来ないだろうあの人は



生地。

2009-05-26 18:56:18 | 日記・エッセイ・コラム
先日、洗濯機とアイロンが壊れて買い替えたら、今度はテレビの調子がおかしくなった。そんなに古いものではなかったので購入したお店に連絡をとって、手をいれてもらつた。2年後に地デジとかというものに変るということで、政府が、今、エコポイントをつけるからテレビやら冷蔵庫を買い替えろと指導しているが、そのためのしっかりした対策はとられていない。見切り発車だ。先日も野党の女性党首がそこのところを厳しく政府に問いつめていたが、担当大臣はのらりくらり答弁していた。僕はその様をテレビで見ていて思わず吹き出してしまった。何がエコか!。地デジ対応のテレビだと消費エネルギーは増すし、今使っているテレビの廃棄処理はどうするんだろうと。メーカーは日本中のテレビを買い替え需要に応えることができるのだろうか。
今日、テレビをさわってもらったら又綺麗に画像が見えた。当分買い替えの必要はない。映像はデジタル化して多チャンネルしているが、情報はいろんな手段を用いて自分でセグメントすれば良いから、インターネットで仕入れて、テレビは適当におもしろいものがあったら見ればよいかなと思う。また、街に出て人と会話して生の情報をとるということもできる。一日一生。

買い替えろ!お国は言うが痔出ジでもないし



街の活気は人がつくるもの。

2009-05-25 05:49:19 | 日記・エッセイ・コラム
門司港の友だちに、港まつりに遊びに来いと誘われ、何年ぶりかで行った。歳を重ねるとお祭りといってあまりそのような行事に行こうという気は薄れている。海岸で友人とおしゃべりをビール片手に楽しんでいたら、門司港駅前が騒々しくなってきた。パレードが動きだした。パレードは子どもが小さかった頃連れてきた以来だ。通りを眺めていると、パレードそのものにあまり活気がない。マーチング以外は音もあまりないし、パレードに参加している人の顔はなぜか笑顔がなく整然と固い表情で歩いている。先頭の車に船乗りの格好をした県と市の議員がつくり笑いのいわゆるご愛想見え見えで手を振っている。たぶん地元での仕事のひとつだろう。こころから祭りを楽しんでいるような雰囲気ではない。たぶん企業のひとたちも休日返上で仮出されているのだろう。見学の人たちの数もほどほどだ。見学していたおばあちゃんが「こんな活気のない祭りはおもしろない。昔の港まつりはこんなではなかった。仮装行列が見ものだった。」話しかけてきた。思い出してみれば、以前は商工会議所や観光協会が先頭を景気づけに先導していたが、そのようなことはなくなっていた。列の長さも以前に比べたたら短くなっている。時勢もあるし時代の流れと言ってしまえばそれまでだが、地元を知っている人から見れば寂しいものに違いない。また西海岸に引き返し、おしゃべりをつまにビールを楽しむ。初夏の海峡の風が心地よい。

似合んばいパレードの地元議員のつくり顔